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第十章
第十章
この男はいつ見ても美しいな、とカイは思った。
カイが扉を開けると、窓際に立ったエリアスが振り向いたのだ。
質素な部屋に似つかわしくない、整然たる姿の蒼い相貌が、カイを微笑みで出迎える。
いつだってこうして窓の外を眺めているが、今日に限っては、きっと深い夜の木々のざわめき以外にはほとんど何も見えないだろう。
収穫祭を終え、街が冬の寒さに静けさを纏わせた頃、年を越し、国は一層アルテリアとの諍いの熾烈さを増した。
最たる発端は国境沿いの炭鉱所を巡る賊の略奪だったが、やはりそれは百五十年前にセレンのものとなった元アルテリア領を巡り続いている諍いの火種に過ぎなかったようだ。
アルテリアは、病を患い王位継承問題に揺れている内政の隙を攻め、今こそセレンを侵略しようとしている。
そんな折に、エリアスはカイを呼び出したのだ。
いつものように前々から決まった日付を指定するのではなく、前日の夜更けに、ノアが一通の文を届けた。
――明夜王宮外れの東の棟へ。
カイは遠からず来たであろう日が、とうとう来たのだ、とそれを眺めながら冷静に思った。
もとよりエリアスがカイを試したのは、もう半年近く前のことだ。
この男はきっとただ時期 を待っていただけだ。カイの返事はもう最初から決まっていると知っていて。
「やぁ、急に呼び立ててしまって悪かったね。最近忙しくてさ」
そう言ったエリアスが、部屋に一つだけある小さなテーブルに腰掛けた。
腰窓の下に沿って設えられたそれは古く、ぎ、と重そうに音を立てる。
エリアスがいつも顔を合わせているあの部屋を今日に限って指定しなかったのは、きっと話の内容を誰にも聞かせたくなかったことと、そして単に本当に忙しかったせいだろう。
男は、胸元と袖口にフリルのついシャツと黒いズボンという出で立ちだった。
ウエストコートは着ているがジャケットは羽織っておらず、その中途半端な様子を見るに、直前まで政務に当たっていたのかもしれない。
「今日もめかしこんで来たね。いつもありがとう」
相変わらずの軽口に、カイはミアに怪しまれるのを憚って、以前彼女が用意してくれた神官の衣装を身につけてきたことを後悔した。これでは返って帰りの道すがらも目立ってしまうだろうし、例えばこの男の従者のように、全身黒装束とまではいかなくとも、上着のローブは色を変えてくるべきだった。
カイは無言のまま、視界の隅に入ったノアを尻目にテーブルの前まで移動した。
一度たりとも視線があったことのないこの男は、エリアスによほど信頼されているらしい。気がつけばいつだって、エリアスの脇にはこの男がいる。
それにしても、ノアを見るたびに感じるこの違和感 はなんなのか。
黒い闇の中で光る、黄金色の強い眼差しのせいだろうか。
「古いけど、とりあえず座ったら。あまり使われていないから埃っぽいかな」
不意に中断された思考が飛び、カイはエリアスに向き直る。
エリアスが微笑んでテーブルの脇にある椅子の背を叩いていた。
「……用件はなんですか」
「もう、本当に君はせっかちだね。せっかくこうして外に連れ出してやってるのに。そう言えば収穫祭はどうだった? 行ったんだろう? ヴィンセントと」
言外にヴィンセントとは何か話したのか、と問われてカイは押し黙る。
相手にとってそれがどんな内容であろうとどうでもいいのだ。
やはりあの外出の裏にはエリアスがいて、ヴィンセントは何らかの代償を支払ったのかもしれなかった。
「……まぁ、いいけどね。僕も行ったことなんてないし。それにしても君は本当に警戒心が強いな。相手が誰でも態度を変えない」
呆れ混じりに言われたが、けれどその言葉に微かな引っかかりを覚えた。
エリアスは、――相手が誰でも態度を変えない。と、そう言った。
それはまるで、この男が何者かになり得ようとしているふうに聞こえ、カイは訝しむ顔を隠さなかった。
