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第60話 壊すなら、貴方の手で23
陽の光が目に入ってきて、黒兎は目が覚める。
何時だ? と視線を巡らせて時計を見つけると、もう針は午後の時間を指していた。さすがに寝すぎか、とも思ったけれど、ゆっくりする目的でここに来たのだからまあいいか、と長い息を吐く。
しかし、同じベッドで寝ていたはずの雅樹はいない。
「……」
起きるか、と黒兎はベッドから降りた。身体に残る怠さが、昨晩のことを思い出させるけれど、悪い気はしない。
寝室を出るとリビングダイニングから音が聞こえる。そっとドアを開けて中を覗くと、雅樹がキッチンに立っていた。
「雅樹?」
「ああ、おはよう」
どうして雅樹がキッチンに? と思ってダイニングテーブルを見ると、そこには既に何品かの料理が出されていた。すると雅樹が察したように鍋の火を止め、その中身を器によそっている。
「久々に作ったから、あまり味に自身はないけれど」
「……って、雅樹が作ったのか?」
黒兎が驚いてそう言うと、髪を撫で付けていない雅樹は幼い笑顔を見せた。黒兎が起きる時間を予測していたようなタイミングの良さに、開いた口が塞がらない。
「時間がある時は作っているんだよ」
「え、でも家政婦さんが出入りしてるだろ……?」
確か自宅では、朝と晩ご飯は家政婦さんが作ってくれている。雅樹が料理をしているところなんて初めて見るし、しかもパッと見美味しそうな料理ばかりだ。
「だから、時間がある時。それより、よく眠れたかい?」
「ああ、うん……」
黒兎は促されるまま席に着くと、テーブルには玉子スープと、豆鉢がいくつか置いてあり、ザーサイや炒め高菜、小ネギが入っている。そして、蒸籠 も置いてあり、これもまた小さめの可愛らしい大きさだ。
中華風だな、と思いながらはた、と気付いた。いやまさか、と黒兎はもう一度雅樹に尋ねてみる。
「全部……雅樹の手作り?」
「そんなに信じられないのかい? ほら、もう全部できたから食べよう」
と言っても、お昼を過ぎているし胃腸に優しいものをね、とにこやかに彼が運んで来たのは、白い丼のようなお椀に入った、お粥だった。
「できたて……」
「ああ、それは本当に偶然」
起きてこなければ、起こしに行くところだった、と雅樹は言う。
雅樹も席に着くと、二人で手を合わせた。黒兎は蒸籠の蓋を開けてみると、やはりそこには焼売 が入っている。
思わず目頭が熱くなった。
黒兎のサロンで再会して、仲良くなり始めた頃に聞かれた好物だ。てっきり美味しい店のを買ってきてくれるだろう、と期待せずにそう思っていたのに。忘れた頃に、手作りという形で出してくるとは。
嬉しい、と思うのと同時に、雅樹がモテるはずだし敵わない、と思った。
「昨日は無茶させてしまったからね。お詫びに」
涙を零すまいと耐えていた黒兎に、雅樹は爽やかに微笑んで言う。
「よく言うよ。買い物には行ってないだろ? 最初からそのつもりで用意していたくせに」
「ふふ。さあ、冷めないうちに召し上がれ」
黒兎は照れ隠しで少しぶっきらぼうに言うと、雅樹は答えず笑っただけだった。箸を取り早速焼売を口に運ぶと、プリプリとした肉の食感と肉汁、肉と野菜の旨味が広がって、とても美味しい。
「……ずるい」
「え?」
黒兎は涙目で雅樹を睨むと、彼は戸惑ったようだ。席を立って黒兎のそばに来る。
「顔良くてやり手の社長で、そこそこ性格もよくて、料理もできるとか……」
これでは本当に、雅樹にしてあげられることがない。色んなものを持っている雅樹に対して、自分は何も持っていない。自信をなくしそうだ、と打ち明けた。
「黒兎……」
「本当に、何で俺なの?」
これだったら、まだ白金の方が釣り合ったんじゃないか、そう思っていると、抱き締められる。
「黒兎は、私の弱みを知っているから」
「……え?」
顔を上げると、雅樹は微笑んでいた。長い指で目尻の涙を拭われ、どういうこと? と聞き返す。
「出会った頃、私は失恋していた」
