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第七章

第七章  カイの世界は、空腹と、痛み、それから数種類の決まった匂いに満ちている。  四つになって少しした頃、はした金で両親に売られてから十年と少し。  正確な年月はもうずっと前にわからなくなったが、何度か主人を替え、いたるところを転々とした生活を送りながら、今度の場所はずいぶん、水の匂いがすると思った。  狭い奴隷小屋の中では、奴隷商人が商品(・・)を効率的に管理できるよう、自分たちはそれぞれの檻の中で過ごす。  けれどその、不衛生で、陰鬱とした日常にまるでまとわりついてくるようなこの湿気は、カイはあまり得意ではなかった。  今日もきっと外は雨で、だから主人も機嫌が悪いのだろう。いつもより水の匂いが濃いのはそのせいだ。  カイは、雨がずっと降り続いているものと思っていたのだ。さぞ、外は水害で大変なんだろうと。  怒鳴り散らす男の声が空間にたびたび反響する中、目の前で自分の目の高さまで腰を下ろした男の髪が、暗い室内に溶け、さらりと揺れる。  雨は? と思った。そして、翡翠の瞳が、朝露に濡れる美しい庭を思わせた。  木漏れ日が差し、光に滲む空気の中、小さな鳥の鳴き声と小動物が戯れる庭。  カイはそんなものを見たこともなかったのに、なぜか、初めて【ウィンター】に会ったその時、そう感じたのだ。 「この子、名前は?」  不意に発せられた小さな声で、カイの妄想は瞬時に霧散した。  男の後ろで、主人が若干の苛立ちを見せ腕を組み直す。  いつの間に、男がカイの目の前にきたのかわからなかった。  ずいぶん飾り気のない見た目から、あまり人を買うという行為が繋がらずカイはそっと相手を見上げる。  淡い生成色をした厚手のシャツに、黒のズボン。丈の長いローブは裏地がついた立派なものだったが、その身なりはあまりにもえらい人(・・・・)からかけ離れているような気がした。 「忘れちゃった?」  男は、いつまでも返事をしない主人を不審に思ったのか、さっと立ち上がって振り返る。 「は?」 「この子の名前」  ゆっくりと言った声音は穏やかだったが、どんな表情を見せたのかカイには見えなかった。  なぜ、奴隷の名前なんて聞くのだろう。  通常奴隷の身分に名前はない。きっと主も、そんなことを聞く客を初めて相手にしたに違いなかった。  主が一瞬何かに怯み、やがて慌てて奥に引っ込む。あの一瞬で男がどんな手品を披露したのかわからないが、主の様子から他の仲間やカイと同時期に入ってきた残り少ない奴隷の子らに聞きに行ったらしかった。  血相を変えて出ていった慌ただしさに比べると、幾分疲れた様子でのっそりと帰ってきた主は、小さく「カイだ」と言った。 「カイ?」 「そうだ」 「…………へぇ、いいね。いい名だ」  その時に見せた微笑んだ表情が酷く印象的だった。  振り返った相手をカイは見上げたまま、初めて、翡翠の瞳が光の加減で色を変えるのだと知る。綺麗だなんて、まさか自分の中にそんな感情があることにさえ気づかなかった。 「君の名前、鍵を守る人、という意味だよ」  ふたたび腰を下ろし、小さく囁いたその男は、何も言わず、表情も変えないカイを優しく見つめた。  鍵を守る人、という言葉に男自身が喜ぶような振る舞いが酷く不思議に映る。  カイは小さな集落の貧しい家の末っ子だったが、たまたま家屋の近くに国境を守る砦があったことから、目についたままにカイ(砦)となずけられたのに。  その言葉は、カイに向けて放たれた緑陰の瞳を持つ男からの確かな意思だった。 「支払いはどうすれば?」 「は? あんた金はねぇのか」 「いいえ。ただ、薬や食料が足りていないのではありませんか? 日持ちする食料を用意します。薬も、他のものと比べれば少しは役に立つはず」 「物々交換はやってねぇ。金がないなら他を当たるんだな」  腰を下ろしたまま振り返った男をよそに、主は意趣返しのごとく、途端に苛立ちをあらわに顔を歪める。  