エリアスがそんなカイに気づいたのか、小さく「ああ」と肯定する。
「勘が鋭いな……うん、僕は王になるよ」
「……は? 王に?」
「そう、僕は王になる。君もわかってたんだろう? だから僕を警戒してた。でもまだ君は、選択していない。期限だよ、カイ」
こちらを見つめる蒼い相貌が、酷く、愉快そうに弧を描く。
それではまさか、王の病状が芳しくないというのは噂以上だったということか。この短期間で、この男は本当にその地位を目前にまで引き寄せたのか。
「……それは、俺が自らあなたに従えという意味ですか? ヴィンセントの自由と引き換えに?」
「そうだけど、ちょっと違うな」
「でも、言ってることは同じだ。俺は今までも国に尽くしてきました。あなたたちだって、俺を好きに使ってきたじゃないか」
カイは言いながら、この抵抗もあまり意味をなさないとなんとなくだがわかっていた。
カイに選択の余地はない。
最高権力を目前にした男がそう望むなら、この国の誰がそれに背けるだろうか。
エリアスはカイの力を欲しがっている。
そしてそこには、同時にヴィンセントの運命がかかっていた。カイの【今】と引き換えに。
「……あなたは、どうしてそれほど俺の力が欲しいんですか?」
だからカイはどうしても、エリアスの真意が聞きたかった。
王になると言うなら、もう権力も地位も、名誉でさえもその殆どは手中に収めたはずだ。
それを維持できないほどこの男が無能だとは思わない。
エリアスは、そういう男だ。だからこそ未だに、自分へ執着する意味がわからなかった。
この力で何をするのか。もしくは、カイを手に入れてどうしたいのか。
「いい着眼点だね、カイ。けれど、なぜ? なんて愚問だ。放っておいても彼は近いうちにアルテリアに向かうよ? 僕はそれを阻止するのに手を貸してあげたいだけだ」
「俺があなたに従えば、ヴィンセントを止めてくれるんですか? なぜです?」
「どうしても理由が必要かな。逆に言えば、僕は君たちをどうとでもできるよ。けれどそれじゃぁ面白くない。最後は、自分で選ばなくちゃ」
そう言ったエリアスは酷く冷たい顔で微笑んだ。
カイの問いはのらりくらりと躱され、ただ結局、あの時のように選択肢がぽん、と落ちてくる。
やるか、やらないか。
この男は選ばせたいのだ。カイに、ヴィンセントの傍を離れて、自分の側につくようにと。
「カイ……カイ・シュヴァルツ。珍しくもない名前だね」
不意にエリアスが零した言葉に、カイはふただび下げかけた視線を上げた。
今さら自分の名前がどうしたというのか。
怪訝な表情を隠さず相手を見つめると、エリアスが顔を後ろに向け、窓の外を眺める。
そこは闇だった。月明かりさえも出ていない。
「何を今さらと思った? でも、ウィンター はそうじゃないだろ? ここでは珍しい名前だ。例えば氷の国……ベルナイツで使われている名前だからね」
その言葉に、カイは今度こそ凍りつく。
エリアスがなぜ、ウィンターの名前を知っているのか。
あの魔法使いの記録は、日記の一ページでさえ、たった一つも残っていないはずなのに。
「……あなた……どこでその名前を」
「僕にも情報網がいろいろあるんだよ。君のことも、たくさん知れた。彼が語る君は凄く可愛かったな。ウィンターの為に一生懸命で、幼くて、実直で……かわいそうなカイ」
そう言うと、不意にエリアスがカイの目の前にふらりと立った。
自分を覆う影が、途端に身の裡まで迫ってくる。
カイは今度こそ全てを飲み込まれてしまいそうになって、男から視線を逸らすことさえ叶わなかった。
「ふふ……僕は、どうして君が、あんなにヴィンセントを大事にするのか知りたかった。だってずっと、君は誰にも心を明け渡さずに来たはずなのに……けれど君とヴィンセントはどこか似ているよな。お互い幼いころから孤独で、心は悲しみや諦めに満ちてる。君たちは、替えのきかない唯一なんだ」
誰にとも言えないような淡々とした口調に、何がそんなにおかしいのだろう、と思う。