メディアにも注目され始め、完璧人間として知られていた雅樹にとって、そのイメージを保つのが苦しい時期だったという。しかし、父親に黒兎の存在がバレたように、当時もどこで週刊誌などにすっぱ抜かれるか分からなかった。心身共に疲れていた雅樹に、黒兎を紹介したのがいずみだったのだ。
「そしたらスルッと失恋したことを打ち明けてしまった。最初はわざわざ人に言いふらす人ではないだろう、とその程度の気持ちだった。けれど……素でいられる時間も必要なんだと、気付かせてくれたのは黒兎だよ」
それを自覚するのに時間がかかって、タイミング悪く黒兎も大変な目に遭ってしまったから、告白までに時間がかかってしまった、と雅樹は言う。
「きみは、私が素でいても許してくれる。他の……特に女性だったら、情けなく泣く私を許してくれないだろう」
だから私には黒兎が必要なんだ、と雅樹はキスをくれた。そしてニッコリと笑うと、冷めちゃうから先ずは食べよう、と食事を促す。
黒兎は頷くとお粥に手を伸ばした。レンゲで掬うとトロトロとしていて、お米の粒もないほどだ。
「中華粥だよ。焼売に合わせたブランチをと思ったら、そうなった。日本のとは違って具材が入っているし、お米も崩れるほど煮込むんだ」
席に戻った雅樹が教えてくれる。確かに、このお粥には鶏肉が入っている。彼が言うには味付けはシンプルに塩と鶏ガラスープの素だけれど、トッピングのザーサイや炒め高菜などを入れて、味の変化を楽しめるらしい。
黒兎はひと口食べてみる。確かに日本のお粥よりとろっとしていて、味もしっかり付いていた。怠い身体にはこれくらいの味と、消化のよさがいい、と黒兎はそれをパクパクと食べる。
「……やっぱり、料理は永尾さんから教わったのか?」
「そうだよ」
黒兎が美味しそうに食べる姿を見て、雅樹も嬉しそうに箸を進めた。そして黒兎は、ここに来て疑問に思ったことを聞いてみる。
「雅樹、聞いてもいい?」
雅樹はお粥を口に運びながら、目線だけで続けて、と言った。
「雅樹は、……お母さんの話しないよな?」
言いにくいならいいんだけど、と言うと、雅樹は苦笑して、そうだったね、とレンゲを持った手を止める。
「……父よりお金と権力があるひとのところで、今もお世話になってるんじゃないかな?」
「……」
サラッと言ってすぐにレンゲを動かした雅樹に、黒兎はそれ以上聞けなかった。彼の声色にはなんの感情もなく、だからこそ、雅樹は父親以上に母親にも、愛憎を向けているのだと悟ってしまう。
「……ごめん」
「謝らなくていい。近いからこそ関係が拗れるのは、よくあることだし黒兎もそうだろう?」
「……」
雅樹の言う通り、黒兎は両親とはあまり上手くいっていなかった。いつからか、黒兎に対し腫れ物に触るような態度で接するようになってから、目を合わせることすらしなくなっていたのだ。そんな両親と雅樹は、黒兎がトラウマを植え付けられた時に会っている。
雅樹がふっと笑った。
「黒兎から私についての質問が出るとはね。関係が深まったと思って喜んでいいのかな?」
そういえば、今までは雅樹が聞くばかりで、黒兎は雅樹が話してくれたこと以外、知らないことに気付いた。ようやく質問したのに内容がこれかよ、と自分の人付き合いの下手さに呆れる。
でも、雅樹はそれを許してくれた。
「……ありがとう」
「礼を言うのは私の方だよ」
そう言い合って、二人とも同時に噴き出す。時間は経ってしまっているけれど、やはり二人はまだ始まったばかりの関係なのだ。
「これから、もっとお互いの深いところを知っていけばいい」
丁度時間はたっぷりあるし、誰にも聞かれない環境だしね、と悪戯っぽく笑う雅樹は、高校生のようだ。雅樹の素は、本当はこっちなんだな、と思った瞬間だった。悪くない。
「雅樹」
黒兎は雅樹を呼ぶ。長い期間、呼ぶとは思っていなかった彼の名前を。こんな風に呼べることが嬉しい。
そう素直に口にすると、雅樹はまた幼く見える表情で、笑った。
[壊すなら、貴方の手で 完]
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