余計な手間をかけさせやがって、と思っているのだろう。踵を返した主の背に、男がそのままの調子で言葉を繋げた。 「すぐにこの子をくださいませんか。今がいいな」 「あぁ? あんた話は聞いてたのか? 冷やかしなら帰っ……」 「僕、魔導師なんです」  言下に放たれた言葉で辺りが一瞬しん、と静まった。  主人が小さく「は?」という声を上げる。  カイにとって魔導師とは、なんとなくすごいことができる人、くらいの知識しかない曖昧な存在でしかなかったのに、こんなにも主が驚いたのが意外だった。  本来身分の高い者への引渡しは身なりを整えてから行うのが通例なのに、けれどその日カイは、自分の(あずか)り知らぬ所で淡々と進んだ商談のおかげで、西の空が傾ぐ頃には、見たことの無い場所に佇んでいた。 ***  雨が降ってない。外に出た時、カイはまずそんなことを思った。  長らく身を置いた奴隷小屋を呆気なく去ることになったカイが、ここへ来てから一度も開けたことのない唯一の出入口に手をかけると、肌を刺す寒い冬の空は淡い水色に晴れ渡り、太陽が午後の長い影を薄ぼんやりと作っていた。  なぜ晴れの日やくもりの日があることを忘れていたのか、空はこんなにも広いのか。  カイは驚きのまま呆気に取られ立ち止まると、男にそっと背を押され、やっと促されるまま歩き初めた。 「こっちだよ」  小さく告げられ、何かを躊躇する暇もなく背を追いながら大通りに出れば、二頭立ての幌馬車が待機している。  まさかそれに乗るのか、と思った時には、相手は何事もなかったかのように馬車へ乗り込み、さっさとそこへ腰を下ろしてしまった。  ふたたびどうしたらいいのかわからず立ち尽くせば、ひょいと顔を出し手招きされる。  カイはただ怖々(こわごわ)と男の指示に従い、そう言ったやりとりを何度も経て、たどり着いたのが森深くにある小さな家だ。  生成色の土壁と、赤い焼き物が折り重なるようにして積まれた三角の屋根があるその家は、食事を作るスペースと、居間、それと奥に扉が二つあるだけのこじんまりとした物だった。  印象的だったのが、玄関を開けてすぐの片側一面を覆い尽くす、難しそうな書物の山だ。  それから、無造作に整えられた庭先と鬱蒼と茂る緑。  どれもが、どことなく現実感に欠けていた。 「さて、まずは軽く湯浴み……あ、でも着替えがないな。まずはご飯にする? カイ、好きな食べ物はなに?」  隣に立っていた男が、カイをみて何事かを捲し立た。  実際には独り言も含めてばらばらと話をされただけだったが、カイにはそれを理解する余裕は残っていない。返事もせずただ見上げただけのカイに、相手は首を傾げ、頭一つ分高い身長を屈めた。 「……やっぱり、身綺麗にしてから食べたい? あ、言い忘れてた。僕はウィンター。ウィンター・シュヴァルツです」  あの温かい微笑みを向け、男がウィンターと囁く。  ウィンター。  その名前だけがやっと意味を持つ言葉になって、カイの頭の中に響いた。  その髪とローブのせいで、黒一色の見た目に、翡翠だけがキラキラと輝く。 「僕は先に湯浴みがいいと思ったんだけど。君は結構汚れているし……どっちがいい?」  だが、不意に何かを選ぶような問いかけをされ、カイは咄嗟に頭を振った。  今まで何かを一方的に与えられても、選ぶ余地なんてなかったのだ。選ぶ資格も権利もカイには与えられていなかった。  カイは自分の失態に、次の瞬間にも頭上から降ってくるであろう怒声に備え、身を固くした。 「それは……どっちの意味だろう。選べないのかな」  ぼそりと呟くと、ウィンターがふい、とその場から居なくなる。  棒立ちのまま視線だけで追えば、奥でなにやら火にかけ、あっという間にまた戻ってくるところだった。  きっと今度こそ()たれるのだ。そう思う。  もしかしたら、火にかけたそれを使って折檻されるのかもしれない。 「えっと、僕はとりあえず汗を流してくるね。そしたら、その後ご飯を食べる。