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第八章

第八章  王宮の裏手側にある深い林の奥を抜けた場所に、木製の小さな扉がある。片開きのそれは全長一メートル二十センチほどで、もともと、王宮に住まう位の高い人間の目に触れぬよう、庭師たちが出入りしていたものだ。  カイは、ヴィンセントと共に城下の収穫祭に赴くため、その扉を目指して歩いていた。  まさかあんな口約束が本当に実行されるとは思ってもいなかったが、陽が登ったばかりの早朝に部屋の窓を叩かれ、「行きましょう」とあっけらかんと言われれば、変に断るのもおかしいと思ったのだ。  普段ほとんど自分の主張をしないヴィンセントが、この、国が荒れているこんな時期に、カイを連れ出そうとしている。そう考えると、その平坦な表情の中に妙な切実さを感じ取ってしまって断りきれなかった。 「……この辺りはあの頃のまんまだな」 「あの頃って?」  自分がぽつりと零した声にまさか間を置かず返答があるとは思わず、カイは驚いた。  歩いてきた道のりを思い返しただけの独り言に、  前を歩いていたヴィンセントが顔だけでこちらを振り返る。  きょとん、と一瞬言葉を詰まらせると、相手は先を促すように、けれど無理強いはせずまた前を向いて歩き出した。 「昔から、ここは美しかったんですか」 「えっ……ああ、……うん、初めて見た時は驚いたな。俺を連れてきたやつは、色んなところを転々としていたからけろっとしてたけど」 「……へぇ」  戸惑いから、終始無言だったヴィンセントとの間を埋めるようにカイが話すと、話を振ってきたはずの相手は素っ気ない態度でそれに応えた。  この王宮はアルテリアの支配下にいたあの頃の名残を随所に残している。  当時も立派だと思えた建造物は、ところどころ修繕はされていても基本的な構造は変わらず、あの時の威風をそのままに、カイと同じ時を過ごしてきたのだ。 「……ベルナイツって知ってるか。北にある小さな国……そこの建築を真似てるらしい」 「ベルナイツですか?」 「?……うん、知ってるか?」 「どこでそれを?」  すると興味もなさそうにしていたヴィンセントが、不意に足を止めてまたカイに振り返った。  今度は身体ごと向き直った様子に、まさかここに食いつかれるとは思わず、カイも立ち止まる。 「エリアス、……殿下に会った時だけど」  そう言った途端に、ヴィンセントの顔が苦々しいものに歪んだ。  カイは首を傾げながら、けれど何か言いようのない焦燥感に駆られ、咄嗟に歩み寄る。 「おい……? ヴィンセント?」 「…………いえ、いいです。行きましょう」  何かを言おうとしてやめたヴィンセントは、結局そんなふうに話を切り上げてしまった。足早になったのを追いながら、横顔をちらりとうかがうが、けれどカイにそれ以上追及する言葉はない。  従兄弟同士だが、今は立場が違い、主従の関係性にある二人が表向き直接対峙することはそうそうないとは思うが、あのエリアスは油断のならない男だ。  ――彼を、本当に戦場に向かわせるのか、もしくは結婚させて政治の駒にするのか。  あれから何度か顔を合わせたが、あの言葉以外にエリアスからはなんの接触もない。  けれどそもそも、自分がここを出られるよう配慮したのはきっとあの男に違いなく、そこには十中八九ヴィンセントも関係していて、今になってきちんと経緯を問いたださなかったことを後悔した。  あの時はそれどころではなかったが、自分が「行く」と言えば無茶をするとわかっていたのに。 「頭、気をつけてください」  唐突に聞こえた声で、カイは現実に引き戻された。  気がつけばヴィンセントが古い扉を抑え、カイが外に出るのを待っている。  カイは、今さらあれこれ考えても仕方がないと割り切って、一つ息を吐きだした。  戸惑いいつつも足を進めてしまえば、けれど呆気ないほど順調に二人は城壁を抜け、少し歩いた先に待機していた荷馬車に乗り込む。  