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一時間目

『数学ひますぎる』 移動教室の時、俺が使う机の上に書かれたその文字が なぜだかとても気になった。 ほんの少しの好奇心と興味に負けて 俺はそっとその下に返事を書いた。 『わかる、暇だよね』 たったそれだけの何の変哲もない言葉 面白さも何も無いただの言葉だった。 どうせ返事なんて来ないだろうけど 次にこの机を使うのをどこか楽しみにしている自分がいた。 高校生活二年目 学年が上がってすぐの春 今年から新しく選択授業が増えて、選択によっては自分のクラスとは別の教室を使って授業を行うことが増えた。 数学の移動教室でこの教室を使うのは週に三回 月曜日と火曜日、それから木曜日だ。 「えーし、早く教室戻るよ」 「おー」 かけられた声に素直に従って振り返る。 声の主は一年の頃からよく連んでいる見間だった。 そうだ 今日は授業の終わりが少し遅れて急がなきゃいけないんだった。 次にこの教室を使うであろう生徒らはすでにドアの前に溜まっており、この中にあれを書いた奴がいるのかな、なんて考えて出口に向かう。 俺が通うこの学校は男子校で男しかいないわけなのだが、妙に丸っこくて可愛い字だったため有りもしない妄想を膨らませてしまう。 男装した女の子が男子校に潜んでたりな! 流石に夢見すぎか… 本当に有り得ないんのはわかってるんだけど 「えーし!」 「今行くって!」 片付けの遅い俺にしびれを切らした見間が叫ぶ。 そんな大声で人の名前を叫ぶなよ… はあ、と溜息を吐きつつ わざとゆっくり歩いて扉まで向かえば ドンッ と、肩がぶつかった。 「あ、わりっ」 「チッ」 咄嗟に謝って、ぶつかったやつを見れば舌打ちをひとつ返された。 うわ、なんだコイツ ぶつかったのは俺だし悪いのかもしれないけど 舌打ちすることないだろ! そう言ってやりたかったけれど そいつの瞳があまりにも冷たいものだったからやめた。 決してビビったわけじゃない。 全然、まったく、これっぽっちも怖くはなかった。 髪の毛も明るい色だしこいつ絶対不良だ不良! なんて心の中で偏見にまみれた文句を投げつけた。 当然返事は帰ってこない。 「えーし、マジで早く!」 「わかったって」 見間の声にハッとしてやっと教室から出る。 少し離れたところにいるが律儀に俺を待ってる見間に苦笑がこぼれた。 相変わらず優しいっていうか世話焼きっていうか もうその時点で、俺の頭にはさっきの机の上のやり取りなんかこれっぽっちも残ってなかった。 いつもなら二度と思い出さないこともあり得る俺の記憶力 しかし、二度となんてことはなく すっぽ抜けていたそれを思い出したのは意外と早くて 翌日、火曜日のことだった。 『返事のセンスがない』 教科書で隠れていて気づかなかったその文字 たまたま、うとうとしていて教科書を落とした時 その文字に気がついた。 机に新しく書かれた文字が目に入る。 「なんだとー!?」 「日下うるさい!」 「あ、すんません」 授業中という事を忘れて叫ぶと教団に立つ先生に怒られた。 いやいや、これは俺のせいじゃない! これを書いたやつがきっと俺を嵌めようとしたんだ! なんて八つ当たりもいいところ 怒りを覚えるが直ぐに先生には謝った。 すると、たちまち教室は笑いで満たされ、 周りから「バカ」だの「あほ」だの野次が飛んでくる。 ただ、今の俺はそれどころじゃなくて こんなに可愛らしい字で書かれてんのに言葉がナイフだ! つかセンスってなんだ!センスって!! それを言うなら『数学、ひますぎる』の方がセンスないだろ! 不貞腐れながら机に肘をついてもう一度その文字をなぞるようにゆっくり見つめる。 と、 「…?」 文字が書かれた机には黒炭を引き摺ったような 何度か書き直されたような跡があった。 それを見てなんとも言えない気持ちになる。 …もしかして、なんて書こうか悩んでた、とか? 俺の勝手な思い込みなのかもしれない。 でも、どうしてか胸の奥に染みるようにじんわりと熱が広がるのを感じだ。 「くーさーか〜?今度はニヤニヤして楽しそうだな?」 「え!?いや!そんなことないっすよ!」 ははっと笑ってみても見逃しては貰えず 「これ、Xの値解いてみろ」 「え?えーっと……2とか?」 「適当に答えるな!廊下に立ってろ!!」 「…うあーい」 ゲラゲラと品のない笑い声が響く教室から出る。 途端に静かになった廊下で俺は一人頭を抱えた。 くっそ、誰かヒントとか教えてくれてもいいだろ! こういう時、見間は一切こっち見ないし! どうせバカとか思ってんだろ! 春とはいえ、少しまだ肌寒い人気のない廊下 いや、てか今どき廊下に立ってろとか有り得る? いつの時代だよ 体罰だーとか言ってダメになったんじゃないの? まぁ、俺は別にいいけどさ 合法的(?)にサボれるし ぼーっと窓の外で気持ちよさそうに泳ぐ雲を眺める。 もちろん反省なんてしてないし 俺の頭にあるのはつまんない数学のことじゃなくて なんて返事を書こうかなってことだけだった。 退屈な数学の時間が、楽しい時間になり始めたのは きっとこの頃からだ。

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