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第六章
夏の強い陽射しが庭にある大きな木にちょうどよく遮られ、カイは美しい木漏れ日を頭から浴びながら魔術に関する古い学術書を読んでいた。
夕暮れの近づくこの時間は昼間より幾分過ごしやく、ミアが夕餉の支度をする少しの間だけ自分に休憩を与えることにしたのだ。
本当なら最新の物を読みたいところだが、あいにく魔塔が所持する新しい見識や技術はなかなかカイの手元まで届かない。
国や魔導師側がどういう動きをしているのかさり気なく探りたかったが、やはりエリアスを通してしか情報は得られそうになかった。
もとよりミアに言わせれば、庭先で読書するのに学術書は合わないとのことだったが、カイにとってはすでに自分の分身とも呼べるくらいには身近に感じている魔術についての本なので、感覚的には小説や童話を読んでいるのと大差はないのだが。
けれどカイは、そらで言えるくらいに読み込んだそれの内容が先ほどからまったく頭に入ってきていないことを自覚して、小さくため息をつく。
あれだけエリアスに煽られておきながら、カイの日々は相変わらず単調に、平和に過ぎていた。
ヴィンセントの縁談の話にしても、あれは嘘だったのかと思われるほど、本人からはなんの音沙汰もない。
もしかしたら知らぬ間に婚姻して結果だけ報告されるのだろうか。
カイは不意にそんな焦燥に駆られ、重力に負けた前髪を掻き上げる。
正規軍候補生になる、と言われた時も全てが事後報告だったことを思えば、無きにしも非ず、と苦々しい気持ちになった。
「あんた……またこんなところでそんなもん読んで。へばりますよ」
突然そんな言葉が頭上から落ち、カイは驚きとともに慌てて顔を上げる。
そこには、今まさに自分を悩ませていた男が腰から上体を折ってカイを見下ろす顔があった。
「…………ヴィンス」
「なんだ、久しぶりに聞いた」
声音からなんとはなしに不機嫌なのだろうと思っていたのに、咄嗟に愛称で男を呼んだカイに、ヴィンセントの穏やかに微笑んだ顔が降ってくる。
不意に崩れた口調と、相合を崩した表情は凄まじく、別の意味で心臓が跳ね上がった。
女性はきっとこういう顔に弱いのだ。
カイは必死に心を落ち着かせると、身体を少し引き、恨みがましく言った。
「おま……おまえは、また急に。もっとこう帰ってくるのに予告とかできないのか」
「は? なに言ってんですか?」
「いや、だからいちいち突然なんだよ」
自分でも言っていること滅茶苦茶だと承知していたが、こうしていちいち驚かされる身にもなって欲しい。
誤魔化すようにそっと立ち上がると、ヴィンセントは特に気にしたふうもなく、夕餉の匂いが漂う方へ顔を逸らした。
小さな家から温もりが漏れる瞬間の、こういう優しい時間が唐突にカイの胸をぎゅっと締め付ける。
「飯、食っていっていいですか。いい匂いがする」
「ミアに聞けよ。朝から仕込んでたからな」
穀物を挽いて粉状にし、木の実から取れた油と水で伸ばした生地を型にはめる。それから野菜と貴重な干し肉を敷き詰め、香草をまぶしてじっくり焼き上げるのだと、後ろ姿がぽろぽろと零していた。
もしかしたらミアはヴィンセントが来ることを承知していたのかもしれない。だったら一言くらいなにか言ってくれてもいいものを。
真相は余さず後で聞き出してやろうと、カイがそっと木の影から踏み出すと、それは不意打ちに視界へ飛び込んできた。
「は? ……おま! ……髪が……! また血を飲んでないのか?!」
カイの意識を捉えたのは、白銀に染まりつつあるヴィンセントの髪だった。
勢いのままカイがヴィンセントに詰め寄ると、相手はこともなげに平然と言う。
「え? ……ああ、飲んでますよ、ちゃんと」
「足りてないだろ!」
「足りてますよ。限界くらいわかってます。多少白むくらい平気です」
まさか一月以上前に庭先で会った時から一度も飲んでいないわけはないとは思うが、王宮を一度出れば数週間帰ってこられないこともざらにある。