これもエリアスの指示だろうかと多少うんざりしたが、御者の陽気な声に、カイの緊張は少しだけ解れた。 「お兄さん方、収穫祭は初めてで?」 「そうです、賑わってるんですか」 「そりゃぁもう。他国からも大勢きてますからね。宝石でも探しに行くんですか? 異国の珍しいものが手に入りますよ」  そう問われたのは、きっとカイがローブを羽織っていたせいだ。正式な宮廷魔導師の格好はしていなかったが、大方、暇な騎士を護衛につけて、下っ端が賑やかし程度に街をぶらつくのだと思われたのだろう。  相変わらずヴィンセントが曖昧な返事をしたので、カイは終始黙って風景を眺めていた。  広大な土地を誇る王宮の裏から、城壁と並行に距離をとって下り、ちょうど正面辺りまできたところで、今度は緩やかな曲がり道を進む。  城下に広がる家々と、淡い陽射しを彩る樹木の影、それに交じる人々のさざめきと、自由に奏でられる音楽。  それらの同じ喧騒が段々と近づいてくる感覚は、カイを少しだけ高揚させた。  そうこうしているうちに、荷馬車が街のほぼ中央にある広場付近の大通りで止まると、視界の端々に、様々な屋台の連なりと、人々の熱気が押し寄せてくる。  遠目に見える噴水の飛沫が陽の光に煌めき、それを囲うように、数人の楽士が聞いたこともない音を奏でていた。  ヴィンセントとカイは、それらの光景に見合わず多少距離をあけてそこらをぶらついたが、少しも経たないうちに男から小さな声がかかった。 「カイ、ここら辺で少し待っていて貰えますか?」 「……別にかまわないけど。なにか用事か?」 「ちょっと買うものがあるので。そこら辺で休んでいてください」  言いながら背を向けたヴィンセントは、さっさとカイを置いて人垣に紛れた。  後ろ姿を探しながらも、カイはここで迷子にでもなったら不味いと、近くにあった民家の玄関先に続く階段で腰を下ろす。  祭りのおかげで皆慌ただしく、それを気にする者は誰も居ないのだ。 「……それにしても、すごい熱気だな」  風に靡く髪を抑えながら呟くと、それは余計にカイに迫ってくるようだった。  ここに暮らす人間は、こんなにも日々忙しなく賑やかしい毎日を送っているのだろうか。  収穫祭という非日常であることを抜きにしても、この圧倒的な勢いに、カイはあっという間に気圧されていた。  正直に言ってしまえば、座り込んだのは足元が覚束なかったせいだ。景色がゆらゆらと揺れていた。 「大丈夫ですか」  ちょうどよく木陰に遮られ、知らぬ間に頭を沈めていたカイは、ふと頭上から落ちてきた言葉に視線を向けた。  気がつけば両手に何かの飲み物を持ったヴィンセントが佇んでいる。  なんだか、いつもこうしてこの男の声を頭の上から聞いている気がすると、ぼんやりと思った。 「なにが」 「顔が白いので」 「……大丈夫だよ、行くか?」 「これを飲んでから。美味いって仲間が話してたんです。一回飲めば作れるかもしれない」 「ずいぶん下衆なこと言うな」  ヴィンセントがさりげなくカイの影になるように目の前に立つので、手元のそれを受け取りながら軽口を叩く。  そうして、交わらない視線をカイが惜しんだ代わりに、ヴィンセントの凛とした香りだけが風に乗って届いた。  至極真面目な顔をしてこんなことを言うのは、カイが余計な気を使わないようにするためだとわかっている。  そういう、わかりにくいようで実直な優しさをこの男は平然と示すのだ。  きっと、あの後ろ姿の女性にも。 「……ヴィー」  一時も自分のものにならない視線を捉えたくて、カイは気がつくとそう呼んでいた。  不意打ちのそれに、一度瞬いた顔がすぐに歪む。 「またそんな昔の呼び方で」 「いいだろ、もう誰も呼ばないんだ」  まるで駄々をこねるように言い募ると、ヴィンセントは一瞬黙った。  高い位置にある視線をカイの高さにまで合わせて座り込むと、小さくため息をつく。 「だからでしょ……俺は、あんたの髪にも触れられないのに……不公平だと思いませんか」 「なにが」 「俺だって欲しいんですよ、あの人も持ってないような特別ななにか」  そう言ったヴィンセントは少しだけ幼さを滲ませ、拗ねた顔をしていた。  