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慈しみ深き 友なるイエスは 変わらぬ愛もて 導きたもう 世の友 われらを捨て去る時も 祈りに応えて 労りたまわん 叔父に教わった通りに鍵盤の上で指を踊らせる。 踏板に足の届かぬ私の代わりに隣に腰をかけ 踏板を踏んでいてくれた叔父は 少したどたどしい旋律を促すように その音色に讃美歌を重ねる。 叔父のその声に合わせ私も讃美歌を口遊む。 けれど・・・ 気が付けば歌っているのは私だけで。 鍵盤の上で指を踊らせているのにオルガンの音色は消え 隣にいた筈の叔父も消えていて。 ガタリと大きな音が背後でしたので 鍵盤の上を躍らせていた指を止め振り返れば 剥き出しになっている梁に腰に締めていた兵児帯で 叔父は首を吊っていた。 襟巻のように叔父の首に巻き付けられた赤い帯が 夕暮れ時に感じ肉を喰らった化け物を彷彿とさせ 私の目にはその化け物が叔父を首から喰らったように映った。 その後の記憶はあまり定かでない。 父を呼びに行ったように思う。 禁じられている診察室に走る私を 咎める姉やの声を聞いたような気がするから。 如何説明していいのかもわからず 言葉をうまく操れない私は父の手を引いて離れにまで戻れば まるで風でそよぐカーテンのように 叔父は揺ら揺らと揺れていて。 それを目にした父の顔色が見る見る間に 蒼白になっていったのだけは鮮明に思い出せるから やはり、私は父を呼びに行ったのだろう。 既に事切れていた叔父の首に巻かれている帯を 父が取り除くと先ほどまでいた化け物は消え まだ明るいというのに横たえた叔父を抱きしめる父の・・・ 二人のいる場所だけが常闇になって。 私は恐ろしさから動けずにいれば 死人に施すそれを手順を追うようにして 着ていた白衣を脱ぎ叔父の汚れた躰を拭い 父は何故か膝の上に叔父の頭を乗せ眼帯を外した。 そして叔父の右目を覆っているガーゼを取り除くと 叔父が隠していた義眼が曝け出され 人形みたいな・・・ 何処を見ているのかわからないその義眼が 父だけに向けられているような気がして 叔父の義眼である右目を始めて目にした私はピクリと躰が跳ねた。 苦しかったのだろうか? 叔父は眉間に幾つもの皺をよせており その皺を父は指で撫で伸ばし 開いた瞼を閉じさせ 歪められた口元も美しく整えた。 なのに・・・ 父は微笑むと閉じさせた瞼を・・・ 義眼の嵌め込まれてる右目の瞼だけを抉じ開け義眼を取り出すと その義眼をぽとりと床に落とし 愛しそうにぼっかりと開いた眼窩に指を差し込み 愛でるように挿し込んだ指をくるりと回し そこへ唇を落とした・・・と思う。 これは父から送られてきた手紙を読んだせいで もしかしたら・・・ 私の脳が勝手に記憶を捏造して 現実とは違う記憶を私に与えてるだけで 実際のところ、父が叔父にそうしたのかは定かではない。 ただ・・・ 叔父が自殺した日は 叔父の許嫁が嫁いでくる前日だったのは確かだ。 その日は朝から離れが五月蠅く いつもなら離れに向かう使用人はばあやくらいなのに 何人もの使用人が母屋と離れを行き来し 興味本位から離れに行こうとする私に 姉やから何度も「ぼっちゃん、いけませんよ」と声が飛び 忙しさからかその日は遅めの昼餉だった。 やっと何時もの静かな離れに戻った頃合いを見計らって 私は姉やの目を盗み離れに赴いた。 その私を見つけた叔父が微笑んで手招きをし 縁側に置かれたオルガンを叔父の膝の上に乗せられ 二人でその音色を楽しんでいると 突然、ぎゅっと後ろから叔父は私を抱きしめ 「僕は和が愛しいよ」と聞きなれない言葉をかけられた。 その言葉がこそばゆく胸の辺りが温かくなり 「僕もだよ、叔父さんが愛しいよ」と返すと 叔父は「ありがとう」と言って笑う。 私もその笑みにつられて笑えばまた・・・ ぎゅっと叔父は私を抱きしめた後 私を腕の中から放し叔父は隣に座り直すとこう言った。 「和のオルガン聴きたいな。  教えてあげた讃美歌をひいてくれる?」 その叔父の言葉通りに私は鍵盤の上で指を踊らせる。 踏板に足の届かぬ私の代わりに 踏板を踏んでいてくれた叔父は 少したどたどしい旋律を促すように その音色に讃美歌を重ねる。 叔父のその声に合わせ私も讃美歌を口遊む。 けれど・・・ 気が付けば歌っているのは私だけで。 