また放置していて何かあったら遅いと言うのに、カイは怒りにも似たこの感情のやり場に困り、ぐっと喉を鳴らした。
「カイ、そんなに心配しなくてもあなたの思うようなことは起こりませんよ。そもそもいつも気づくのはギルかあんたくらいだ」
なぜか諭すように宥められ、自分がさも間違いを言ってしまったかのような気持ちにさせられる。
けれどもとよりギルバートに露見している時点で、なにも大丈夫ではないし、平気でもないはずだ。
カイが言い募ろうと口を開きかけると、ヴィンセントがそれを遮るように話を逸らした。
「手袋を」
「あ?」
「手袋です。今日はしていないんですか。してくれたんでしょ」
指先を示され、カイも追うように視線を落とす。手元はいつも通りの黒いそれに包まれていた。
言外に、「俺が渡した手袋」を指し示され、またもカイは眉根を寄せる。
「……なんで知ってるんだ」
「まぁ、秘密の情報提供者のおかげですかね」
「おまえらな!」
どうせそれもミアのことだろう。一体いつ話をする機会があるというのか。
はたと、もしや文でもやり取りしているのか? と思いかけ、カイは頭を振る。
まさか恋人同士でもあるまいし、と否定しかけて、けれどミアとヴィンセントの間柄ならおかしくもないかと変に納得した。
カイがため息にすべての諦めをのせると、ヴィンセントは得意げに小さく唇の端を上げる。
おかしな空気になりかけたがヴィンセントはどうせ飯を食っていくのだ。
帰り際に無理やりにでも血を飲ませる、そう内心で誓い、カイは一人で歩き出した。
「カイ」
「なんだよ」
「街に行きませんか」
その言葉の意味がすぐには理解出来ず振り返ると、意外にも真剣な顔がそこにはあった。
数歩も歩かず足が止まり、すぐ近くまでヴィンセントも寄ってくる。
「街?」
「収穫祭があるでしょう」
「秋のあれか?」
「そうです、行きませんか」
一瞬風に煽られた髪をそのままに、ヴィンセントがこともなげに言う。辺りは夕闇に染まりかけ、視界の端で空が橙と紫のグラデーションを作っていた。
確かに、こうして日々が秋に少しずつ移り変わりそれが深まる季節になると、城下の街は冬の静けさを前に羽を伸ばすようにして、穀物の豊穣を感謝し収穫祭を大々的に執り行うのだ。
他国からの行商も積極的に受け入れ、祭の前後一週間は城下町の中央広場を起点にした大通りを様々な屋台が彩り、往来では楽器も自由に演奏されるらしい。
国王の不振と世情の悪化に伴って民衆の生活も日々不安定な状態ではあるが、祭自体を縮小すれば他国へそれを示す材料にさせてしまう為、政治的な面からも去年と同様の規模で開催されるのだとカイも聞き及んでいた。
とは言えすべてが他人が噂する域をでず、今までのカイには全く関係のない出来事だったが。
「お前、忘れてないか。俺はここから出られないんだぞ」
「出られなくないでしょ。俺がなんとかします」
「なんとかって……」
「軟禁されてる訳じゃないんですよ。姿を隠せとは命じられているけど、ここにずっと引っ込んでいろとは言われてない」
それは、揚げ足のとりすぎてはないだろうか。
確かにヴィンセントやミアと暮らす直前のような、常にどこかの一室に鎖で繋がれ監視されている状況ではない。
けれど存在を秘匿すると言うのにも、案外解釈によってさまざまな語弊が出てくる。
ヴィンセントのように表向きには対の鍵だということは隠しながらも、騎士として身分を明かしている場合や、ミアのように、隠されてはいなくともその存在をあまり知られていない場合。
もしくはカイのように、その存在事態を秘密にされている場合。
そもそもカイには自分を隠されても周りに騒がれるような身分や権力もないのでたいした問題にはならなかったし、不老不死の化け物がまさか王宮内に居るなんて誰も考えたくはなかったのだろう。
だからこそ、カイ自身も身を潜めていた方がいいと思ったのだ。