あの人とは、間違いようもなくウィンターのことだ。  もうカイしか呼ばない愛称で、カイがヴィンセントを繋ぎ止めるように、ヴィンセントもカイに特別な何かを預けてほしがっている。  けれどカイはこれまでにも、過去のことはほとんど語ってこなかった。  ヴィンセントだけでなく、ミアやリリー、少しだけ近しくなった数人の鍵の守護者達にも。  ウィンターのことを言葉にするのは恐ろしかったのだ。古い本と一緒で、過去の思い出は、開いた瞬間に紙の端からぼろぼろと崩れてしまいそうだった。  記憶は残っても、匂いや音、……声や顔は? 「……髪、(ゆわ)いてないんですね。ミアは忙しかったんですか」  結局、カイが返答に詰まると、もともと返事を期待していなかったのか、ヴィンセントはあっさりと話題を変えた。  戸惑いながら窺うようになると、相手は意趣返しのようにカイの髪をさらりと撫でる。 「……っ」 「今度、俺も結いていいですか」  それは、いつかカイに触れたいんだ、そう告白されているようにも響いた。  小さく意思表示された相手の指先がそのまま離れていく。  カイは、そっと立ち上がったヴィンセントをただ見つめることしかできなかった。 「さて、行き先は決まりましたね。髪飾りを買いに行きましょうか」 「…………女にあげるものを俺にも探せって?」 「なんでそうなるんですか。あんたにやるやつですよ」 「俺?」  自分で嫌味ったらしく言っておきながら、そんなふうにまっすぐ返されるとは思ってもみなかった。  小さく頷いた相手がまるで「文句でもありますか」と言った顔でこちらを見る。  カイは未だ妙な胸のざわめきを収められず、けれど自分ばかりが動揺しているのが癪で、恨みがましくヴィンセントを睨んだ。 「お前、今日はどうしたんだ、なんか変だぞ」 「別に。ただ、いつも俺はあんたの後ろ姿ばかり見ているので」  たまにはいいでしょう、と言った声は雑踏に掻き消えた。それをいい事に、カイは甘んじて弱く引かれる指の先を、手袋越しに意識する。  ヴィンセントは、カイの手を引いた。  触れられないと言ったこの肌に、手袋越しでもしっかりと指を絡めた。  *** 「お兄さん、これなんてどう?」  悩みあぐねてうんうんと唸っていたカイに、快活に笑った男が声をかけた。  手を引かれて歩いた安心感からか、人々の波を上手く躱して道を作ってくれたヴィンセントのおかげか、その後じっくり屋台を見て回ったカイは驚いた。  近くで見てみると、遠目では全て同じに見えた屋台の数々には、皆一様にそれぞれが売り出す自慢の品が惜しげもなく広げられ、そこには様々な品が並んでいた。  この国では採れない種類の香草、見たこともない工芸品、綺麗な瓶に入った香油、異国の民族衣装、そして髪飾り。  カイは、目の前に掲げられたそれを促されるまま手に取ると、手元でキラキラと陽に反射するのを眺めた。  金を細かい鎖状に延ばし加工されたそれは、所々に同じ金で創られた星のような形の飾りと、ダイス状になったクリスタルが散りばめられている。  髪に一緒に編み込んむタイプのものらしく、酷く繊細で美しい品だったが、ちぎってばらばらにしてしまいやしないかと恐ろしかった。 「これは、女性用ですよね」 「ん? あ、お兄さんがつけるやつを探してた? そうだな、あんまり種類がないけど」  それはそうだろう。カイは内心ため息をついた。  そもそも、ミアは髪を結いてくれはするが、髪飾りなんてつけたこともない。  一般的には女性が着飾るためにあるものだし、カイだってまさか自分が自分用にそれを買うことになるなんて思ってもみなかった。 「いや、女性用でいいです。もっとこう、豪華なやつは?」  未だにヴィンセントの言葉が半信半疑であるし、どちらかと言うとその恥ずかしさから、いっそのこと例の女性(・・・・)に贈らせようとカイが問いかけると、すかさず後ろから横槍が入る。 