微笑みを崩さない男が恐ろしかった。
静かに胸元の翡翠を撫でられ、解 れかけた欠片をぶつり、と毟り取られる。
エリアスはそれを頭上に翳すと、何も反射しない黒い景色を一瞥して、今度こそ、カイを真正面から貫いた。
「どう、少しはウィンターの気持ちを理解できた?」
その言葉が、カイにとっての最後通牒だった。
ウィンターが彼女を想ったのと同じように、それ以上に、こんなにも大事にしてきた相手を、想いを、犠牲に出来るわけがない。
カイは憤ったままふ、と視線を下げ、あの手袋 越しに指先を握り込んだ。
「…………っあいつを、危険な任務につかせないと約束してくださいますか」
「いいよ」
「ミアの身の保証も。あの子はまだ成人していません……繊細で、優しい子だ」
「わかった」
了承の言葉を聞き、カイは奥歯を噛み締めながら片膝をついた。
恭しく頭を垂れると頭上にそっと指先が触れる。
カイはこうしてエリアスに隷属することを誓った。それを選択した。
エリアスが「君はいい子だね」と呟いた声が聞こえて、カイはその柔らかさに押し潰されそうだった。
***
酷い徒労感だった。
直前の出来事が頭の中をぐるぐると支配して、思考が追いついてこない。
カイは東の塔からの帰り道を、ただひたすら、足早に歩いていた。
あれは間違いだった、と今すぐにでも訂正したい衝動に駆られ、けれどそれを抑えたのは、自分が選んだ という事実だった。
あの時のようにカイの周りで全てが決まっていて、自分にはもうどうしようもない状況にまで追い込まれていたなら、この気持ちも違っただろうか。
カイには選べる自由があって、カイは、ヴィンセントから離れるのを決意した。
今日のことに後悔はない。
そう言い聞かせても、身体が鉛のように重かった。
――これを使ってヴィンセントを動かないようにさせてくれ。あの子を捕まえておくのは、きっと大変だろうからね。
そう言って渡されたものを、カイは手のひらにぎゅっと握り込む。
静まり返った家の戸を小さく開けて、ミアがいつも通りもう寝ていることに安堵しながら、寝室の扉まで進んだ。
キィ、と甲高い音が響くと、夜間にはいつもその音にひやりとさせられていたが、今日も同じようにそれは鳴った。
同じではなかったのは、そこに、ヴィンセントがいたことだ。
「…………ヴィンス?」
一瞬、闇に紛れたエリアスの、先程の姿とそれが重なって目を瞬く。
小さく声をかければ、振り向いた男の背後の灯が、その姿をじわりと浮かび上がらせた。
「……暗かったので、灯りを借りました。昔これを転がしたでしょう」
静かに告げて、ヴィンセントは握り込んだ宝石を燭台の傍に散らした。
途端に部屋の中には淡い色彩がぼんやりと広がり、男はカイの理解が及ばぬ前に、す、とこちらに近づいてくる。
「あんた、どこに行ってたんですか? 不用心ですよ、窓が空きっぱなしだった」
「……っそ、んなの」
そんなのは、ヴィンセントがいつ来るかもわからないからだとは言えなかった。
突然の出来事に頭が回らないまま、けれど、自分はこうして訪ねて来られるのを、あの時からいつもひたすら待っていたのだと思い知る。
ただ今日だけは、今だけは会いたくなかったけれど。
「……っ何しに来たんだ、お前」
「何って……用事がないのに来たらいけませんか。ただ顔が見たかっただけですよ。近いうちに……長くこの場を離れるので」
「……っ!」
その言葉は、エリアスの言った通り、自分はアルテリアとの戦いに出向く、という意思表示だった。
やはりこの男は行くつもりなのだ。正義感が強くて、たった一人の兵士に大それたことが出来なくても、ヴィンセントは行く。
「……っ言いたいことはそれだけかよ」
「?……カイ?……って、それどうしたんですか。胸元が解れてる」
いつにないカイの様子を不審に思ったのか、ヴィンセントが顔を覗き込むようにしてそれを見つけてしまった。
反射的にぱっと身体を引いたのが、何かあった ことを如実に物語る。
驚きの表情で視線が交わり、けれど途端に、男の顔が刺々しく尖った。