それが終わったら、多分本を読んで寝ます。仕事は残ってるけど今日はやらないと思う」  ぎゅっと目を瞑って衝撃に備えた頭に、けれど痛みは落ちてこなかった。  部屋には温かい空気とともに、嗅いだことのない美味そうな匂いがじんわりと漂い、カイが顔を上げた頃には、すっかりウィンターの姿は消えていた。  一体、何がどうなっているのかわからなかった。  目の前に来て何か宣言されたかと思えば、その後もずっと、本当にウィンターは黙々とそれらをこなし、自分はただ家に入ってから身動ぎもせずに男の様子を伺っていただけだ。  ただ、叱責されることが恐ろしかった。むち打ちか、それとも、あの綺麗な手で直接叩かれるのか。  痛みには慣れても、恐怖は拭えない。 「カイ、疲れてない?」  ふたたび唐突に話しかけられ、またもカイは身を固くした。  小さく頭を振り、今できる精一杯の意思表示をする。  相手の癖なのか、それとも自分が不用意に悩ませているせいか、気がつけば目の前に佇んでいたウィンターが、顎に手を当てそこを人差し指でさわりと撫でた。 「まぁ……それならいいんだけどね? 僕は寝るよ? 君も寝ない?」 「え?」 「あ、やっと声が聞けた」  瞬間、とうとう小さな疑問符を投げたカイの声をウィンターは聞き逃さなかった。  ぱっと勢いよく自分の口を両手で覆うと、それに驚いた男が慌てて止めにかかる。  指先に、初めて触れたウィンターの手が冷たかった。  冷たくて、なぜか水を温めもせず、急いで湯浴みを終えたのだと思った。 「……なんで」 「ん?」 「なんで?」  まともに絞り出した声はみすぼらしく掠れた。  わからなかった。なぜ叩かれないのか。怒鳴られないのか。  なぜカイを置き去りにするのを躊躇うように湯浴みを急いだのか。  無償で何かを与えられるのは酷く不安で仕方がなかった。 「……うん、なにが?」 「おれはなにをすれば……」 「え? 好きにしたらいいんだよ?」  きょとん、と思いもよらないといった様子で返されて、カイは心底途方に暮れた。  そんな、あてもなく難しいことを言わないでほしい。  お互いに無言の時間が続き、やっとカイの視線に気がついたウィンターは、首を傾げた。 「何をしたらいいか、君はわからなそうだったから……僕はいつも通りにした。見ていたらそのうちわかるかなと思って」 「……そんな」 「もしまだわからないなら、わかるまで考えたらいいよ。ただ見ていてもいい……きっとそれが君のやりたいことなんだろ」  こともなげに言ったウィンターは、一度微笑んでからそっとカイの手を取って歩き始める。  数歩も歩かないうちに寝室に近づき、そうする頃には、触れた指先が自分の体温のせいで温かくなった。  好きなことをしろ、と言ったウィンターがなぜ自分を選んでそばに置くのか。  せめて床で寝かせてほしい、と訴えたカイがそう聞くと、ウィンターは「たまには、人を身近に起きたくなったんだ」と答えた。 ***  しばらく暮らしてみると、カイはウィンターがとんでもなく自堕落な性格なのだと知ることになった。  ここはセレンという小さな国で、彼は、その王宮に出入りする宮廷魔導師であると教えてくれたが、カイは他に大勢いるという他の魔導師に会わせてもらったこともなければ、ウィンターがその人らと何らかの交流を持っている素振りもない。  日がな一日机の上で小さな石ころを眺めていたり、そうでなければ庭先の草花を手持ち無沙汰に引っこ抜いては捨て、そうやってウィンターはぼんやりと過ごしていた。  もとより魔導師とはなんなのかわからないカイにとっては、仕事だよ、と言われればもしかしたらそれらのことも彼にとって重要な作業なのかもしれないと納得する他にないのだが。 「頑張るねぇ」 「……ウィンター」  庭先で夕餉に使う為の香草を摘んでいると、不意に背後から声がかかった。  この男は、いつもこうして気配を消して近づいてくる。本人に自覚はないのか、それとも彼の気の抜けた人となりがそうさせているのか。 