鍵盤の上で指を踊らせているのにオルガンの音色は消え 隣にいた筈の叔父も消えていて。 ガタリと大きな音が背後でしたので 鍵盤の上を躍らせていた指を止め振り返れば 剥き出しになっている梁に腰に締めていた兵児帯で 叔父は首を吊っていた。 襟巻のように叔父の首に巻き付けられた赤い帯が 夕暮れ時に感じ肉を喰らった化け物を彷彿とさせて 私の目にはその化け物が叔父を首から喰らったように映った。 父からの手紙にはこう記されていた。 最期にお前にだけには全てを述べようと思う。 春の右目を奪ったのは私だ。 春は・・・ 弟は腹違いの弟だ。 子種のない私の為に春は身勝手な父によって この世に誕生させられた。 この家など、私の代で途絶えたところで 世の中が何一つ変わることもないのに。 望まない妊娠、出産で春の母親は自ら命を絶ち 春もまた・・・ 五辻家の・・・ 否、私の身勝手さから自ら命を絶ってしまった。 春に死を選ばせたのは・・・私だ。 春を憎んでいたのか? そう、自分に何度問うてみても答えは見つからなかった。 憎くて春の右目を奪ったのか? それに反した想いである愛しさが増し春の右目を奪ったのか? その問いにも答えはみつからないまま 私は自分の死期を迎えようとしている。 そもそも、愛しさとは何か?とこの頃よく考えるが 血は繋がらなくとも私は父としてお前を愛していたし 妻も愛していた。 ただ・・・ 春への愛だけは歪んだものだったことは間違いないだろう。 春を目にする度に・・・ 兄さんと笑って呼ばれる度に 沸々と胸の奥に湧き上がる黒い塊。 それが喉元まで這い上がってくるのを呑み込もうとすれば 私の中の黒い何かが躰を巣食っていき やがてそれは闇に成り代わり その闇が私を侵食すると私は私でなくなってしまった。 愛しさは確かに心のどこかにあるのに その全てを壊してしまいたくなる衝動にかられ 私は春の右目を・・・ 右目だけでは飽き足らず春の全てを奪い壊してしまった。 それでもそんな私を赦そうとする春を殺めてしまいたくなり 父と母に春の縁談を持ちかけた。 自分の誕生が私を苦しめていると感じている春は 私をこれ以上苦しめまいと自ら命を絶つだろうと知った上で 私は父に春の縁談を持ち掛けたのだ。 なのに・・・ あの日・・・ 私を赦そうとして命を絶った春の死顔が あまりにも苦しみ溢れており 春の苦しみを初めて知った私は悲しみよりも 何故か嬉しさが込み上げてきたのだ。 そんな私をも赦そうとした春を 憎いか?と訊かれれば愛しいと答えるだろう。 こんな狂った私を尚も赦そうと ここ数日、枕元に微笑んだ春が腕をひろげ 懺悔をし僕の愛を受け入れて欲しいと私に囁くのだ。 私はその愛に応えていいのだろうか・・・ 私は私の犯した罪を赦してもらえるのだろうか・・・ 春を・・・ 弟を愛してしまった罪を赦してもらえるのだろうか・・・ 私に会いに来ないお前を思うと 神は私の犯した罪を決して赦さないと無言で示してるのだろうな。 それでも死を目の前にすると 人は誰かに懺悔をしたくなってしまう哀れな生き物なのだ。 こんな手紙を送る私をどうか赦して欲しい。 お前の父を殺めてしまった私を赦して欲しい。 そして私の最期の願いを聞いてくれるのならば あの地にもう一度戻ってきてはくれないか? お前の本当の父親である春が眠るあの場所に。 戦後しばらくは人材の足らぬ神戸まで 医師として赴いていた私は 病床に伏せっている父を 長いこと見舞うことが出来ずにいた。 この手紙を手にした時には 既に父は他界してしまった後で 葬儀の後に遺言書と共に渡されても 父を詰ることもできず 日を追うごとにあの日・・・ 目にしたであろう光景を思い出しては 苛立ちを覚え父を赦せずにいる。 だが・・・ 遺言書とは別に残された父から手紙を幾度も読み返す内に 私はこの戦争で全て焼けてしまった母屋と離れがあった場所に 父と同じく、開業医として家屋を再建するか迷ったが 例え業火で焼かれてしまっても 叔父も・・・ 顔も知らぬ私の母も・・・ そして父の魂もまだ・・・ ここに居るような気がして。 私は弔いも兼ねて医院を開業すべく 家屋を再建することを決めた。 父を赦すことは出来ずとも。 了

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