16 / 16
エピローグ
身動ぎをしたせいで、内腿にじわりと何かが垂れたのを感じカイは目を覚ました。
部屋に差す陽の明るさから、どうやら少しだけ寝過ごしたのだとぼんやりと思う。
昨日は一体いつ寝入ったのだったか、ふわりと鼻を掠めた懐かしい匂いに、視線だけを向けると、傍らで寝台の背に上体を預けたヴィンセントがこちらを見ていた。
「起きましたか?」
「…………ヴィンス」
「寝てますね」
「うん」
カイのたどたどしい口調に、相手は小さく苦笑した。
未だ夢心地のままそれを見上げていると、指の背でやんわりと頬を撫でられる。
昨日の出来事を忘れた訳ではなかったが、カイが寝起きにいつもこうだと知っている相手は、そっと手を引っ込め、寝台脇の水差しからコップ一杯分の水を注いでくれた。
「喉が乾いたでしょう。飲んでください」
「……ありがとう」
「……こういう時だけ素直なんですね」
苦笑を深めた相手が、「いつもこうならいいのに」と小さく呟く。そんなにいつも悪態をついていただろうかと、ほとんど寝転んだまま腰元に顔を埋めると、その身体はぴくりと反応した。
「っ……ちょっと、……待ってください。今じゃないです。どうせ後で恥ずかしくなるでしょ」
「いいだろ、俺が恥ずかしがるのは俺の勝手だ」
「そうですけど、っ……ちょっと、カイ!」
強引に身体を剥がされ、焦った相手の顔と今日初めて真正面から向き合った。
翡翠の瞳に吸い込まれるようにして手を伸ばせば、ヴィンセントの温かい手のひらがそれを宥める。
むっつりとカイを見据え、小さくため息をつくと、指先はすぐに離れていった。
「……あんた……かわいいことをしないでくださいよ。話さなきゃならないことがまだあるんです」
「? ……なんだよ」
「あの猫……リリーのことです。実はリリーにも今回の件で助けてもらっていました」
「リリー?」
唐突な言葉に、少しだけ意識が覚醒した。
最後に見たのはエリアスに監禁されていたあの時だ。
今頃何をしているのかと考えてはいたが、まさかこんなところでその名前を聞くとは思わず反応に困る。
ヴィンセントがそれを見て忌々しそうに拗ねた顔をした。
「ほんとに、癪でしたよ。帰るたびにあんたの近況をあの猫から伝えられるのは」
「……? そんなにあいつと話てたのか?」
「まぁ、そうですね。公女の件があってからは余計に。苛つくので当たり散らしてましたけど」
だからいつもリリーに対して、ヴィンセントは厳しかったのだ。
何となく腑に落ちたような、それでいてヴィンセントの情報提供者がミアではなくリリーだったということがまだ信じられなかった。
そんなふうに敵愾心を燃やしながら、なぜリリーとの付き合いをやめなかったのだろう。
疑問が顔に出ていたらしく、相手が気まずそうにそっと視線を逸らした。
「……あんたのことが、心配だったんです。あいつはカイのことを気に入っているし、それに、クロエの借りを返すからって、あの猫は言ってましたよ」
それを聞いて、カイは驚きに目を瞬かせた。
全ての謎の答えが一気になだれ込んで、がばっと上体を起こす。
リリーがその名前を知りえるなら、彼女はきっとベルナイツに居たのだ。クロエの飼い猫として愛され、何かをきっかけに化け猫になった。
カイとの出会いは偶然だったのかそうでないのかはわからないが、たびたびカイを諭したのは、カイを助けるためだった。
ヴィンセントを信じて待っていてやれと。私たちがそばに居るからと。
「っ……あいつの言葉はいつも難しいんだよ」
不意に力が抜け、ぽふ、とふたたび敷布に身体を沈める。
あいつの言葉はいつも難しい。
ウィンターも、リリーもミアもヴィンセントも。
いつだってカイの理解を超えて、カイが知らないうちに、カイを助けてくれた。
カイはいつだって護られていた。自分は独りじゃなかったのだ。そんな安心感と戸惑いが胸に広がり、相手の腰に今度こそぎゅっと顔を埋めた。
「……カイ? どうしたんです」
「……また寝る」
「また寝る? 中のものを掻き出さないと、腹を壊しますよ」
「…………うん」
そんな痛みなら、いくらでも耐えられる。
優しく髪を撫でられ、頭の上で、相手がふわりと笑う気配がした。
こんな、こんなにも幸福な気持ちをどう扱っていいのかわからない。
けれど、予感がするのだ。
それは陽の光に照らされた翡翠色 の瞳を持つ男が、自分を今度こそ柔く抱き締めるような温かい瞬間の。
ともだちにシェアしよう!