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第九章
第九章
濃い水の匂いがして、カイは妙な懐かしさを感じながらやっとその匂いの理由 に思い至った。
暗い地下牢は窓がない。汚物を処理する場所も、身体を清める場所も、眠る場所も同じだ。
湿気の籠る奴隷小屋も似たようなもので、だからあの馴染み深い場所も、この牢も水の匂いが鼻につくのだ。
何もかもが混ざりあって充満する【暗闇】の匂い。
目隠しを外されたのに、自分が一瞬節穴になったのかと思えたほど暗いこの場所は、視界をほとんど遮られて、いつもより匂いをより強く感じた。
カイは、雨が降り続けていたなんて勘違いをしていた自分は、とんだ間抜けだと思った。間抜けで、愚かしい。
けれど頭の片隅でそういうどうでもいいことを考えていたかった。
これが現実なんて、この匂いよりも恐ろしかったのだ。
ウィンターが強制連行されてから、三月以上が経ったある日、数人の男があの時と同様に突然現れ、カイに同行を求めた。
日暮れ前に連れ出され馬車に揺られていた間も視界がなかったので、今は突然夜に落ちたような空間をただひたすら、覚束無い足取りで、兵士の後ろを歩いている。
等間隔に続く燭台の微かな灯りの先に、きっと、ウィンターがいるからだ。
カイは、表面上は何事もなかったかのように、まるで壊れた機械が同じ動作を繰り返すように過ごした日々の中で、ずっとこの時を待っていた気がする。
カイのようなちっぽけな人間には状況が何も理解できなかったが、ただどこかで、自分たちは大きな混乱に飲み込まれた塵芥なのだと気づきながら、でもこの時を本当は、ひたすら待っていた。
季節の移り変わりと、そこに残されたウィンターの私物だけを頼りに、誰とも話さず、一人取り残された家で渦巻く焦燥と不安に耐えながら。
不意に前の兵士が足を止め振り返ると、手元の小さな燭台に火を灯した。
一瞬それを渡して貰えるのかと期待したが、男は、それを持つ腕を目の前に続くまっすぐな道へと延ばし、顎をしゃくる。
この先は一人で行けということなのか、自分の灯り用の燭台を持ち、帰る方向へすれ違いざま「すぐにわかる」と小さく言い残し消えていった。
カイは慣れてきた視界で、ウィンターの面影を探そうと必死に辺りを窺いながら進んだ。
無人の鉄格子が左右に列を成し、そうして見つけたのが、淡く辺りを照らしている小さな蝋燭の灯りだった。
「……ウィンター!」
縦横に走る鉄格子の向こうに、カイが名前を呼んだ人物は居た。
走り寄って縋り付くように鉄格子を揺らすと、ウィンターの肩が少しだけ揺れたように見える。
両腕を頭上に纏めて釣り上げられ、膝をついた状態で頭を下げた姿が、まるで何かを祈るようだった。
「ウィンター……! ウィンターっ…………大丈夫か」
尻窄みになりながら、こんな状況でそんなことしか言えない自分が酷くちっぽけでならなかった。
連れて行かれた時のままの白いシャツと黒のズボンは、汚れて擦り切れ、足元を覆う特有の黒い靄が痛めつけられた跡を如実に表している。
カイは鉄格子に額を預け、指先が痺れるほどそれを握り込んだ。
「……ああ、……カイ?…………ごめん」
か細い声が聞こえてハッと顔を上げると、途端にガシャン、と鉄の鋭い音が響く。
「……っウィンター」
「ごめんね、気づかなかったよ……ここは暗いから」
「そんなの!」
そんなことはどうでもいい。どうでもよかった。
今すぐに、ウィンターをあの家に連れ戻してやりたかった。
視界のない中で必死に覚えようとした、ここへ来るまでの道すがらを思い起こす。
カイは本気で思っていた。
それがどんなに不毛なことでもいいと思ったのだ。
あの時はただ、これから向かう先に居るであろうウィンターを思うと、連れ帰ってやりたいと思った。
「君に、また会えるなんて思わなかったな」
「……ウィンター」
「お願いは口にしてみるものだね……カイ、元気にしてる? ……てのもおかしいな。ごめんね。放り出すようなことになってしまって」
謝ってばかりいるウィンターが、遠目に小さく苦笑したのがわかった。
カイが頭を必死に左右に振ると、それでも明瞭な声が響いてくる。
