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第56話 壊すなら、貴方の手で19
「黒兎……」
雅樹が呼ぶ。低く甘く、ぞくりとする声。
「私はきみを逃がしたくない。こんなにもひとを欲しいと思ったのは、後にも先にも、黒兎だけだよ」
雅樹の瞳に欲情が乗った。その鮮やかな変化に黒兎も腰の辺りがぞくりとする。
「どうしたら逃げないか。そう考えるのは初めてだ」
「だから……もう逃げないから……」
雅樹の吐息が唇にかかる。本当に? と問う雅樹に、黒兎は喘ぐように言った。
「雅樹が不安になる必要がないくらい、俺は雅樹のことが好きだよ」
なんせ年季が入った片想いだったのだ、他人が入る余地はないと自分で言ったくせに、不安がる雅樹が愛しくて、可愛いと思ってしまう。
「……では黒兎……私が欲しいかい?」
「……うん……」
そう言った途端、呼吸を奪われた。
久しぶりの情熱的な口付けは、いとも容易く黒兎の意識を溶かす。でも、黒兎も息継ぎの間にこう尋ねてみた。
「ま、雅樹こそ……どう思ってるんだ?」
「私だって……」
きみが欲しくて堪らない、とまた唇を吸われる。ちゅっ、と軽い音がして、それだけで黒兎の中の火が、大きく燃え上がるのを自覚した。
雅樹は軽く黒兎の唇を啄み、小さな音を何度も立てる。次第に深くなっていく口付けに、黒兎の意識は再び溶けていった。黒兎の下半身はもう完全に熱くなってしまっている。このまま流れに身を任せればいいのだろうか? そう思って雅樹の肩に腕を回した。
雅樹の大きな手が、黒兎の後頭部を優しく撫でる。その心地良さに小さく声を上げると、雅樹のキスは激しさを増した。
「ん……っ」
唇を舌でなぞられ、肩が震える。頭がふわふわしてきて、黒兎は素直に雅樹と舌を絡ませ、彼に寄りかかった。
「……ぁ、は…………んん……」
黒兎の吐息に熱が籠ると、雅樹は黒兎の両頬を手で包む。温かい、優しい仕草にはあ、と息を吐くと、雅樹はキスを止めた。
「……そういえば、夕食がまだだったね」
名残惜しいけど、続きはまた後にしよう、と言われ、黒兎はこくりと頷く。
熱くなった身体を冷ましてから二人でリビングダイニングに行くと、ダイニングテーブルには所狭しと料理が用意されていた。旅館や料亭で出るような、綺麗に盛り付けされた会席料理で、なるほど、雅樹の中ではこれが基本にあるんだな、と納得する。
「うわ、どれも美味しそうですね」
「ありがとうこざいます。雅樹さんに久々に振る舞うので、張り切ってしまいました」
雅樹は喜んで席に着くと、永尾は嬉しそうに手元にあったグラスを取った。しかし彼はお酒を断ったのだ。
「黒兎が服薬中で飲めないからね。私も遠慮しておきます」
「あら、そうでしたか」
永尾は珍しいものでも見たかのように驚いている。それもそうだ、黒兎の前ではあまり飲む姿は見せないけれど、雅樹はかなりのお酒好きなのだから。
(……今更だけど、今までも俺に合わせてくれてた?)
「いいよ雅樹、飲みなよ」
そう思ったら、自然とその言葉が出てきていた。けれど雅樹は笑って、いいんだ、と言う。
「お酒は一人の時だけって決めたんだ。会話しながらの食事が楽しいって、気付かせてくれたのは黒兎だからね」
尚更飲めない、とまで言われて、黒兎は顔が熱くなった。散々ひとと食事をしているだろうに、ここで黒兎の名前を出すのか、と。
それからやはり雅樹は終始嬉しそうに黒兎を眺めながら、食事をした。味はもちろんとても美味しくて、これは雅樹が好きになるのも分かるな、と黒兎は思う。永尾は邪魔にならないように控えていたけれど、黒兎たちを微笑ましく見ていて、いたたまれなくなった。
「ご馳走様。やはり永尾さんの料理は美味しいですね」
一週間、よろしくお願いします、と雅樹は上機嫌だ。永尾も、ありがとうございます、と嬉しそうに食器を下げていく。
「お風呂の準備も整っています。私は片付けが済んだら、失礼しますね」
至れり尽くせりの対応に、黒兎は落ち着かなくなるけれど、家政婦ってこんなものなのか? と思い直した。雅樹の自宅に出入りしている家政婦さんは、黒兎はあまり見たことがない。もしかすると、黒兎が気にするからと、時間をずらして来ているのかも、と思い至り、とことん甘やかされてるな、とまた顔が熱くなる。
黒兎たちは永尾が帰るまで、リビングで三人で談笑し、彼女が帰るのを見送ると、雅樹は笑顔で黒兎を振り返る。
「さあ、お風呂に入ろうか」
「え、一緒に?」
「もちろん。露天風呂があるんだ、温泉だよ」
やはり雅樹の持ち物はスケールが違う。なんでも、近くの温泉宿は温泉権ごと雅樹が最近買い取って、経営しているらしい。一体どこまで手を広げるつもりなのか。
「父の兄がね、ひとり息子なんだけれど」
雅樹の従兄弟にあたるその息子は、雅樹と仲がいいらしい。世界中を飛び回る音楽家だから、近くに来たら休めるようにした、ととても従兄弟バカな話を聞いてしまった。
「そしてついでにこの別荘を建てたんだ。丁度永尾さんも職を探していたし」
微笑んで言う雅樹は、どこまで計算しているのだろう? 好きなひとにはとことん甘い雅樹だが、資産家という立場を最大限に活かして、本当に好きなものを手元に置いているだけのようだ。
そして、その最たるものが黒兎で、黒兎は雅樹のそばから、離れることすらできない立場にされてしまった。
でも、それでお金が回るなら、雅樹はやっぱり経営者なんだな、と黒兎は思う。人間としてどうかと思う部分だけれど、そこも赦してしまう黒兎も大概だな、と自嘲した。
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