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第1話

辛い事も、悲しい事も、無かったことにはできないけれど、 そのかわり、楽しい事と、気持ちいい事で塗りつぶしてあげるよ だからおいで 鼓膜を破きそうなほどに大きなブザーの音。試合終了を告げるその音は、俺の中のなにかを壊していく。 チームメイトの冷めた視線が俺に注がれている。 目は口程に物を言うという言葉は、多分見られている側が思いついたんだろうなぁ、と思った。 皆の視線は、殺意のような敵意のような感情をまとって、鋭く俺に刺さってくる。言われなくても分かった。 「お前がいなければ勝てたのに」と伝えたいのだ。 俺が放ったバスケットボールは、俺たちを勝利に導く一手とはならなかった。 軌道を外れて落ちていく瞬間、スローモーションのように時がゆがんだように見えた。鈍い音を立てて床に落ちたボールはころころと転がっていく。 俺がすべて壊してしまった。 連勝記録。今までの努力。周囲の応援。父母会の人たちが割いてくれた時間とお金。 「すいません、」こぼれた言葉は、相手チームの歓声にかき消される。 体中から力が抜けて、自分がどうやって立っているのか分からない。 ただ、悔し涙を流すチームメイトを、ぼんやりと見ていた。 退部届を提出し、ロッカーの中身も空っぽにする。 誰も俺を引き留めなかった。コーチも、先輩も。 自分の名前のシールをはがすと、綺麗にはがせなくて微妙に残ってしまった。 でも、それを綺麗にする気も起きなかった。 これで鈴原凛(すずはらりん)という存在は、完全にこの部から消えた。 ロッカーに入っていた荷物を抱えながら帰路につく。 前から向かってくるのは、走り込みをしているバスケ部だった。 それに気づいた俺は、咄嗟に物陰に身を隠す。卒業するまで、俺はこんな風に怯えながら生きていくのかと思うと気が重い。 でもそれも全部自分のせいだから、仕方ないんだ。 そう言い聞かせながら生きていくしかないんだ。 言葉にできない虚しさを、荷物と一緒に抱え込んでまた歩き出した。 元々バスケを始めたのだって、自分の意志じゃなかった。 小学生の頃、近所にバスケのクラブチーム専用の体育館が作られた。 周りの友達たちがそろってそこに通い始めたのを見て、俺も入ったのだ。 バスケが好きとかでなく、仲間外れにされるのが怖かったから。 周りが皆、バスケの話をしていても自分だけが置いていかれて、いつか一人ぼっちになるかもしれない。 そんな気持ちで始めてしまったから、よくなかったのだ。 特別センスがあるわけでもないのに、スポーツの世界に飛び込んでしまった。 運動音痴だし、へたっぴだった。大きな声で怒られるのも、いつまでたっても慣れなかった。でも、自分の中に少しずつ「楽しい」という気持ちが芽生え始めていたのも事実だった。もしバスケというものが自分にとって今後の人生を大きく変えるようなきっかけになったら、どうだろうか。 もし、プロの選手になれたら。 そんな淡い期待を抱くようになっていた。 こんな期待なんて抱かなければよかったのかな。バスケが強い高校に入学してしまったことも間違いだったのかもしれない。 自分が選んだ選択すべてが間違っているような気がしてきた。そう思ったとたん恐怖でいっぱいになった。 バスケの選手になりたい「かもしれない」、これなら続けられる「かもしれない」、どれもふわふわした感情だった。 一時的な感情に流されて、大きな決断をしてきてしまったような気がしてきて、自分に対して怒りがこみ上げる。 本当にばかだった。 何かを目指すのなら、強い意志と努力が必要なのに。 仲間外れにされたくない、という幼稚な気持ちだけでバスケを始めてしまったことを、恥ずかしく思った。 本気でバスケをしている人に対しても、申し訳ない。 今後、何を目標に生きていけばいいんだろう。 不安に駆られ寝付けないまま、布団の中で泣いていた。 寝不足で頭は痛いし気分は最悪だった。 それでも学校には行かなきゃいけない。 「凛、起きたの。ご飯出来てるよ」お母さんがぎこちなく笑って言う。 腫れ物に触るような両親の態度も辛かった。 もう朝練には参加しなくていいのに、体に染みついた習慣のせいで早く登校してしまった。 昇降口に入ってすぐ目に飛び込んでくる、大きな天使の絵。 