「食べるものには困ってない? 湯浴みをするなら水をちゃんと温めるんだよ」
「そんなの…………大丈夫だ」
「そう……それならいいんだけど。もう外はずいぶん寒くなったんだろう? ……あの子も、クロエも…………大丈夫かな」
ぽつり、と最後に小さく零した本音が、カイの胸にずしりと沈んだ。
ウィンターは全てを知っていてカイにそう漏らしたのだろうか。
途端にあのとき 見た、クロエの姿が蘇る。
ウィンターが拘束されて暫く経った頃、カイは一度だけ見知らぬ騎士に連れ出され、クロエに面会する機会を与えられたのだ。
今思えばカイの知る侍女ではなく、あれは監視役の騎士の一人であったのに、その時はただ、きっと全てのことが解決してウィンターと一緒に帰ってこられるのだと思っていた。
ウィンターと同じように、ごめんなさい、と言った彼女は、それでも、強い意志を持った瞳でまっすぐにカイを見た。
――最後に会いたいのは誰か、と聞かれたんです。
そう言った彼女は小さく苦笑していたが、それはクロエにとって、きっと、自由がきくのは最後だ、と言われたも同然だっただろう。
カイはその時、どうして、と聞いたはずだったのに、それは掠れて声にならなかった。
なぜ、ウィンターに会ってやらないのか。
けれど、身重の身体 でやせ細り、さらに一回り小さくなった姿を見たらどうしても余計な口を挟めなかったのだ。
クロエは返事を待たず、カイに、「あなたには、必ず借りを返します」とだけ告げた。
それは、ぴんと張り詰めた空気に、楽器の音がたった一度だけ落ちたような余韻だった。
――もう一度あれを見たかったのだけれど……きっとどこかでまた、会えるはず。
最後に聞いた独り言のような声量の言葉は、ウィンターとのことを言いたかったのか、雪の結晶のことか。
お腹の子どもを、ウィンターは愛しているだろうか。あの子は、あなたの子どもなのか。
カイにそれらのたった一つの疑問でさえ知る術がなくても、目の前の男を見ていたら、ウィンターは諾々と課せられた罰を受けるような気もした。
例えばそれが、自分の罪の結果でなかったとしても。
「……あの方は、元気です。雪の結晶をもう一度見たがってた」
「そう……ふふ、そうか。あれはね……実は別に大した意味はなかったんだよ。暇つぶしだった」
カイがやっとの思いでそう告げると、ウィンターは何かを思い出したようで、困ったように笑った。
視線を下げ、ウィンターが何かをじんわりと噛み締めるような時間が流れる。
不意に身体に繋がれた鎖がじゃら、と揺れ、自嘲めいた声音で、小さく「暇つぶしだったんだけどなぁ」とまた彼は零した。
「……君を引き取ったのも、あの子と話をしたのも……ここにきたことだって。暇つぶしだったんだ。でも君の……名前を聞いた時、この子だ、と思った。なにが、とか聞かないでよ。ぼくにもわからない…………カイ」
ウィンターはそこで言葉を切ると、重たそうに頭をあげた。カイはこんな状況なのに、今さらまたウィンターの翡翠の瞳が、それだけがまた色を変えて煌めいたように見えた。
そのくらいにウィンターは、まっすぐにカイを見たのだ。
「僕は君を守ってたんじゃない。君に救われてた。守られていたんだよ」
「…………っウィンター、俺は」
「君よりも守りたいものを、見つけてしまってごめん」
カイの言葉を遮ってまで言った謝罪がどういうことを意味しているのかはわからなかった。
けれど何か決定的なことを、ウィンターが今この瞬間に決断してしまったのだけは感じられて、込み上げる焦燥が、カイの思考をあっという間に奪っていく。
不意にぽたぽた、とウィンターの顔から滴り落ちた滴が、カイには最初、涙のように見えた。
けれどやっと目を凝らして、それがウィンターの額から流れる血だとわかる。
暗闇の中、彼の身体はいたるところで蠢く黒い靄と同化していた。灯りはカイの頭上で灯る小さな蝋燭だけだ。
だから気づかなかったのだ。あのウィンターが血を流している。
「ウィンター……血が」
カイが驚いたように声を漏らすと、ウィンターも何かに気がついたように「ああ……」と小さく苦笑した。
重たそうにした頭は、血液が足らず貧血を起こした結果だった。
きっと精霊が与える恩恵は無限ではなくて、身体が壊滅的に損害を被ったせいで、再生も追いついていないのだ。
