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第34話

 それから数日後、黒兎は一日休みを取り、人と会う約束をしていた。 「あ、綾原さーん」  黒兎の自宅マンションから、歩いて行ける喫茶店。店内で待っていたのは、いずみだ。 「すみません。色々とお世話になったのに、お礼が遅れて……」 「いやいや、そんなのいいですよぉ。私も綾原さんが大変な時に異動になっちゃって、挨拶もできなかったんですから」  そう、黒兎が雅樹の家で療養をしている時に、彼女は本部へ異動になっていたのだ。 「それよりも! もう身体は大丈夫なんです?」 「ええ。まだ時々身体が反応することはありますけど、概ね良好です」  良かった、とため息をつくいずみ。大体の事情は雅樹から聞いていたらしい。にっこり笑って、片想いの方も、と呟く。  黒兎は乾いた笑い声を上げた。黒兎は彼女に会いたいと連絡した時、雅樹の方からも連絡があったらしい。その内容が『黒兎のことだから間違いはないと思うけれど、終わったら真っ直ぐ私の所へ来るようにと伝えてください』だったそうだ。 (爽やかな顔して嫉妬深いな……)  その連絡に、いずみへの牽制、黒兎への束縛を感じたいずみは、すぐに黒兎へ確認の連絡をした。それも話すつもりだった黒兎は、先に雅樹との関係を話す羽目になったのだ。 「まあ、お互いまだ探り探りですけどね」  いい歳した大人なので表には出さないけれど、はたから見たら二人は、高校生が恋をするような、甘酸っぱい雰囲気を漂わせているのだろう、と黒兎は思う。 「本当に良かった。綾原さん、さらに表情が柔らかくなりましたね」 「そうですか?」 「ええ。できればその顔は、私の前だけにしてもらいたいけれど」 「ま……っ!」  横から声がして振り向くと、雅樹がいた。何で? と問うけれど、雅樹はいずみと丁寧に挨拶を交わしている。 「では、お迎えが来たことですし、私は失礼しますね」 「え、ちょっ……」  そう言うと、いずみはサッと伝票を持って行ってしまった。黒兎は彼女が去って行った方を眺めて、呆然としていると、私たちも行こうか、と声を掛けられる。 「……何でいるの?」 「さあ? 偶然かな?」  絶対嘘だ、と思いつつも、黒兎は何も言わずに立ち上がった。  そもそも、しばらくいずみに会えてないからと零したのは黒兎だったのだ。会いたいなら連絡取ってみれば、と言ったのは雅樹なのに、なぜこうなるのだろう? (やっぱ、嫉妬……なのかな)  嬉しいやら、困ったやら。黒兎は店を出て、雅樹の車に乗り込むと、車は滑るように走り出した。 ◇  しばらくして到着したのは、どうやらAカンパニーの管理する稽古場のようだ。どうしてここに? と思っていると、すぐに理由は知れた。 「社長、お疲れ様です!」 「ああ、お疲れ様。光洋(みつひろ)は見なかったかい?」  通りすがりのスタッフに、雅樹が聞いたのは光洋の居場所だ。嫌な予感がする、と黒兎は思わず雅樹を止めた。 「まさか、月成(つきなり)監督に今から会うのか?」  そうだよ、と微笑む雅樹に、黒兎はどうしようもなく不安になった。光洋に言われた言葉が、トラウマにも関係しているからだ。 「おい雅樹」  そして躊躇っている間に、当の本人が来てしまう。黒兎はびくりと肩を震わせ、顔を強ばらせる。 「出掛けるなら人に伝えて行けと、何度言ったら分かる」  雅樹は黒兎の背中にそっと手を当てた。大丈夫、と宥めるような仕草に、少しだけホッとする。しかし、光洋の黒兎を見る目は冷たいままだ。 「……何で芋がここにいる?」 「光洋。この人は私の大切な人だ」  二年前のこと、謝りなさい、と雅樹は言う。 「光洋が黒兎を帰した後、彼がどうなったか話しただろう?」 「……悪かった」 「光洋」  肩を竦めただけの光洋に、雅樹は厳しい目を向けた。黒兎はずっと、床を見つめているだけだ。 「おい、そこの……あー、くろと?」 「黒兎と呼んでいいのは私だけだ」 「ほんとお前はめんどくせぇな。……いいから、顔上げろ」  前半は雅樹に向かって、後半は黒兎に向かって言った光洋は、ガシガシと頭をかいた。  黒兎は顔を上げると、野性味溢れる顔があった。でもやはりその視線は強く、黒兎はすぐに視線を逸らしてしまう。 「……悪かった。これからも、雅樹を支えてやってくれ」  思ってもみない言葉をかけられ、思わず再び彼を見た。そこには先程よりも、少し柔らかい表情の光洋がいる。 「……確かに、前よりはいい顔してんな」  せいぜい潰されないようにしろよ、そう言われて、彼なりのエールなのだと分かると、黒兎は重く受け止め、深く頷いた。 「大丈夫。そんなこと、私が絶対にさせない」 「その中にはお前も入ってるんだがな」  まったく、俺以外には溺愛系なんだから、とボヤく光洋。雅樹も笑って、優しくしても良いけど? と言っていた。 「やめろ。お前に優しくされたら、何か裏があるんじゃねぇかって思うから」  光洋の言葉に、雅樹はクスクスと笑う。黒兎は二人の表情を見て、本当に遠慮しない仲なんだな、と微笑ましくなった。 「じゃあ、お昼まで黒兎は応接室で待っていようか」  それからみんなでご飯にしよう、と言われ、本当にこの人は、こういうことが好きなんだな、と苦笑する。 「……好きだよな、人と食事するの」 「うん? まあね。家族とは、まともに食べた記憶がないから、その埋め合わせなんじゃないかな?」  にっこり笑って言う雅樹の言葉には、事実以外の意味は含まれていないようだ。だからこそ、黒兎は少し胸が痛くなった。  けれど、その寂しかった頃の雅樹を、自分が埋めてあげればいい。そう思うと胸が温かくなる。 (……好きだよ)  黒兎はそっと心の中で呟き、彼に微笑みかけた。 (本編 おわり)

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