学校が建てられた時、有名な画家が寄贈してくれたものらしい。 畳一枚よりも大きなキャンバスに描かれているのは天使だった。 慈愛に満ちたほほえみで、柔らかな光の中にたたずんでいる。 作者は分からないそうだ。 この絵にはジンクスがあって、お願いをすると願いをかなえてくれるらしい、というものだ。 そんなわけないだろと言いつつも、皆心のどこかで信じている。 なぜなら、実際に願いが叶った人がいるからだ。 大事な試合や試験で実力が発揮できますように、好きな人に告白して結ばれたいです、おばあちゃんの病気が治りますように。 願い事をした人の中に、本当に叶ったと喜んでいた人がいて、 周囲も天使のうわさを信じるようになった。 その一方で、嫌な願い事をする人もいるらしい。 嫌いなあいつの成績が落ちますように、あのカップルが別れますように、顧問の先生が嫌いだから異動しますように。 陰湿な願いも叶えてくれるのかどうかまでは知らない。 俺も試合の前、この天使にお祈りしたのだ。試合で、少しでもいいから活躍できますように。 そんな願いは、叶わなかったけど。 クラスにいても、居心地は悪い。遠目に俺を見ながらひそひそ話している人も入れば、「お前のミスで負けたんだって?」と聞いてくる人もいた。 自分に向けられるすべてが辛かった。 これもいつかは終わる事、と言い聞かせるしか出来なかった。 本当は泣き出したいくらい辛かったけど、多分俺にはそんな資格もないのだ。 授業の内容も半分くらい聞いていなかった。ただ今日一日が速く終わりますように。そのことだけを考えていた。 放課後、前なら体育館に向かっていたけど、もうその必要も資格もない。 何をしたらいいんだろう。しばらく椅子に座って、傾いていく太陽を見ていた。次第に時間を無駄にしている事も嫌になってきて、重い腰をあげ家に帰ることにした。 渡り廊下を歩いていると、色んな部員たちが走り込みや用意をしているのが見える。羨ましいような、何とも言えない気持ちになる。 とぼとぼ歩いていると、突然誰かに強く腕をひかれた。そこにいたのはバスケ部の元先輩たちだった。 「お前、俺らになんかいう事無いのかよ」怒りが滲んだ声色だった。 「え、」「あんだけ迷惑かけといて、詫びの一つも無いのかよ」 先輩が俺の胸ぐらをつかんだ。「なんでお前なんかがうちの部活にいたんだよ、お前がいなけりゃ、」唇がわなわなと震えていた。 俺がこの人たちから奪ってしまったものは、思っていた以上にずっと大きい。 この怒りも、それだけ真剣にバスケに向き合っていたから、その真剣な思いと努力を俺みたいな無能のせいで壊されてしまった怒りは、計り知れない。 殴られるな、と思った。 でもそれでいい。それで先輩の気が晴れるならいいや。振り上げられた拳が自分の頬にぶち当たるのを、目を閉じて待つ。 「せんせーーー、こっちで喧嘩してる人いまーーーーす」 ひりひりした空気を裂いた声は、渡り廊下の向こう側から聞こえてくる。 「やば、」先輩たちは俺を雑に振り払い走り去っていった。 何が起きたのかよくわからなくて呆然としていると、 「今どきあんなことするやついるんだ~。野蛮だよな~」という声がする。 物陰から声の主が現れる。爬虫類を思わせる、涼し気な切れ長の一重の目。 体の線が細くてすらっとしている。 綺麗な坊主頭と、俺から見て右側のこめかみに傷がある。 揺れる銀のピアスが夕日の光を反射して怪しく光っていた。 上履きの色が青だから、二年生。先輩だ。 「あ、ありがとうございます…」「いやさー、美術部の窓からなんか揉めてる人たちが見えたんだよね。そしたら胸ぐら掴んで、今にも殴り掛かりそうだったから咄嗟に来てみちゃった。いやー危なかったね」 くすくすと笑うその顔には余裕を感じる。 「一年生だよね。先輩らにあんなことされて怖かったっしょ」 「いや、その…」言い淀んでいると、先輩はこちらに近づいてくる。 「大丈夫?」「あ、はい、別に殴られたりしてないし…」 「違うよ、精神的にって事」眉を片方あげ、薄く微笑んで言う。心の内を見透かされているようでぞわりとした。 「そんな捨てられたワンちゃんみたいな顔しながら笑われるとさぁ…ほっとけなくなっちゃうんだけど」 目が真剣だった。初めてあった人なのに、昔から俺の事を知ってるかのようだった。 「そんな顔で帰ったら親が心配するから、ちょっと休憩してけば?」 