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第2話

生まれたときから、家族が周りで絵を描いていた。 俺のお父さんは大学で油絵を勉強していて、美大に在学していた頃同じ学年のお母さんに一目惚れし、絵のモデルになってほしいと声をかけた。 そうしてモデルをしているうちに惹かれ合い、 卒業後画家として伸び悩んでいたお父さんは、お母さんの肖像画で大きな賞を貰い一躍有名になった。 二人は結婚して、間に産まれたのが俺。清介という名前はお母さんが考えてくれたもので、自分でも気に入っている。 お父さんの家系は皆絵に関わる仕事をしていた。 ばあちゃんは水彩画で、じいちゃんは水墨画。 そして、ひいじいちゃんは日本画界で名前を知らない人がいないほどの重鎮だった。 柳生孝三郎(やぎゅうこうざぶろう)という名前で活動し、ひいじいちゃんのことを先生と慕う人が沢山いた。 ひいじいちゃんは離れに一人で住んでいて、そこにはいつも誰かしらが訪れ、ひいじいちゃんに弟子入りを志願したり展覧会の依頼をしにきたり、 人の出入りが絶えなかった。 お父さんはひいじいちゃんも同じ家に住もうと何度も申し出たけど、ひいじいちゃんはそれを頑なに断った。「老いぼれがいては気を遣わせるから」と死ぬまで一人で暮らすことを望んだ。 お父さんは画家として活動しながら、毎週日曜日に絵画教室を開いていた。 主に美術系の学校に進学する人のために開かれていたけど、近所のおチビたちを招いてお絵描き大会を開催したりもした。 バカでかい白い紙に、古いけれど沢山の色のクレヨンを与えられたおチビ達は大はしゃぎで絵を描いていた。その中には俺もいた。 大きな車、飛行機、虹、ケーキ、何を描いてもよかった。顔に落書きされたりやりかえしたり、皆で転げ回って絵を描いているのを、 いつのまにか家にやってきていたひいじいちゃんは微笑ましく見つめていた。 漠然と、俺も絵を描いて生きていきたいなぁと思ってはいたけれど、絵をお金に変える大変さというものを目の当たりにしていたから、ちょっと悩んでいた。食べていくという事の難しさ。一般的な生活を送るための収入を絵を描くことで得るということが どんなに大変か、嫌というほど知っている。 就職も進学も投げうって絵に打ち込んだけど結果が出ず、路頭に迷ってしまった人を何人も見ていた。 そうなってでも絵を描く覚悟があるかと聞かれたら、素直にイエスと言えなかったのだ。 俺はいつも天使の絵を描いていた。ひいじいちゃんが描く天使が好きだったのだ。細い目と、しなやかな体。金色の髪が風になびいて、真白の羽で地上の人たちを優しく包み込んでいる。 ひいじいちゃんが描いていたのを真似して、お下がりの色鉛筆で沢山天使を描いた。 それを見たひいじいちゃんは、「お前には天使を描く資格があるな」と言った。 「ひいじいちゃんにもあるんでしょ、資格」 俺の言葉にひいじいちゃんは首を降って、 「ひいじいちゃんは、罪滅ぼしをしてるんだよ」と言った。 その言葉の意味を知ったのは、ひいじいちゃんの最後の作品が完成したあとの事だった。 「榊田、お前また新入部員を退部させたな」顧問の先生が眉をしかめて俺に言う。 「だってあいつら、1年生たちが組んだモチーフ勝手に触って崩したり、石膏像落として壊したりしたんですよ。あんなの部員じゃないし」 高校で俺は美術部に入部した。 結局絵で生きていくかの決断はまだできてない。それでも絵は描いていたかった。 そんな俺が何を怒ってるのかというと、一ヶ月くらい前に入部してきた奴らのことだ。 何でも元々いた部活を素行の悪さから退部させられ、部活に入ってないと内申点に関わるからという理由だけで美術部に入部してきたのだ。 そんなやつらがまともに絵を描くわけもなく、ただおしゃべりしたり昼寝したり、まるで休憩所のように部室を使っているのが俺は心底嫌だった。 挙句の果てに後輩の絵にいたずらをしていることが判明し、俺が一方的に退部させた。物静かな後輩ばかりを狙っていたのだからたちが悪い。 「あのさぁ、そういうバカみたいなことしかできないならもう来ないでくれる?」俺はそいつらに言った。 「は?なんだその言い方」そいつらは不機嫌そうに俺に向き直る。 「部員に向かってそんな言い方していいのかよ、部長さん」にやにやしながらじりじり近づいてくる。 「あんたらみたいなの部員と思ったことないよ。後輩の絵にちょっかいだしたり、子供みたいなイタズラするしか能のないやついらないから辞めてもらうって話。どうせ前の部活でもそんな風にしょーもない事ばっかしてたから居場所なくなったんでしょ?」 「なんだとお前、」片方が俺の事をなぐろうと拳を振り上げる。 「お前ら、後輩から金取ってたんだって?」 バカ二人組の顔色が一気に青ざめる。 「あんたらみたいな絵に興味も無いような人間が美術部くるなんておかしいと思ってさ。少し色んな人に話聞いてみたんだよね。