「それ、どうしたんですか? 誰にやられたんです」
「……ったまたま外を歩いてたらひっかけただけだ。お前には関係ないだろ」
「ひっかけた? ミアが丁寧に誂えてくれたものを? あんたは絶対そんなことしないだろう!」
語尾が荒っぽくなった声を叩きつけられて、カイの身体がひく、と戦慄く。
けれどここで引いてしまっては元も子もないのもわかっていた。
自分がどんな思いで【選択】をしたのか。
今さらそれは覆せない。
「うるさいな! どうでもいいだろ!」
「どうでもいい? あんた、まさかまた一人でなにかしようとしてるんじゃないでしょうね?!」
「またってなんだよ! だいたいお前だって勝手に軍に入ったじゃないか! それが、今度はとうとう出兵するだって? 貴族のお前が? 好きなだけ優遇してくれるだろうに、鍵だからって、好き放題させやがって!」
「それは、しょうがないでしょう! 軍に入った時からわかってたことじゃないんですか?! あなたは反対しなかった!」
「できるかよ!」
カイの鋭い言葉に、ヴィンセントが言葉につまる。
できるわけがなかった、そんなこと。
ヴィンセントの足を引っ張らないにするにはどうしたらいいのか、そんなことばかり考えていたのだから。
「……お前、縁談の話はどうするんだよ」
カイがぽつりと零すと、ヴィンセントは明らかなに顔を顰めた。
負けじと睨み返した視線を苛立った表情で見下ろしてくる。
「……またその話を蒸し返すんですか」
「その子を大事にしてやらなくていいのかよ? 選べるんだぞ……お前にはそういう道だってあるんだ!」
「俺が大事にしたいのはあんただけだ!!」
次に会カイを黙らせたのは、ヴィンセントのそんな叫びだった。
ぐ、と掴まれた腕が熱い。赤い相貌が、カイを焦がすように見つめている。
「……俺が……どんなにあんたを想ってるのかわかりますか……本当は、あんたがずっと大事にしてる思い出だって煩わしい。あんたを誰にも渡したくない」
そう言い切ったヴィンセントが、何かを懇願するようにカイの両腕に力を込める。
こういう時にだけ遠慮なく触れるその指先が憎らしかった。
まっすぐな感情が怖くて堪らない。苦しくて、縋りついてしまいそうで必死に振りほどいた。
「……っだからお前が行くのかよ? 俺だって、この力でどうにかできることがあるならするべきだろ!」
「それはあんたの意志か? 違うだろ、自分が犠牲になれば何もかも丸く収まるとでも思ってるんだろ!」
「うるさい!」
うるさい、うるさい、そんなこと。
俺の意思なんて、お前の為に全部使い果たしたいに決まってるだろう。
けれど、言いかけて喉が詰まった。
言葉もなく睨み吸えると、それ以上に苦しげに歪んだヴィンセントの顔がこちらを捉えている。
小さな舌打ちが聞こえ、不意に身体が軽くなったかと思えば、簡単に壁際まで追い詰められた。
抵抗をする間もなくそれを乱暴に下ろされて、壁に向き合うように後ろから抑えつけられる。
首に、ヴィンセントの指が触れていた。
食い込む感触と、間近に迫る呼吸が心を震わせる。
「……俺は、あんたの背中ばかり見てる。見てきた。こんな非力な身体に俺は勝てないんだ。だから行く」
確かな言葉に、カイはとうとう返す言葉が何一つ思い浮かばなかった。
ヴィンセントの気持ちがわからなかった。
カイの力に及ばないとわかっていて、自分ができることがそう多くないこともわかっていて、それでも命を懸けるというヴィンセントの言葉が理解できなかった。
ヴィンセントが死んでも、カイの永遠の命は終わらない。
終わらないのに。
唐突に首の後ろがじわりと傷んで、ヴィンセントにまるで喰らわれるように噛まれたことを思い知った。
強く叩きつけられた身体から力が抜けると、同じように、跡がつくほど握り潰された片腕が壁を伝い落ちる。
もう無理だ。
無理だった。
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