「あんたがつけるやつですよ?」 「いいんだよ。買ってけよ、せっかく来たんだから」  小声で話しかけられたので小声で返したが、心底心外だという視線が痛かった。  店主が、そうだな、とぶつぶつ言いながら他の品を物色してくれているのを一心に見やりそれを無視すると、小さなため息の気配を感じる。  ため息をつきたいのはこっちだ。そう思ったが、カイはそれをぐっと堪えた。  結局、いくつか見繕ってもらった中から、自分がどうあっても使わないであろう女性らしく可憐なものを選び、店主に預ける。  あの日遠目に見た淡い色のドレスを思い浮かべ、もし彼女にヴィンセントが贈るならきっとこれがいい、そう思ったものを。 「じゃあ ……これを」 「ありがとうございます。お兄さん、見る目があるねぇ」 「そうですかね。支払いはこれで」 「はいはいどうも。お釣りちょっと待ってね」 「これもください」  まさに今、この居心地の悪い状況から解放されようと言ったその時、途中からほぼ存在を消していたヴィンセントが声を上げた。  驚いて振り返ると、カイのすぐ後ろから影になるように腕が伸びてくる。  まるで覆い被さるようにしてヴィンセントが手に取ったのは、長い革の紐に翡翠が荒い加工のまま一つだけ括り付けられた品だった。 「お前、これ?」 「翡翠ですね」 「当てこすりか。要らないぞ」  何が面白いのか、以前贈った翡翠を適当に扱われた腹いせのように、くく、と笑ったヴィンセントが、そのまま店主にそれを渡してしまう。  カイは面白くない面持ちでそれを見守った。 「これもシンプルでいいでしょう。この翡翠は純度が高いんで加工もあんまりしてないんですよ。一緒に贈るんですか?」 「そうですね。大事な人なので」  その簡単な一言に、今度こそ、カイは顔を歪める。  酷く、恥ずかしくて後ろめたかった。  ヴィンセントは、何も気にしていないようにそのまま店主から品を受け取ると、簡単な挨拶をしてその場を離れた。  本当は、いつだって背中を見ていたのはカイの方だ。  届かないのを、気づかれないのをいいことに、カイはずっと、もう長い間ずっとそれを見ていた。  数歩後ろを黙ったまま歩くと、屋台の連なりを少し離れて先ほどの噴水の近くに差し掛かった。  冬に向かう風はなりを潜め、柔らかい風が吹く。 「逃げたくなりませんか」  不意に声をかけられて、カイはいつの間に振り返ったのか、ヴィンセントの顔を正面から受け止めた。  買ったばかりの髪飾りを手元に軽く握りしめ、ヴィンセントは静かに続ける。 「あそこから、あんたは逃げたくなりませんか。ずっと縛られてる」 「?……なにが言いたいんだ?」 「俺はあんたにちゃんと生きてほしい。あそこで死んだみたいに諦めて暮らすんじゃなくて」  それは、カイがいつかヴィンセントに言われるかもしれないと恐れていた一言だった。  もともとは成り行きだったにせよ、監視の目はあるが、常に行動を制限されている訳ではない。  カイは、あそこから逃げられないわけではないのだ。 「……よくわからないが、俺はあそこに縛りつけられてる訳じゃない」 「こうして外に出るのもやっとなのに?」 「だって…………お前たちがいる」  絞り出した答えは、ヴィンセントに届いたのかわからなかった。  力しか持ち得なかったカイにとって、いつしかあそこは孤独を癒し、幸せを与えてくれる場所になった。  けれど、カイは恐ろしくて堪らなかったのだ。  必死に守っている日々は、何かの変化で簡単になくなってしまう。  カイはこの日々を覚えていられる間に、何もなくさないでいられる間に、頭から全部を喰らい尽くされてしまいたかった。  そうしてヴィンセントにだけ永遠の孤独を押し付けて、自分だけ逃げだすのだ。  忘れたくせに。  自分はさっさと忘れてしまって、もう、顔さえ。  ウインターの顔さえ、ちゃんと思い出せないというのに。

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