13 / 61

第13話

「綾原、いい加減に折れろよ」  昼休み、いつものように外の目立たない場所でパンをかじっていると、内田がやって来て胸ぐらを掴まれた。弾みでパンを落としてしまうけれど、すぐに背中を壁に打ちつけて短く呻く。 「……折れるって、何ですか」  黒兎は鋭い視線で睨んでくる内田と、視線を合わせずに呟く。黒兎はとっくに断ったはずだ、だから付き合う付き合わないの話は、終わっているはずなのに。そんなことを思っていると、内田は口の端を歪ませて言う。 「俺と付き合うか、みんなの前で俺はゲイですって言うんだよ」  どうしてそんなことを、と黒兎は思った。けれど口を開くことはせず、黙る。どうやら黒兎が内田の嫌がらせに反応しないので、さらに彼の機嫌を損ねてしまったようだ。 「なあ、俺とお前、結構良いコンビだっただろ? お前も俺のこと熱い視線で見てたじゃないか」 「……は?」  思いもよらない言葉に、黒兎は思わず反応した。しかしその反応は、内田の怒りを買ったようだ。 「は? って、何だよそれ。好きな人がいるって、俺のことだろ?」  いい加減折れろ、認めろ、と言う内田の言葉が、黒兎は理解できなかった。内田を見ると、そこには血走った目がある。ギラギラとしていて、怒りと、加虐心を感じ取った黒兎は、一気に恐怖が押し寄せ、内田の手首を掴んで離そうとした。 「ち、がう……ちがうっ!」 「じゃあ何であんな思わせぶりな態度だったんだ!?」  黒兎が抵抗すると、内田は案の定激昂した。黒兎はビクリと肩を震わせると、俺だけだったよな、彼も声を震わせる。 「俺だけ特別だっただろ? 名コンビだって言われてたし……っ」  そう言いながらも、彼の声には懇願のような、縋るような感情が滲んでいた。そこで黒兎も悟ってしまう。彼も、ずっと性指向を隠してきた人なんだと。そして、黒兎にふられて傷付き、それを認められなくて暴走しているのだと。  それでも黒兎は小さく首を振った。 「内田さん、落ち着いて……っ」  黒兎は息が苦しくなってきて喘ぐ。すると何を思ったか、内田は黒兎のワイシャツの前を、思い切り引きちぎるように開いた。  ボタンがいくつか弾け飛び、乾いた音を立てて落ちる。ネクタイを強引に引っ張られ、首が締まって呻いたところで、鎖骨に強烈な痛みが走った。 「い……っ!」  ごり、と何かが骨に当たる。内田が黒兎の鎖骨に噛み付いたのだと分かったのは、その数秒後だ。 「……俺は絶対諦めないからな」  内田は噛んだ跡をべろりと(ねぶ)り、そう呟いて去って行く。黒兎は乱れた呼吸をしながら、しばらく微動だにできなかった。  そして、ズルズルと壁に(もた)れて座り込む。それと同時に、何かが頬を伝って落ちた。 「……っ」  黒兎は大きく開けられた胸元を、隠すようにワイシャツを合わせる。  どうして? 諦めないって、何を? 黒兎は震える呼吸を抑えようと、細く息を吐き出す。夏なのに身体が震えてきて、指先が冷たいのに顔は熱い。  噛まれた所が痛んだ。シャツをめくってそっと覗いてみると、シャツにまで血が付いている。 「……ぅ」  目を閉じると溜まっていた涙が零れた。すると、 「綾原……さん?」  声を掛けられる。見るとそこには、驚いた顔のいずみがいた。 「……──っ」  黒兎は口を開いた。けれど言葉が出てくることはなく、顔ごと視線を逸らす。  いずみは黒兎のそばに来て、状況を把握したらしい、立てますか? と静かに言った。  このまま社屋に戻る訳にもいかず、黒兎はボタンが外れたワイシャツを再度前を合わせるように握ると、いずみに促されるまま、その場を後にする。  その後のことは、よく覚えていない。  ただ、それから一度も出社できずに退社したことは覚えている。  人が怖くなり、外に出られなくなった。このままじゃダメになる、と思いながらも身体が人と会うのを拒絶する日々。ヤケになって、スマホの電話帳やアプリのアカウントを全てリセットしたりもした。  それでも、いずみは理由も聞かず、あれこれ世話を焼いてくれた。なぜか彼女だけは受け入れられ、黒兎の信用できる人リストに彼女が追加される。  そしてだいぶメンタル的に落ち着いた頃、彼女に紹介してもらった整膚師に師事して資格を取り、それを職業としてサロンを開いた。  もともと人を癒すことに興味があった黒兎なので、整膚師に転職することには抵抗もなかった。  その間に、いずみが黒兎の噂を聞いていたことも知り、分かっていて話し掛けていたことが発覚する。  だから黒兎は、いずみには足を向けて寝られないのだ。彼女はどう思っているか知らないけれど、もし黒兎がゲイでなければ、恋愛という意味で彼女を好きになっていただろう、と思うほどには。

ともだちにシェアしよう!