「……そんなに先の話、約束できない」
「別に、その時に無理なら無理でいいです」
「そんな……適当だな。お前だっていつここに居るかわからないだろ」
「まぁ、そういうことですよね……行けたら、でいいんですけど」
言葉尻を言いながら、ヴィンセントは顎を撫で考える素振りを見せた。ちらとカイを見やり、選択を預けようとする。
ヴィンセントはいつだってそうだ。
最後には必ずカイに選ばせ、どんな決断をしようと、カイがどんな生き方をしようと決してそばを離れずカイを気遣う。
それはあの時 を除いて今も続き、ときたまカイにはそれが息苦しく後ろめたく感じるのだ。
もう、解放してやらなければと思う。
反面、何も変化せず朽ち果てるまでこのぬるま湯に浸かっていたい、そんな妄想にも駆られる。
「お前、俺じゃなくて、もっと……居るだろ。縁談するんだろ?」
とうとう言ってしまえば、ヴィンセントは珍しく驚いたようで一瞬目を瞬かせた。
じりじりと返答を待つカイを余所に、なぜか小さく困ったように笑う。
「なんだその顔は」
「別に。そんなこと気にしなくていいのにな、と思っただけです」
「そんなことって」
「そんなことですよ。……で、行くんですか、行かないんですか」
問いかけながら、カイの髪を撫でるように伸びてきた手がすんでのところで不意に止まった。
自分の行動に驚いたような顔に、ふとカイは視線を上げる。
お互い意識せずいた動きは不自然に停止したそれのせいで、一時奇妙な溝を作った。
ヴィンセントは、決してカイに触れてこない。
こうした瞬間に思い知るのだ。カイはそれをよく知っている。
「行くよ」
挑発的に相手を見据えても、お互いの間は埋まらなかった。
カイは不意に、大きな身体でカイの背にぴたりと寄り添っていた体温や、毎夜、遠慮がちに回った腕と項に掛かる柔らかい呼吸を思い出す。
いい歳をした大人が、本当はその熱に縋って慰められた日々は、あの日 を境に呆気なく終わった。
ヴィンセントが、カイの項を貪ったあの日。
多分それは、ヴィンセントが身をもって経験し思い知らされた現実を、正確に把握した瞬間に違いなかった。
「そうですか、……ついてました」
そう言って今度こそ、風に乗って髪に落ちてきた葉をヴィンセントがとってくれる。
カイはそれを一瞥して、そっと奪うとまた風に乗せた。
そんな二人の曖昧な空気を遮るように、不意にカイの肩へ柔らかい巻き毛が落ちてくる。
いつもタイミングを見計らったように現れるのは、決まってこの猫だった。
「そんなの私がとってあげるのに」
みゃぉん、という響きと鈴のような声が混ざりあって耳元を掠めると、カイはうんざりしながら、首に回った腕から逃れるように体勢を逸らした。
背後を見れば件の猫は、人間の姿に耳と尾を残したなんとも中途半端な見た目で擦り寄ってくる。
おおよそ、また木の上で昼寝をしていたとでも言うんだろう。耳と尾が出しっぱなしなのは、気まぐれに冷かそうと思いつきで姿を現したせいなのかもしれない。
「おい、離れてくれ。いつから居たんだ」
「いつだって居るよ? 私は魔女の子供だからね」
またそうやって口からでまかせを。半ば諦めているとはいえ的を射ない会話をカイは基本的に好まない。面倒くさいし、……面倒くさいからだ。
約百五十年前の、アルテリアとの国境堺で起きた混乱期にふらりと現れ、それからというもの、リリーに直前までの会話や余韻をふいにされたことは数しれない。
例えば本当にリリーが魔法師の【使い魔】だったとして、その主はこの猫に場の雰囲気を読むという行為を教えてなかったのだろうか。
どこかに居るのかもしれないそんな主人を思って、カイはため息をつく。
「リリー、魔女なんて簡単に口にするもんじゃない」
「そうですよ、この国でどんな扱いを受けるかあんたは知らないんですか?」
「もう、うるさいな。あなただってそれに助けられているじゃない」
意味のわからない言葉にカイが内心頭を捻ると、なぜか目の前の男が軽くたじろいだ。
