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エピローグ

身動ぎをしたせいで、内腿にじわりと何かが垂れたのを感じカイは目を覚ました。  部屋に差す陽の明るさから、どうやら少しだけ寝過ごしたのだとぼんやりと思う。  昨日は一体いつ寝入ったのだったか、ふわりと鼻を掠めた懐かしい匂いに、視線だけを向けると、傍らで寝台の背に上体を預けたヴィンセントがこちらを見ていた。 「起きましたか?」 「…………ヴィンス」 「寝てますね」 「うん」  カイのたどたどしい口調に、相手は小さく苦笑した。  未だ夢心地のままそれを見上げていると、指の背でやんわりと頬を撫でられる。  昨日の出来事を忘れた訳ではなかったが、カイが寝起きにいつもこうだと知っている相手は、そっと手を引っ込め、寝台脇の水差しからコップ一杯分の水を注いでくれた。 「喉が乾いたでしょう。飲んでください」 「……ありがとう」 「……こういう時だけ素直なんですね」  苦笑を深めた相手が、「いつもこうならいいのに」と小さく呟く。そんなにいつも悪態をついていただろうかと、ほとんど寝転んだまま腰元に顔を埋めると、その身体はぴくりと反応した。 「っ……ちょっと、……待ってください。今じゃないです。どうせ後で恥ずかしくなるでしょ」 「いいだろ、俺が恥ずかしがるのは俺の勝手だ」 「そうですけど、っ……ちょっと、カイ!」  強引に身体を剥がされ、焦った相手の顔と今日初めて真正面から向き合った。  翡翠の瞳に吸い込まれるようにして手を伸ばせば、ヴィンセントの温かい手のひらがそれを宥める。  むっつりとカイを見据え、小さくため息をつくと、指先はすぐに離れていった。 「……あんた……かわいいことをしないでくださいよ。話さなきゃならないことがまだあるんです」 「? ……なんだよ」 「あの猫……リリーのことです。実はリリーにも今回の件で助けてもらっていました」 「リリー?」  唐突な言葉に、少しだけ意識が覚醒した。  最後に見たのはエリアスに監禁されていたあの時だ。  今頃何をしているのかと考えてはいたが、まさかこんなところでその名前を聞くとは思わず反応に困る。  ヴィンセントがそれを見て忌々しそうに拗ねた顔をした。 「ほんとに、癪でしたよ。帰るたびにあんたの近況をあの猫から伝えられるのは」 「……? そんなにあいつと話てたのか?」 「まぁ、そうですね。公女の件があってからは余計に。苛つくので当たり散らしてましたけど」  だからいつもリリーに対して、ヴィンセントは厳しかったのだ。  何となく腑に落ちたような、それでいてヴィンセントの情報提供者がミアではなくリリーだったということがまだ信じられなかった。  そんなふうに敵愾心を燃やしながら、なぜリリーとの付き合いをやめなかったのだろう。  疑問が顔に出ていたらしく、相手が気まずそうにそっと視線を逸らした。 「……あんたのことが、心配だったんです。あいつはカイのことを気に入っているし、それに、クロエの借りを返すからって、あの猫は言ってましたよ」  それを聞いて、カイは驚きに目を瞬かせた。  全ての謎の答えが一気になだれ込んで、がばっと上体を起こす。  リリーがその名前を知りえるなら、彼女はきっとベルナイツに居たのだ。クロエの飼い猫として愛され、何かをきっかけに化け猫になった。  カイとの出会いは偶然だったのかそうでないのかはわからないが、たびたびカイを諭したのは、カイを助けるためだった。  ヴィンセントを信じて待っていてやれと。私たちがそばに居るからと。 「っ……あいつの言葉はいつも難しいんだよ」  不意に力が抜け、ぽふ、とふたたび敷布に身体を沈める。  あいつの言葉はいつも難しい。  ウィンターも、リリーもミアもヴィンセントも。  いつだってカイの理解を超えて、カイが知らないうちに、カイを助けてくれた。  カイはいつだって護られていた。自分は独りじゃなかったのだ。そんな安心感と戸惑いが胸に広がり、相手の腰に今度こそぎゅっと顔を埋めた。 「……カイ? どうしたんです」 「……また寝る」 「また寝る? 中のものを掻き出さないと、腹を壊しますよ」 「…………うん」  そんな痛みなら、いくらでも耐えられる。  優しく髪を撫でられ、頭の上で、相手がふわりと笑う気配がした。  こんな、こんなにも幸福な気持ちをどう扱っていいのかわからない。  けれど、予感がするのだ。  それは陽の光に照らされた翡翠色(・・・)の瞳を持つ男が、自分を今度こそ柔く抱き締めるような温かい瞬間の。

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