気弱な後輩狙って金せびってたんだって?サイテーじゃん。上辺では部の決まりを破ったから退部って話だったみたいだけど、あんたらがやってんの犯罪だよ。退学もんだよ?この話、広まらないように後輩に釘刺してたみたいだけど…どうする?俺が広めてあげてもいいんけど…」 俺はそういう風に、相手が逆らわないと分かっていて嫌がらせをしたりするやつが大嫌いだった。自分より弱い相手にしかイキることができないような卑怯者。理不尽さを振りかざすやつばかりがいい思いをするのが、許せなかった。 バカ二人は「いや、辞めます、ソッコー辞めますから、あはは、」と 急に弱気になり、一目散に逃げていった。 学校も辞めちゃえばいいのに、と思いながら、俺は部長パワーを発揮して勝手に退部届を書いて判を押した。 「先生が言ってるのは辞めさせたことに対しての文句じゃなくて、言い方だ。あんまり敵を作るようなことをしないほうがいい。そういうのは大人がやるから」 「先生優しすぎるんですよ。ああいうバカにははっきり言ってやらないとわからないんだから」 俺はたとえ先輩だろうが同い年だろうが後輩だろうが、美術部をナメてるバカは全員追い出した。 そんなことをしているうちに、美術部という存在は色んな意味で一目置かれる存在になってしまったのだ。でも、本当に絵を描きたい人たちからは評判がよく、居心地がいいと言ってもらえるのは嬉しかった。 「すいません、私のせいで榊田先輩に迷惑かけて」さっきのバカたちに絵をいじられてしまった後輩が俺に言う。 「別に迷惑なんかじゃないよ。悪いの全部あっちなんだから、気にしないで」 文化部だからおとなしいと思われてるなら、大間違いだ。 理不尽な事には真っ向から対抗する。それが俺のモットーだった。 それがたとえ身内でも。 やれやれ、と窓辺にもたれかかると、さまざまな運動部たちが部活の用意をし始めている。三階にある美術室から見ると、小さな人形たちが動いてるみたいで面白い。 ふと目をやった先の渡り廊下に人影が見える。よーく目を凝らして見てみると、二人がかりで一人の生徒に詰め寄っている。胸ぐらをつかみ、何か怒っているようにも見える。なんかまずそう、と思った俺は、渡り廊下の方に走っていった。今日はやたらと二人組に縁がある。 「せんせーーー、こっちで喧嘩してる人いまーーーーす」 俺の声に驚いた二人組は、「おい、行くぞ」と逃げていく。 物陰から覗いてみると、そこには何が起きたかわからない、という表情の男子生徒が一人立っていた。 上履きの色が緑だから、一年生。後輩だ。 ほわほわした癖のある黒髪と、鼻の頭のそばかす。くりっとした瞳は、今にも泣いてしまいそうなくらい、悲しみ一色に染まっている。 その目を見ていると、なんでか俺まで泣きそうになった。 「ねぇ、この部屋の匂い、平気?」「え?」「ほら、油絵の具の匂いって結構独特じゃん。嫌がる人もいるからさ」「いえ、大丈夫です…なんか、美術室っぽい匂いで、好きです」 話し方は穏やかで、落ち着いている。鈴原凛、という名前だそうだ。 凛ちゃん、と呼ぶことにした。可愛いから。 俺よりも頭一つ分くらい背が高い。部室の中をしみじみと眺めている。 その様子が、初めての場所にお出かけした子供みたいに見えて、なんか可愛いと思った。 彼は、思っていたよりも傷ついていた。 半ば強引に連れ込んだ美術部で、事のいきさつを俺に話してくれた。 消え入りそうな小さな声で。 先輩からの理不尽な圧力に押されつづけ、萎縮しきっていたようだ。 初対面の俺にここまで胸の内を明かすって事は、よっぽど余裕が無かったか、 誰かに聞いてほしかったんだろう。俺よりも背が高いのに、泣いているその姿はとても小さく見える。 俺は、いつでも来ていいよ、と言った。 もしかしたら、他の部員から絵に興味のない人を連れ込んでいいんですか、と言われてしまうかもしれない。それでも、どうしても、この人を一人にするのは耐えられなかった。 お父さんの絵画教室に、こんな人が来ていたのを何度も見た。 常に怯えて、自分に対する怒りと絶望を抱えている人。 自分には絵しかないと思っていたのに、夢が叶わず、結果も出せず、かといってまともな職歴も無い。 自分で選んだ道なのに、その結果を受け入れられない自分が情けなくて恥ずかしい、と泣く大人たち。 俺はそんな人たちを見ても、責める気にはなれなかった。 だって頑張っていたから。毎日毎日、キャンバスに向かって頭を抱えて、完成間近の絵を台無しにして、苦しむ姿。 頑張りが足りなかったから結果が出なかったんだと冷たく吐き捨てる人もいた。でも、本当にそうなんだろうか。 結果が出ないと努力として認められないって、凄く切ない。 この人も、同じような苦しみの中にいたのかもしれないと思った。 せめて、流す涙が少しでも減りますように。そう思いながら、骨ばった手に触れた。

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