よそ行き(・・・・)の格好をしているので、今日は王宮に出向くらしい。 「帰りは遅くならないはずだよ」 「わかりま……わかった。またあれを持っていくんですか?」  問いかけに微笑みだけで答えたウィンターは、ローブの袖をそっと一振した。  そこにいつも携えているのは、彼が【雪の結晶】と呼ぶ美しい透明な欠片だ。  本物は時が経つと消えてしまうらしく、それに似せてある程度の時間でなくなってしまうように術を施したものを、王宮に出向くたびウィンターは誰かに贈っている。 「君は、ずいぶん働きものだね」 「……やることがないだけだ」 「それなら、僕みたいにだらだらしていたらいいのに。疲れない?」  自覚はあったのか、カイがそんな内心を隠すことも忘れ相手を見やると、隣へ腰を下ろしたウィンターは、あははと声をあげて笑った。  貧乏性とでもいうのか、とにかく動いていたいのだ。  ウィンターはカイが働いた分だけ、よりもっと、と要求もしてこないし、頭でも身体でも休むという行為にむず痒くなる。  失敗が続いて叱責されたり、殴り飛ばされることが日常だったカイにとって、それは酷く不安で、けれど少しだけ胸の辺りをじんわりとさせた。  ウィンターはどこまでも無関心で無干渉な態度を貫き、カイは居なくてもいいのに、要らないと言われない。 「そう言えばさ、今度クロエ様に会ってみない?」  唐突な言葉にカイが瞬くと、ウィンターのあっけらかんとした表情とかち合った。 「クロエさま……?」 「そう。王宮に一度、連れて行ってあげようと思って。ちょっと内部は慌ただしいけど、まぁ僕らには関係がないし」 「……おうきゅう」  まさか自分がその言葉を口にする日がくるなんて思ってもいなかったカイは、オウム返しをしたまま動きを止める。  そのくらいに縁のない場所だと思い込んでいたのに、ウィンターはこともなげにこくりと頷いた。  内部が慌ただしい、と言った通り、隣国アルテリアの属国であるセレンは、相手側に居る魔法師の存在を危惧して、近々独立に向けて大きく動き出すらしかった。  古くから魔導師を国の中枢に据えたセレンの他、新しい新興勢力に不快感を示した諸々の国が、同じように反旗を翻す機会を窺っているらしい。  それさえも遠い噂話をほんの少しだけ聞き齧った程度だというのに、自分がまさか王宮に出向くことなんて考えもしなかったのだ。 「……あの、クロエ様って」 「ああ、僕が世間ばな…………魔術の基本を教えるのに担当しているお姫様だよ。どうせ暇でしょう? 楽しみにしておいて」  ウィンターは何かを口走り、言葉尻をそそくさとまとめると、さっさとそこから立ち上がった。  カイがその言葉がどこまでが本気で冗談なのか判断できないうちに、手のひらを一振して森の中に消えていく。  お姫様は……魔術なんて習うのか。習うものか。  小さな悪態は誰にも気がれずに風に流れた。 ***  そんなやりとりをして季節が夏も本番に差し掛かった頃、カイは本当に王宮と呼ばれる、凄まじく豪華で立派な場所に足を踏み入れた。  国の成り立ちや規模、人々が変わっても、この景色だけは変わらない、と言われている内部は、繊細な掘りが美しい影をつくる建造物や、どこまでも続いているのであろう長い石畳(手作業で敷き詰められたとは思えない)、広大で生き生きとした色彩鮮やかな庭園に埋め尽くされ、カイは気を抜くときょろきょろと辺りを見回してしまいそうになるのを懸命に堪える。  その点緊張からくる身体の強ばりはいい意味で作用し、不用意に視線を上げることもなく、すぐ目の前を歩くウィンターの後を黙々とついていった。  ウィンターはカイに、王宮へ入る心構えを「何も聞かない、何も話さない」としか教えてくれなかったので、余計なことをして問題になったらまずいと思ったのだ。  高い天井の回廊を抜け、庭先を横切って進む足取りに迷いはなく、まもなく、青々とした緑が鮮やかな庭園の、小さな東屋に辿り着いた。 「殿下、お久しぶりです」  カイがそうと気づく前に、ウィンターが件の相手へ柔らかい声で挨拶をする。  