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第12話
それから黒兎は、いずみが営業に来る度話しかけられ、世間話をするという仲になった。
「毎回油売ってて良いんですか?」
余計なお世話だと思いつつも、そんな軽口も言える仲になった。何故かいずみは、黒兎には保険の話を一切せず、楽しい話題を提供してくれる。
「良いんですよ。今日おたくの社長さんと、これからアポなんで」
一体いつの間にそこまで話を進めたのだろうか、いずみはしれっと言う。遊んでいるように見えて、実はやり手なのかもしれない、と黒兎は思った。
「あ、やば……そろそろ行かないと。では」
いずみは立ち上がって食堂を出ていった。黒兎は何となくその行方を眺めていると、横から視線が注がれていることに気付く。見ると、内田がこちらを睨んでいた。
「……っ」
黒兎の緩みかけていた顔が引き締まる。睨まれる筋合いはないのに、と思っていると、つかつかと内田がやってきた。
「……ずいぶん仲良さそうに話してたな」
「……普通に世間話してただけです」
咎めるような口調の内田に、いい加減絡むのは止めてくれと黒兎は思いながら、素っ気なく言うと、彼は突然、大きな声でこう言ったのだ。
「あれー? お前女もイケたんだな? ホモだって言ってたのに」
黒兎はカッと全身が熱くなるのと同時に、周りの視線が自分に集まるのを感じた。それでも、内田は言葉を吐き続ける。
「俺、言い寄られてて困ってたんだよね。でも、お前がそんなにビッチだとは知らなかったわー」
黒兎は慌てて立ち上がって食堂を出た。周りの視線が刺さって、肌がゾワゾワして気持ち悪い。額から汗が吹き出ているのに、歯がガチガチと鳴って、今すぐ座ってうずくまりたいほどだった。
何とか人通りのない階段の踊り場まで逃げると、両腕を抱えて座る。
どうしてだ、なんのつもりだ? と黒兎は震えながら息を吐き出す。告白を断った腹いせか、と目眩がして目をつむる。
すると、昼休み終了のチャイムが鳴った。行かなければ、と立ち上がりフラフラと事務所へ戻る。
中に入った途端、みんなの視線が刺さった。それは顔色が悪い黒兎を、心配する目ではなく、好奇心と、嫌悪の目だ。それで、黒兎の味方はここにはいないことに気付く。
「良かった……俺、ずっと誰かに相談したくて……」
そんな内田の声がする。嫌な予感がしていると、内田とその周りにいた人たちが、黒兎に気付いた。
「ほんと、言い寄られて困ってたんです。何度断っても、しつこく付き合ってくれって……」
当てつけるように言う内田。一体誰の話だと黒兎は思う。実際は逆なのに、真偽を確かめるような人はいない。
それから不思議なことに、内田の成績は前よりも良くなっていった。黒兎は内田のサポートを外され……というか、まともな業務さえ与えられなくなり、事務所の清掃や、書類整理ばかりで、閑職 に追いやられたのだと気付く。
それでも、その中で自分にできることはあると思い、みんなが効率よく動けるように、レイアウトなどを工夫していった。
内田の成績が一時期落ちたのは、綾原が彼に迫っていたせいだ。黒兎は真面目に働いているのにも関わらず、そのうちそんな噂が流れ出す。
その頃には、黒兎は社員が集まる食堂にも、寄り付かなくなった。屋外の、別棟との間のちょっしたスペースで、ひっそりとパンをかじる毎日だ。
「あ、いたいた綾原さん」
最近見ないと思ったら、こんな所で食べてたんですね、とやってきたのは、いずみだった。
「……何か随分やつれてますけど、何かありました?」
わざわざここまで来たということは、黒兎を探していたのだろう。黒兎はいずみの質問に、曖昧に笑って誤魔化すと、彼女は気にした風もなく笑った。
「お疲れなら、いい先生ご紹介しましょうか?」
「え?」
思わず黒兎が聞き返すと、いずみは半ば強引に、連絡先を聞いてきた。考えることが面倒になっていた黒兎は、嫌な予感がしつつも流されるまま、番号を教えてしまう。
「整体とかじゃないんですけど、東洋医学とか……そっち方面の流れをくんだ、整膚 って施術なんです」
知り合いがやってて、とてもスッキリするから、と言ったいずみは腕時計を見て、ではまた、と慌てて去っていった。
(なんなんだ……)
どうしていずみは、わざわざ自分を探しに来たのだろう? まさか、社内の噂を聞いて、それを更に広げるために、黒兎から話を聞こうとしているのでは?
そう思って、サッと血の気が引く。
言えない。元々誰にも言うつもりはないけれど。もうこの時の黒兎には、誰かに相談するという選択肢はなかった。
(こんな時、雅樹ならどう対応するのかな……)
何でもそつなくこなす彼だったから、ニッコリ笑って流すかもしれない。
(だったら俺も……)
この時のこの判断が、後々裏目に出ることなんて、黒兎は分かるはずもなかった。
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