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第1話

 俺がまだ稚魚だったころ、海の城の大広間でひいひいばあちゃんの肖像画を見た。ふわふわと波打つ栗色の髪に、くりくりとした青い瞳の、それはそれは可憐なひとだった。 「あれは『人魚姫』──あなたの、ひいひいおばあさまの絵姿よ」  母ちゃんが誇らしげに教えてくれた。 「ほわぁ〜! しゅごい、びじんしゃんだねぇ〜! かかしゃまぁ、あのひとがカミーユの、ひーひーおばーしゃん?」 「そうよ、私たちのご先祖さま。あの方はね、人間の国に行って、たくさんの冒険をした偉大な人魚なの」  まだ小さかった俺は母ちゃんに抱っこされながら、肖像画のひいひいばあちゃんを見つめていた。  人間の王子に恋をしたけど想い届かず、相手の幸せを願って身を退いた美しきマーメイド。けれど、北の国の作家が描いたおとぎ話と違って、彼女は泡と消えることなく、海の中で幸せに暮らして、たくさんの稚魚を育てあげた。 「そーなんだよ! 俺は声を大にして言いたい! 『人魚姫』のストーリーはフィクションだって!!」  ひいひいばあちゃんは泡になって消えたりしてねーし、幸せな人魚の奥さんになって、子供ばんばん産んで肝っ玉母ちゃんになって、長生きしたんだよ!  作家は海に帰ろうとしてるひいひいばあちゃんを呼び止めて取材したんだって。俺が思うに、取材ってのは口実で、実はナンパだったんじゃねーのかな。人のご先祖様を適当にネタにしやがってぇ〜……この恨み、晴らさでおくべきか──バフンウニのトゲトゲで刺して、海神ポセイドン様の供物にしてやる!!!  と思ったけどこの作家、もうとっくに死んでるんだった。残念だ。作家に復讐することは叶わない。  キィィィィと叫んで俺は絵本を壁に向かって投げ捨てた。バサバサとページが広がって、くしゃりと紙に折り目がつく。すまん、本に罪はなかったな。  俺にとって人魚姫──ひいひいばあちゃんは(会ったことはないけど)聖女さまとでも呼びたいような……たとえるなら、海神ポセイドン様にも近いお方なのだ。  だけどさあ〜、『人魚姫』に出てくる「人間の王子」ってのがクソすぎる。命の恩人を取り違えて、隣国の王女様にプロポーズしちゃうとか、空前絶後のアホだろーが。  ポンコツ王子なんてバフンウニに喰われて死んでしまえばいいんだ!  ……とにかく俺は、人間ってやつが大大大っ嫌いなのだ。  肘掛椅子にもたれて、アンニュイな気持ちで窓の外を眺めていると、部屋のドアがバーンッと開いた。のっしのっしと入ってきたのは父ちゃんだ。巨体に似つかわしい太い眉毛を、きりきりと吊り上げている。 「こらっ、カミーユ! 書物は大事にせんかぁっ!!」  貝殻でできた床をびたんびたんと尻尾で叩きながら、父ちゃんが一喝した。びりびりとよく響く声なので、真横に雷が落ちたみたいに感じる。コワイヨォ。  俺の父ちゃんは人魚族の王様をやってる。ひとことで言うと、頭の固い頑固親父だ。若い頃は美少年だったって本人は言ってた。たぶん嘘だと思う。  まあでも、コーラルピンクの綺麗な髪と、透きとおるようなアクアマリンの瞳は、俺に引き継がれているわけで。遺伝的なものには感謝してるよ。髪の毛もワカメみたいにモサモサしてるから、将来ハゲなさそうだ。  厳しい顔で睨んでくる父ちゃんに、俺は「だってぇ!」と口を尖らせて反論した。聞いてくれ父ちゃん。ひ弱な末っ子ニートの俺だけど、これでもいろいろ考えてるんだ。 「『人魚姫』の話、クソじゃんか〜! バフンウニよりももっとクソ!! 父ちゃんだってそう思うだろ!? ひいひいばあちゃんのことを描いた本って、なんでどれもこれも悲しい結末なんだよ〜、納得できねえよ〜、はらわた煮えくりかえってたまんねーんだけどぉ! 王子クズ男じゃん! 王子がクソだからハッピーエンドにならないんじゃん! この世の悲劇はぜんぶ王子のせいなんだーっ!」 「だからって本を破くな、大バカもんがーっ!」  ごっつん。と、頭のてっぺんにゲンコツをくらった。ちかちかと目の前に星が散る。いてー。頭凹むんだけどぉ。涙で目のまわりがびしゃびしゃになった。びっくりして鼻水まで出ちゃったよ。 「ふぇ、いたいよぉ〜……ぐすっ。なあ、父ちゃん。俺、王子に復讐しに行く! 一国の主になるやつが、こんなクソでいいわけない! 俺が王子の顔面ぶん殴ってくるよ!! ひいひいばあちゃんを泣かせた罪、そのツラに刻んでやる〜っ!!」  父の拳に負けじと、ゴォーッとクジラのように吠えた俺は、拳を天高く突き上げた。ひいひいばあちゃんのことを想うだけで体中に生気がみなぎってくる。  俺は子供部屋の窓に向かって突進した。 「待ちなさい、カミーユ! 陸のことに関わるのは良くない! おまえはこの家の大事な大事な可愛い末っ子なんだ! 短気なふるまいをするんじゃないっ!!」 「ごめん父ちゃん! 末っ子の俺でも、今なら何でもできる気がするんだッ!!」  子供部屋からの脱出用に改築した、はめ殺しと見せかけた窓を尾で叩き壊し、俺は海中へ飛び出した。  尻尾でぐんぐん海水をかき分け、家から離れていく。父ちゃんは図体が太いので、窓枠に腹肉を挟んだまま、顔を赤くして何か言っている。 「カミーユ! おいこらぁ! お外は危ねえんだぞバカったれ〜!」という父ちゃんの声が聞こえたけど、「物事に勢いは大事だ。鉄は熱いうちに打つっきゃねぇぞ」って教えてくれたのも父ちゃんだったよね??  ひいひいばあちゃんの仇は、俺がとる! 父ちゃん、母ちゃん。俺が復讐を遂げるまで、海の城で待っててくれよなっ!

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