歩き寄りながらのそれは、格式ばった印象はなく、カイは逆にはらはらとその様子を窺った。  石で作られた東屋は、屋根部分が丸く膨らみ、円柱の形をしている。  複数の柱の上部はアーチ型で、近づいてみると、天井には蔦や幾何学の彫りが、床面と腰まである囲いには、淡い色合いのタイルが複雑な文様を描き敷き詰められていた。 「シュヴァルツ様、いらっしゃいませ」  作り付けられたテーブルからそっと立ち上がり、声を震わせたのは一人の女性だった。  ウィンターが、「クロエ様」と呼んだのはこの人なのだろう。  意外にもその様子はカイが想像したお姫様(・・・)とは少し違っていて、クロエは、地味な女性だった。  榛色の髪と灰白色の瞳が大人しげで、下げられた視線が物語るようにまるで存在を忘れられているかの心もとなさに、ふと、クロエが遠い北の地にある国から、召し上げられてきた側室であることを思い出す。  お姫様、と呼んだウィンターの言葉はあながち間違ってはおらず、表向き国交の証として嫁がされたクロエは、まだ年若い見た目から想像できない儚さを感じさせた。 「わざわざご足労頂いてありがとうございます。暑かったでしょう?」 「いいえ。王宮はただ歩いていても暑さを凌ぐところが沢山ありますから……座っても?」 「もちろんです。どうぞそちらの方も」  言葉の尻にさりげなく呼ばれたカイは、不躾に見つめていた視線を下ろし頭を下げた。  クロエの侍女さえ東屋の外で立っているというのに、さすがにウィンターの脇へ伴って座るのは憚られ、斜め後ろに待機する。  一体この組み合わせでどんな会話が成立するというのか。一方は多少めかしこんではいるが気の抜けた雰囲気が拭えないただの魔導師で、もう一方はまるで鳥籠の中で大切に飼われている美しい小鳥のような女性だ。  カイが訝しんでいると、そんなことは露ほども感じていないであろう声がぽつぽつと零れてくる。 「そう言えば、この間部屋を片していたらこれを見つけたんです。遠い南の国で使われているものなんですが、そこは一日中暑い国なので、人々も体力を削られてしまうでしょう。夜遅くに、涼しくなってからの時間を大切にしているんですよ」  言いながらウィンターが差し出したのは、確かについ最近カイが部屋を片していて見つけた小さな工芸品だった。  用途が一切不明だったが、美しい見た目から貴重なものなのではないかと思い、彼の机の上に置いておいたのだ。  手のひらに乗るサイズの、透明なガラスの板のように見えるそれは、けれど指で触ったらパキッと折れてしまいそうなほど薄く、補うように、同じ薄さに伸ばした銅色をした金属の素材が淵を覆っていた。 「これは?」 「まさしく栞です。夜になると綺麗なんですよ」  ふふ、と笑ったウィンターに向いていたクロエの表情が、それを陽に透かすようにした瞬間、ぱっと一際明るくなった。  小さな穴に通った麻紐を持って風に揺らすと、一緒になって、頭の後ろで丁寧に編み込んでまとめられた髪の飾りが瞬く。  ガラスと思われる部分には、透き通るインクで蔦や花の紋様が描かれ、赤や緑の鮮やかさが、ただ見ているだけで美しかった。  まるで、おとぎ話のようだ。  熱を持つ蝋燭の灯りではなく、月と、この栞を頼りに異国の人は本を読み、瞬く星を風の通る窓から眺めて、何かを夢想するのか。  そんな光景がもしかしたらクロエにも浮かんだのかもしれなかった。 「そう、それは美しいでしょうね……」  そうやってクロエが小さく呟いたのを境に、少しの沈黙が柔らかく場を満たした。  カイは、その後も傍らで二人の話を聞いていたが、ほとんどウィンターがどうでもいいようなことを話しているようだった。  興味深かったのは、カイが知りえないような遠い異国の話だ。  視界いっぱいに広がる黄金色の砂の大地や、灼熱の陽射しに、おおらかな人々の活気溢れる声。  氷の国と呼ばれる白い景色と、生きるものの全てがなりを潜めて一様に静まり返った静寂の世界。