そのくらいにウィンターは痛めつけられていた。
酷い拷問を受けて、たった一人で、この暗闇の中をここに縛り付けられて。
けれどそれにいくら苦しめられても、契約に守られたウィンターは死ねない 。
死ねないのだ。
そして不意に、「え?」とカイの口から一つの回答が零れ落ちた。
カイがさらに驚いて目を見開くと、ウィンターが柔らかく頭を傾げる。
まるでそれは、その答えが正しい、と言っているような仕草だった。
「……うそだ、そんなの」
カイの口から、その事実をどうしても信じたくない、そんな悲鳴が小さく溢れ出た。
ウィンターは死ねない。
クロエを守る為に罪を被っても、彼の【死ねない身体】がまた、大きな混乱をもたらしてクロエを襲うだろう。
あの人を想う以上、精霊の力は、不老不死の身体は、ウィンターを苦しめるだけだった。
「…………あんたは死にたいのか?」
死ねないから、クロエを、あんたは守るために、俺に自分を殺させたいのか。
カイが零した一つの問いに対して、ウィンターの微笑みが、言葉の全てを肯定したように思えた。
自分がこうしてウィンターに会えた意味。
出会えたこと。今、また会えたこと。
ウィンターはカイに会いたがったんじゃない。カイに殺されたがっていたのだ。
「賢い子は好きだよ、カイ」
「…………っ!」
「ふふ……なんだか悪い人間が言うような台詞だな」
「…………っどうして! ……どうして……あんたは淡々と、気楽に生きてきたんじゃないのかっ? さっきだってそう言っただろう。暇つぶしだったんだろう? そもそも俺にそんなことできるはずない。あんたは魔法使いでっ…………なんでも……なんでもできるんじゃないのか……!」
そんなに、そんなにもクロエを守りたいのか。
カイはもう、ウィンターを正面から見ていられなかった。
身体の震えが鉄格子に伝わるくらいに握りしめて、何かに縋りつくように、彼がカイの勘違いを否定してくれるのをひたすら待った。
ウィンターがそうまでして、彼女への想いを選ぶ理由がわからなかった。
カイは本当は、ウインターがクロエに何を話してきたのかほとんど知らない。
彼女との間に、どんな日々が積み重なったのかも。
どう出会って、恋に落ちたのか。
長い年月を生きてきて、その生を終えてもいいと思えるほど、阻むものを尽 く跳ね除けてまで。
それでも貫きたかった愛を、ウィンターが抱くような真似ができるとも思わなかった。
「君には力がある。お願いだよ、カイ」
鍵を守る人。そう、最後にウインターは囁いた。
***
ウィンターがクロエに贈った何枚もの雪の結晶。
結局、その中に混じった、融けないままの一枚が確かな証拠となり、ウィンターの処刑は、魔法師の存在の隠匿のため、秘密裏に、誰の人目にも触れずに行われた。
表向きは妃殿下への不義に対する罪だったが、実際は、魔法使いの排除に他ならなかった。
結局、最後の一枚はクロエが見落としたのか、もしくは確かな死を望んだウィンターが密かに新しく用意したものだったのか。
カイにはそれさえもわからなかった。
国を守りえる力が失われることを惜しんだ王は、この期に及んで全てを奪った。
ウィンターが人として尊厳のある死を迎えることも、ウィンターの力が消えてなくなることも、魔法使いの存在自体も、あの男は許さなかった。
そうしてウィンターはカイに精霊との契約を全て譲ると、カイはウィンターの血肉を一口喰らって、その力を受け継ぐことに合意した。
抱きしめて喰らったウィンターの身体は、自分よりよっぽど立派で大人に見えていたというのに、想像よりいくらも自分と変わらなかった。
これは、魔術じゃない。魔法だった、本当は。
誰にも言わずカイが長い間隠し続けたこの力は、ウィンターが施した最初で最後の魔法 だった。
それから数年経ち、カイの身体がぱたりと成長をやめると、カイは王宮の奥深くに軟禁された。
あれほど忌避し、全力で排除しようとした魔法師の力を、結果的にその中枢に抱き抱えることになった国の措置だった。
セレンが独立をして、カイがウィンターと初めて会ったあの日から、約四年半の歳月が過ぎたころのことだ。
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