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第1話
【1】狼皇太子と偽の花嫁
大理石の床にひざまずくと、慣れない大ぶりの耳飾りがシャラと揺れた。
嫁入り衣装の裾が床に広がって、純白の円を描く。地元の郡主があつらえたこの衣の下に、柔らかな乙女ではなく、男の身体が隠れていようとは誰も想像していないだろう――とユスフは心の中で自嘲した。
「面を上げよ」
低い声が降ってくる。
本来なら、騎士団に入ったばかりの自分には同じ空気を吸うことすら許されない相手――オスマネク帝国、レヴェント皇太子の声だ。広大な領土と軍事力を持ち、文明の進んだ近隣諸国も恐れをなす国の、未来の皇帝――。
ユスフはからからに渇いた口をきゅっと引き結んで、顔を上げた。
顔は薄いヴェールで隠されているので、あちらからははっきりとは見えないだろう。しかし、ユスフからは彼の姿がよく見えた。
「――っ」
容姿だけは国内随一、と言われるその佇まいに、ユスフは息を詰まらせた。
横にゆったりと編み込んだ長い銀髪が揺れて光を反射し、褐色肌の顔には、切れ長の瞳が均整を保って並ぶ。瞳孔を除いて瞳は金色で、肌とのコントラストを強調した。椅子に腰かけて組まれた脚は、長上衣カフタンに隠れているものの、その長さを見るに上背もかなりあるようだ。
ただ、レヴェント皇太子にはユスフとは大きく違う点があった。
側頭では頭髪と同色の三角耳がぴくりと動き、背後では豊かな被毛の尻尾がゆったりと揺れているのだ。
彼は獣人であり、なかでも権力の強い一族――狼獣人だった。
このオスマネク帝国は、彼ら狼獣人一族が統治している。
多種多様な獣人が暮らし、ユスフのように獣の血が混じっていない人間族は一割にも満たないと言われている。身体能力も体格も獣人には劣り数も少ないことから、帝国内での人間は立場が弱く下層の者が多かった。
そんな人間が、宮殿で皇太子に謁見するなど天地がひっくり返ってもあり得ない。
このように、花嫁に化けて接近する以外は――。
「そなた、ミネと言ったか。二十歳だったな」
本当は二十三歳だが、今は三つ下の妹ミネのふりをしている。
ユスフはこくこくとうなずいて肯定した。声は低くはないが女性ほどではないので、返事をすれば男だとばれてしまうからだ。
ばち、と視線が合い、金色の瞳がユスフを射貫く。背中から冷たい汗が噴き出した。偽計を見透かされそうで、慌てて目を伏せる。
同時に、自分の行いの罪深さを実感する。〝馬鹿正直〟などとからかわれるほど嘘のつけないユスフが、生まれて初めて嘘をついた相手が皇太子殿下になろうとは――。
花嫁の兄だとばれないうちに、この皇太子に喰い殺される必要があった。
(噂では〝花嫁喰い〟で有名な皇太子だが公言はしていない。おれを食い殺して男だと分かったとしても、体面に関わるだろうから表沙汰にできないはずだ……)
レヴェントは片手を挙げて、謁見の間に控える側近――多くは狼獣人のようだが、中にはリス獣人や猫獣人もいた――をすべて下がらせた。
部屋にはレヴェントと二人きり。
彼は座り心地のよさそうな椅子から立ち上がり、ゆっくりと階段を下りてくる。
(そうか、食事は人に見られないようにするのか)
レヴェントがそばで屈み、長い指でユスフの顎を上向かせる。突然、丸かった指の爪がぎゅっと鋭利に尖った。人の喉くらい簡単に切り裂けそうだ。
「顔は、悪くないが……」
二人きりになった部屋でヴェール越しに見つめられる。レヴェントが自身の膝に肘を置いて、頬杖をついた。
「なぜ男が花嫁衣装を着ているんだ?」
終わった――と全身の血の気が引いた。
顔はミネに似ているし、長い髪のかつらだって被っている。背格好だって体格だって、このゆったりとした花嫁衣装なら、すぐにはばれないと思っていたのに。
「狼の鼻は人間の個体を嗅ぎ分けられる。雌雄など離れていても分かるぞ。しかしそなた――良い匂いだな」
細められた金目は、三日月のようだった。
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