空から降る結晶。人肌に触れると消えてしまう冷たさ。同じだけ伝わる愛しさ。  もしかしたらウィンターは、それを、クロエに贈り続けているのだろうか。 「そうだ、栞だけじゃなくていつものこれを。暑いので見た目に涼しいですから」  そう言って男が袖の袂から取り出したのは、まさに今カイがおぼろげに考えていた【雪の結晶】そのものだった。  まさか本当にクロエのために用意していたのかと、目を瞬かせる。 「わぁ……綺麗。いつも、本当にありがとう。嬉しい」 「いいえ。あなたの国にいれば本物を持ってきて差し上げるんですけど」 「ふふ、それでも解けてしまうでしょ」 「そうですね。でも、……見たくないですか。僕はたまに、見たくなります」  ぽつりと零したウィンターが、その時どんなことを思いながらそう言ったのか。カイにはどうあってもわからなかった。  様々な場所の言葉、生活、思い出。  それらをいつ、どこで、どうやって知ったのかも想像もできないし、見当もつかない。  けれどそのどれをも凌ぐほどに、本物の雪の結晶をウィンターと、そしてクロエはなぜか同じように愛しているような気がする。  言葉の終わりに小さく「そうね、魔法使いさま」と言った声が聞こえた。 *** 「いたい、……いたいいたい! いたいよカイ! なにやってるの!」  カイが竈に手を突っ込んでいると、不意に背後からその腕を取られた。  秋の終わりにしては珍しいほど寒い日が続いたので、夕餉に煮込み料理を作ったのだが、火の調子が思うようにいかずに竈の掃除をしていたのだ。  せっかくなので以前から気になっていた古い炭を退けて、新しい薪を入れ直しておこう、そんなふうに考えていた時だった。  ウィンターはこの寒い季節にも湯浴みを欠かさないので、気は早いが竈もまだ熱を持っていることだし、手に持っていた古い炭を火種に、また暖めておこうとも。 「君、いつもそんなことしてるのか。だから生傷が絶えないんだね?」  戸惑いと、多少の苛立ちを見せたそんな声音を聞いたことはなく、カイは不思議に思ってウィンターを見上げた。  瞬間、予想外に目に入った【それ】にカイは釘付けになった。 「っ? ……えっ、ウィンター、手が」  なぜか彼の指先がぼろぼろと形を崩し、そこは黒い炭のようなもので覆われていたのだ。  何が起こったのかわからず狼狽えると、ウィンターがわかりやすくため息をついた。 「そうだよ、君、ここが熱いままなのに手を突っ込んだでしょう」 「は?……いや、え、そうだけど、それより!」  まずはその恐ろしいものをなんとかしなければ。火傷をして炭が手についたというわりには些か無理のある見た目に、カイはとんでもないことをさせてしまったと慌てた。  カイは痛みに鈍感だ。  奴隷の立場であれば暴力は日常茶飯事だったし、恐ろしくとも、ただ従うしか生きる術がなかった。  そうともなれば結局痛みに慣れるしかなく、竈も使った直後でまだ熱いとはわかっていたが、多少の火傷など気にもとめていなかったのだ。 「と、とりあえず手当を」 「いいよ、僕のは勝手に治るから。それよりも君だよ。なんで竈が冷えるまで待てなかったの?」  ウィンターの咎めるような眼差しに、カイはやっと責められているのだと自覚する。  それも、カイが自分を大切にしないから、という理由からだ。  雷に打たれたような驚きで、しばらく呆けて言葉が出なかった。 「カイ? 聞いてるの?」 「……え、…………あ、いや、すみません。あまり感じなくて」 「まぁたそういうことを言う! そういう問題じゃないんだよ。誰だって傷ついたら痛いんだ。僕だって痛い」 「ごめんなさい」 「違う、違うよカイ、そうじゃない」  ウィンターは正しく伝わらないもどかしさからカイに詰め寄ったが、咄嗟に触れようとした手を寸前で引っ込めた。  ぴらぴら、と手首から先を力なく振ると、黒い塊が空中をさ迷ってじきに落ちる。  カイが不安げにそれを見つめていると、恨みがましく自分の手を眺めたウィンターが、小さく息を吐いた。 