「休憩ってどこで…」 「美術室」 行きます、と返事をする前に先輩は俺の腕を引いて歩き始めていた。 先輩に腕をひかれるまま、美術室まで来てしまった。 「ただいまんぼう~」と言いながら先輩が引き戸を開けると、キャンバスに向かっていた部員たちが一斉にこっちを見る。 「おかえりんぼ~」部員のみんなが笑いながらそう返す。 再びキャンバスに視線を戻し、それぞれの作品に向き合っていた。 分厚い植物図鑑を睨んでいる人、腕を組んで机の上に並べた絵の具を見つめている人、キャンバスに筆をおいたまま止まっている人。 皆真剣だった。 先輩は部室をするすると通り抜け、奥にある扉を開く。 「ここ俺の部屋」六畳ほどしかない空間に、キャンバスとソファが置かれていて、その周りを背の高い本棚と画材が囲んでいる。要塞みたいだった。 「ちょっと座って待ってて」先輩はソファを指さして部屋の奥に消えていく。 目にするものすべてが初めて見るものだった。 大きな鳥のはく製と、何かよくわからない動物の骨。ボトルシップや石膏像。 不思議な骨董屋にでも来た気分だった。 「熱いから気を付けて飲んで」「あ、ありがとうございます…」 先輩がマグカップを渡してくる。中身はミルクティーだった。ほんわりと湯気を立て、甘く優しい匂いが鼻をくすぐる。 そっと口をつけると、まろやかな液体が体の中からとろかすように包み込む。 ささくれていた自分の心までも包まれていくようだった。 「あ、俺名前言ってないね。榊田清介(さかきだせいすけ)っていうの。美術部の部長だよ。よろしくね」「あ、鈴原凛です…」「かわいい名前だね。じゃあ凛ちゃんでいいか」先輩はミルクティーを飲みながら笑った。 「凛ちゃん、あそこで何やってたの?喧嘩?」「いや、喧嘩とかじゃなくて…仕方のない事っていうか…」「どゆこと?」 俺は榊田先輩に事の経緯を話した。どうして先輩があんなに怒っていたのか。抵抗しなかったのか。自分の中にある、何とも言えない気持ちを抱えながらこれから生活していく不安。 初対面の人にどうして話せたんだろう。むしろ、初対面だから話せたのかもしれない。自分のバックボーンを何も知らない人だから。 かわいそうと思ってほしかったのかもしれない。消化しきれない気持ちを、初対面の人にぶつけていることが恥ずかしくなってきた。 そのくらい余裕がない自分が嫌で仕方ない。だけど、俺が言葉に詰まるたびに、榊田先輩は「ゆっくりでいいよ」と優しい声で言う。 その声の甘さに逆らえなくて、俺はしゃべり続けてしまった。 一通り話し終わった後、ミルクティーは冷めていた。「それって八つ当たりじゃんね」榊田先輩はそう言った。 「だってそれさー、試合で勝てなかったの全部凛ちゃんのせいにしてるだけじゃん。そもそもチーム競技なのに、なんで一人のせいにしてんの?しかも一年生にさぁ。凛ちゃんがどうこうじゃなくて、チームそのものに問題があったんじゃんね」榊田先輩は眉をひそめて言う。 「まさかとは思うけど、前から嫌がらせとかあったの?」過去に何度かあった。でもそれも、自分がどんくさいからだと言い聞かせて我慢していた。 黙ってうつむく俺に、榊田先輩は「凛ちゃん、全部自分のせいって思ってるっしょ」と言った。 「理不尽な事も全部、自分のせいで起きてるって思ってない?違うかんね。 あんな訳分かんねー理由つけていちゃもんつけてくるようなの、相手しなくていいんだから」その声はどこまでも優しかった。 顔をあげたら泣いてしまいそうで、黙ってうつむくしかなかった。 すっかり冷めたマグカップを持つ俺の手の上に、榊田先輩の手が重なる。細くて長い、綺麗な指だった。突き指を繰り返していびつな俺の手と全然違う。 「辛いなら、ここにおいで」榊田先輩が言う。 「学校来るのが嫌になっちゃいそうなくらい辛いなら、ここにおいで。俺が話聞いてあげるよ」恐る恐る顔をあげると、優しいまなざしで俺を見つめる榊田先輩と目が合う。 もう隠しようが無いほど涙が滲んでいる俺の目を、榊田先輩がそっと拭う。 「もう少し泣いてから帰りな」しゃべると余計に泣きそうで、ただ頷くしかできない。 涙がミルクティーの中にぽたりと落ちた。 飲んだらどんな味がするんだろう、と思いながら泣いた。

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