てっきりリリーが口からでまかせを言ったのだと思ったのに、ヴィンセントのリリーを忌々しいものを見るような顔つきには、咄嗟にカイのことも目に入っていないよう見える。
カイは、なにか大事なことをお互いが懸命に隠して触れないでいるような、そんな気持ちの悪さを覚えたが、けれどそれも、リリーの一言で掻き消えてしまう。
「ねぇカイ、代わりに何をくれる? カイがいいなぁ」
「はぁ? なんの話をしてるんだ」
「葉っぱを取ってあげるって言ったでしょう。カイが望むなら、なんだってしてあげるよ」
「いや、いい。いいから離れろ、こら!」
リリーはカイの頬を掬うと、こともあろうにそこをぺろりと舐め上げた。するとカイの文句を遮るように、ヴィンセントが声を荒らげる。
「おい! なにやってんだ!」
「あはは! 羨ましいんだ! ねぇ、ヴィンセント、触りたい? カイに触れたいんでしょう」
「うるさい……あんたいい加減にしろよ。その腕をどけろ!」
「こら! 喧嘩をするな! お前も安い挑発にのるんじゃない、ヴィンセント」
ヴィンセントはじわりと白目を赤く充血させ、リリーを睨み据えている。
余裕がない時に興奮したりすれば余計に自分が辛くなるだけだというのに、少しくらい、たまにはカイの言うことを聞いて大人しくしてくれないものだろうか。
「リリーがこうなのはいつものことだろ? 落ち着けよ」
「ヴィンセントは怖くてカイに触れないんだもんねぇ」
「リリー! お前は黙ってろ! ヴィンス、おれはそんなこと気にしちゃいな……っ」
い……と続くはずだった言葉は、無遠慮な力でヴィンセントに引き寄せられたことで途切れた。
赤い怒りを湛 えた瞳が、カイを貫く。
一瞬の出来事にただされるがまま呆けて見上げると、ヴィンセントの顔がぐしゃりと歪んだ。
「あんたの……そういうところが嫌いだ」
言ったと同時に、掴まれた箇所に力が入り抱き込まれる。
犬歯が肉に食い込む感触を感じ、噛み付かれた腕からじわりと熱が広がった。
ヴィンセントはリリーの「ひゅー!」と言う冷やかしも聞こえないのか、無心にカイの血を貪っている。
「……っ」
ビリビリと腕を上がってくる痺れに顔を歪め、カイはその永遠にも思える一時を懸命に堪えた。
いつか。いつか、この男に喰われる日がくるのだろうか。
喉元に喰いつかれて、血肉を貪られる。自分があの男にしたのと同じ ように、無慈悲に。
どこまでも悲しい命のやり取りをするだろうか。
「…………ヴィンス」
「…………」
カイの小さな声に顔を上げたヴィンセントは、唇から赤い血を滴らせ、欲に濡れた瞳でカイを射る。
この表情は、怒りなのか、後悔か。いつだってこの男はカイの血を得る時、身体中でカイを欲しながら、それでも全力で拒んでいる。そんなふうに感じられた。
しばらくお互い黙ったまま視線を交じ合わせていれば、ヴィンセントの赤い白目が徐々に通常に戻ってくる。
口元を手の甲で拭いながら下を向いたヴィンセントが大きく息を吐くと、白銀に透けた髪の色も淡い金色に包まれた。
「おい……美味かったのかよ?」
カイが少しの不満と冷やかしを込めた口調でいうと、不機嫌な視線を隠さないヴィンセントがふたたび強い眼差しを向けてきた。
食われたのはカイの方だというのに、このいたたまれないもどかしさをやり過ごす術をお互いは知らない。
「……なんだよ、茶化してやったんだろ」
カイの言葉に、ヴィンセントは一言も返事をしないまま背を向けた。
カイは、漂う緊張感を払拭したい一心だったのだ。
全身で求められることが妙に心を浮つかせ、どこかで愛おしく感じるのが後ろめたかった。
普段触れられることはなくても、まだ、ヴィンセントに必要とされている名状のしがたい安心感。
カイは自分を傷つけるヴィンセントに、そうやっていつだって救われる。
小さくなりつつある後ろ姿を、白い猫が追うのを視界が捉えた。
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