「……ごめん、触ったらびっくりするね」 「え?」 「とにかく、こんな見た目でも確かに痛いんだよ。例えば君を庇ってできた傷でもきっと痛い。だからもし、君が痛みを理解できないというなら、僕の痛みを思ってこういうことはやめてほしい」  静かに告げたウィンターがそっと腰を下ろし、カイを覗き込んでくる。  目の前の男は、いつも難解で複雑で、とうてい理解が及ばなかった。  ただ、身を呈して庇われる不可思議な罪悪感に、なぜだか丸裸の神経を晒したような羞恥心が込み上げた。 「…………あなたの、言っていることは難しい」  戸惑いからそう答えると、ウィンターがきょとんとして少し困ったように笑う。  自分の膝を抱えるように腕を回して、小さく首を傾げた。 「……そうかな、でも、君は痛そうな顔をしているよ。僕が怪我をして怖かった?」  問いかけに咄嗟に答えられなかったのは、ウィンターの言葉が的を射ていたからだ。誰の目にも留まらない生を粛々とこなしてきたカイにとって、自分のせいで誰かが傷つくのは恐ろしかった。  小さく頷くと、穏やかな声が降ってくる。 「そうなんだ、君はいい子だね。でも、いいんだよ。君は本当に気にしなくていい」 「……なぜ?」 「この身体は勝手に治るからね。だから何度でも僕は君を庇うと思う……守ってあげるよ?」  そう言ったウィンターは、触れる前に一度手のひらを握りこみ、そしてゆっくりとカイの髪を撫でた。  それはまるで自分の方が傷ついているかのようで、カイは、この人の痛みは誰が和らげるのだろうと思う。  血が流れなくても、たとえそうやって黒い靄に守られるようにしていても、傷ついたら痛いと言ったウィンターをもう知ってしまったのに。 「……あなたは、魔法使いなのか?」  不意に自分の口から零れた言葉に、驚いたのはウィンターだけではなかった。  ハッとしたように相手を見つめると、同じように虚をつかれた瞳が瞬いている。  カイは自分が言ったことなのに、なぜそんなふうに思ったのかわからなかった。 「……っ……すみません」 「いや、……いいんだけど……びっくりした」  一度髪を掻き上げて言う声は少しだけ揺れていた。  カイは視線をあげられないまま、けれどどこかで気にかかっていたのだと気づく。  黒い靄、美しい雪の結晶、到底知り尽くせないであろう膨大な異国の知識。  傷が勝手に治る身体と、クロエが言った、「魔法使いさま」という言葉。  ウィンターが小さく逡巡した気配が感じられた。 「……そうだな……うん、カイ、ちょっとこっちにおいで」  こちらに伸ばされた手のひらをおずおずと掴むと、彼は一度微笑んで、そっとカイを自分の仕事机まで促した。  使い古された椅子に座らされ、横に立ったウィンターが、創りかけていた雪の結晶を手に取る。 「カイは、魔法使いを知っている?」  静かな問いに答えられず見上げれば、答えを求めていなかったのか、それを手元で弄びながら小さな声で続けた。 「……僕はね、遠い北の小さな国で産まれたんだ。そこには、魔法師……精霊使いでもいいんだけど……とにかく、そう呼ばれる人が時々居てね。僕も、魔法師になる能力を持って産まれた」  そこでは、魔法を使う生活が日常だったらしい。  穏やかに閉ざされた小さな世界で、人々は氷の景色に包まれながら慎ましく暮らしていた。 「力を持った人間は普通、一人につき一つの【なにか】と契約するんだ。例えばそれが精霊でも天使でも悪魔でもなんでもいい。そうやって、自然の力を借りて生きてきた」  ウインターはカイに話しながら、もしかしたらクロエに話した氷の世界を思い出しているのかもしれなかった。  ウインターがクロエと共有したカイの知り得ない故郷の景色。  だからああやって名残惜しむように、雪の結晶を贈り続けるのだ。 「でも、僕はちょっと欲張っちゃってね」  不意に苦笑を漏らした男がそっと雪の結晶を目の前に翳した。  するとそれはふわりと光を帯び、まるで雪の結晶自体が何かを照らすように輝き始める。  