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第3話

 同窓会から一ヶ月後、新年の浮かれた雰囲気は落ち着き、日常を取り戻した頃。黒兎はいつものように自宅マンションの自室でギリギリまで寝ていた。  最終兵器の洗面所に置いてある目覚まし時計が鳴り、布団をかぶったままのそりと起き上がる。目が半分も開けられないまま洗面所へ向かい、目覚まし時計を止め、顔を洗った。  鏡に映る童顔。今年三十三なのに未だに学生に間違われる黒兎は、寝癖のついた髪の毛にイラついて、頭から水をかぶる。冬の冷たい水は一気に意識を呼び寄せ、黒兎の目はようやく覚めた。  綾原(あやはら)黒兎。仕事は整膚師(せいふし)。趣味は舞台鑑賞で友達はいない。  黒目がちな目で鏡を見ると、幾分か寝癖は良くなった。タオルで雑に顔ごと拭くと、いかにも大人しく、繊細そうな顔がそこにはある。 「今日もやりますかぁ……」  全く気合いの入っていない声で気合いを入れると、そのまま洗面所で着替えをする。現場作業服でお馴染みのチェーン店で買った、長袖のピッタリしたインナーに、紺色の上下の施術用ユニフォームを素早く着て、リビングダイニングへと向かった。  リビングダイニングに入ると、そこは十畳程の広さで、壁に沿うようにキッチンがある。コンロにはヤカンが置いてあり、いつものように水を入れて火にかけた。その間に黒兎は、冷蔵庫からペットボトルの緑茶を出して、キッチン作業台に置いたマイバッグをあさる。  取り出したのは菓子パンだ。ギリギリまで寝ていたいため、朝食は極力手間がかからないものにしているけれど、昼食も夕食も、コンビニで(まかな)うようになってしまったことには目をつむる。  菓子パンを頬張りお茶で流し込むと、ヤカンの水が沸くのを待った。沸騰したらお茶パックを入れ、ある程度煮出したところで火を止める。保温ポットにできたお茶を移して、サロンの部屋へ持っていく。  すると、インターホンが鳴った。モニターで確認すると、今日一人目の女性客がいる。黒兎は家に招き入れた。 「先生! 聞いてくれますか!?」  入るなり、元気に話し出した彼女の名前は皆川(みながわ)いずみ。前職でお世話になって以来、ずっと何かと気にかけてくれ、その上知り合いも紹介してくれる上客だ。  いずみは黒兎より年上らしいけれど、見た目も言動もそうには見えない。サラサラのミディアムストレートが笑う度に揺れて、細く華奢な身体からは、想像がつかないようなパワフルさがあって、黒兎は人間的に彼女が好きだった。  黒兎は彼女が上機嫌だと知り微笑む。自宅の、サロンとして使っている部屋に案内すると、いずみはソファーに座った。 「先日、大きい契約が決まったんです」 「え、凄いじゃないですか」  黒兎は素直に驚いてみせる。彼女は主に法人相手に営業をする保険募集人で、飛び込みで行った所で契約が取れたらしい。詳しい事は話せないけれど嬉しくて、と話すいずみは、少女のようで可愛らしい。 「しかもそこから、ツテが広がりそうな方なんですよね」 「じゃあ、しっかり体調整えて気合いを入れないとですね」  そう言って黒兎は、早速施術用のベッドに案内しようとするけれど、いずみは待ってください、と手のひらをこちらに向ける。 「急で申し訳ないですけど、その社長さんが先生の施術に興味を持ったみたいで」  彼女はその人を今日、黒兎に紹介したいと言う。黒兎としても、新規さんが増えるのはありがたいので快諾した。 「何か、いつもご紹介頂いてありがとうございます」 「いえいえ。だって先生、紹介でしか受け付けてないじゃないですか」  黒兎はいずみの言葉に苦笑する。とある事情で、黒兎のサロンは紹介でしか来られない事になっており、広告らしい事もしていない。それでも生活が成り立っているのは、黒兎の施術が好評だからに他ならない。 「それに、私が先生を気にかけるのは、先生が人間的に好きだからですよ」 「……ありがとうございます」  いずみの言葉に、社交辞令と知りつつも、嬉しさを全面に出すのははばかられ、苦笑になってしまう。すると彼女は、そういう謙虚なところが儚げで母性本能くすぐられるんですよね、と呟いた。意味が分からなくて聞き返すと、いずみは両手を振って何でもないと流す。  すると、インターホンの音がした。 「あ、例の社長さんかも」 「分かりました、ちょっと出てきますね」  黒兎はマグと先程の保温ポットをいずみに出すと、玄関へと向かう。  そして、冒頭のシーンの通り、思わぬ人物と出くわすことになったのだった。

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