カイはまたしても驚きに目を瞬かせ、ウインターを笑わせた。 「あはは。綺麗でしょう。実はこういうこともできるんだよ。結晶は魔術でも作れるけど、それを解けないようにしたり、光らせたりするのには魔法が必要でね、本当なら暗いとわからなくなるけど……あ、ちょっと待って」  言いかけて立ち上がると、ウインターは部屋の明かりに灯していた蝋燭の火を消した。  机上に放置されていたただの石の欠片だと思っていたそれも、途端に様々な色彩を放って部屋に光の影を創り出す。  カイは、その幻想的な光景を信じられない物を見たように呆けて眺めていた。 「ね、こうすればもっと綺麗だろう?」  それはまるで夢物語の世界だった。  カイの知るそれがあまりにも小さくて、狭かったことを思い知る。  ウインターは、魔法使いだったのだ。  不可能を可能に、できないことをできるように手助けしてしてくれる力。  魔法には遠く及ばない魔術を生業にしながら、彼はそれを隠して生きている。 「なぜ、魔法を使わないんですか」  カイがぽつりと零した疑問に、ウィンターは驚いたようだった。  瞬いた瞳までもが光彩を放ち、カイはこれも何かの魔法なのだろうかと思う。 「……せっかく、魔法が使えるなら……殿下に解けない結晶を作ってあげられるのに」 「え? ああ、……えっと、そうだな……でも、この国は魔法使いが嫌いだろう」 「それでも、勿体ない。あの人は見たいはずだ」  楽しそうに、そして少し寂しそうに笑った顔が頭を過ぎった。  たとえこの国で魔法が認められていなくても、きっと彼女はウィンターにそれを求めているはずだ。  寂しい毎日を少しでも和らげるような、孤独を分かちあえる相手との絆。  魔法使いさま、と言った彼女は、そこに祈りを込めたのではないだろうか。 「そうだね……ただ、僕の場合はちょっと複雑なんだ。欲張っちゃったから……面倒なことになっちゃって」  言いながら差し出されたのは、カイが忘れかけていたウインターの黒い手だった。  カイは忘れかけていた異様な光景に、ふたたび言葉を詰まらせる。 「僕は本当は一人に対して一つの契約のところを、複数交わしちゃったんだよね」  本来、精霊やその他との契約に、大きな代償は求められない。  けれど、ウインターが交わした複数の精霊たちは、多くの力を与える代わりに、様々な国の景色や人々の営みを彼の目を通して見せてほしいと強請ったのだそうだ。  そうしてウインターが差し出した身体は老いるのをやめ、傷がつけば溢れ出る黒い靄が己を守るようになった。  一所(ひとところ)に長く居られない生活の中で、彼は淡々と、気まぐれに生きてきたらしい。 「手元に残る思い出は、余計に寂しいからね」  最後にそう言った言葉は、きっとウィンターの本音だったのだろう。  たまたま辿り着いたセレンという国で、クロエという人に出会いながら、力の対価を、ウインターはずっと払い続けているのだ。  カイはせめて、ウィンターがクロエにあげた栞だけでも、彼女の夜を照らして欲しいと思った。 ***  年を跨いで冬が終わりに近づくと、王宮内に妙な噂が広がった。  宮廷に仕える官司が、友好国から召し上げた大事な第四妃殿下に不義を働いたのだと。  カイはその曖昧な話の中の官司が、どうしてかウィンターを指しているのだと思えてならなかった。  ウィンターは「一魔導師になにができるの」と笑ったが、不安はどうやっても拭えない。  一見平穏に、これまでと変わりなく過ぎる日々が何か恐ろしい出来事の前触れのようで、ひっそりと息を殺すように暮らしたカイは、その約一月後、それが思い過ごしでなかったのだと知った。  ウィンターが物々しい近衛兵によって拘束されたのは、長い雨がやみ、夏の始まりを告げる風が吹いた日のことだった。  国は、独立を目論み、魔法師の徹底的な排除が始まった。

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