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第3話
今朝は、昨日よりも気分が軽かった。
ここにおいで、と言ってくれたあの人。
初めて会った俺の話を優しく聞いてくれた、榊田先輩。
どうしてあんなに優しくしてくれたのか、考えても分からない。
その優しさに甘えて、胸の内に渦巻くもやもやした気持ちを話してしまった。
思い返すとだいぶ恥ずかしい事をした。
あの優しい声に促されると、話したくなってしまうのだ。
ゆっくりでいいよ、と言われるとどうしても甘えたくなってしまう。子供に話すように語りかけられ、恥ずかしいという気持ちもあったけれど、
それよりも自分の胸の内を明かしても馬鹿にしない、けなさないという事が、嬉しくて仕方なかった。
話の続きを促してくれるのが、耳を傾けてくれるのが、ありがたかった。
高校生にもなって、こんな事を考えてるって、情けないなと思いながら身支度をする。
思いの外晴れた空は、きれいな水色だった。
相変わらず、クラスのみんなからの視線はまだ冷たい。
でも、昨日ほど辛くない。
美術室に行けば、榊田先輩に会えると思っているからだろうか。
あの人の事を、俺はまだ何も知らない。
ただ、俺みたいな人間にも優しく寄り添ってくれる、思いやりのある人、という事しか分からない。
どんな人なのか知りたかった。俺なんかに親切にしてくれるあの人が、
何を思って毎日を過ごしているのか、近づきたいと思った。学校の中ですれ違ったりしないだろうかと、2年生の教室の近くをうろついてみた。
けど、視界の端にバスケ部の先輩達を見つけ慌てて踵を返して逃げ帰った。
小心者だなぁ、と自分にがっかりしながら廊下をとぼとぼ歩いた。
放課後になり、俺は美術室に向かっていた。
別館には授業でもない限り近づくことはほとんどない。主に家庭科室や科学準備室、図書室や茶道室など特別な教室が多くある。
文化部の人たちがよく出入りする場所で、静かな雰囲気が漂っている。
階段を登るたび、鼓動が早くなる。吹奏楽部が楽器の練習を始めたようで、曲につられて自分の息が弾んでいく。トランペットがけたたましい音を立て、シンバルが鳴り響き、フルートが針の穴を通すような鋭い高音を鳴らす。ぐずぐずしないでさっさと行けと言われてるような気分になる。
そうしていざ美術室の扉の前に来ると、ためらってしまう。部員でもない自分が、本当に出入りしてもいいんだろうか。でも榊田先輩には会いたい。
部室の前でうろうろしていると、「なにしてんの」と声をかけられる。
驚いて振り向くと、榊田先輩が立っていた。
「会いに来てくれたんじゃないの?」「あ、はい…そうです…」「じゃあおいで」
腕を引かれ、部室の中に招かれる。
部員の人たちは、どうも〜、と俺に挨拶をしてくれた。普段授業で使う教室とは別に、部活用の部屋があるようで、7人の部員がいる。油絵を描いてる人もいれば、大きな白い板のようなものに鉛筆で絵を描いてる人もいる。
「ア!昨日の人だ〜、どーもです。先輩のオキニなんですか〜?」
その中で油絵を描いていた丸眼鏡をかけた女子生徒が立ち上がり、俺を指さして言う。長い黒髪を赤いリボンで後ろに一つに束ね、きっちり三編みにしている。
頭の後ろに大きな黒蛇が噛み付いているように見えた。
「そうで〜す」「へ〜、じゃあイイヒトなんですね〜」のんびりした口調で話すその人は、俺に軽く手をふる。会釈を返すと「真面目かっ」と笑っていた。
「さっきのは宗像(むなかた)さん。凛ちゃんと同じ1年生だよ。のんびり屋さんだけど、話すと面白いし描く絵は迫力あるよ」「へぇ…」
昨日と同じ先輩の部屋に通される。
キャンバスの絵は昨日よりも進んでいて、背中に羽をはやした女の人が描いてある。天使を描いてるのかな、と思った。
綺麗だった。絵の事なんてなんにも分からないけど、ただ漠然と綺麗だと思ったのだ。淡い光の中で羽を広げ、腕を広げて立っている。
空から降ってくるなにかを受け止めようとしているように見えた。
「今日は思ったより進んだな〜」先輩がよっこいせ、と言いながら俺の隣に腰かける。
横顔をまじまじと見た。こめかみの傷は思ってたよりも深くて、そこだけ毛が生えていない。
うーん、と唸りながら伸びをするその仕草に、手を広げて爪を眺める目線に、どこか女性らしさのような雰囲気を感じる。
睫毛が長くて、鼻筋はすっとしてて綺麗。ニキビ一つない色白なつやつやした肌。俺は自分の鼻の頭にあるそばかすがあんまり好きじゃないから羨ましかった。
思わず自分の鼻に触ってしまう。
「絵の具の匂い、嫌だった?」「いや、違くて…先輩、鼻綺麗だなって…俺、そばかすあるから…」
「なんで、凛ちゃんのそばかす可愛いよ?触りたくなっちゃう」
そう言いながらくすくす笑って俺の鼻の頭をつん、と突く。
飄々とした雰囲気と語り口。
今までこういう人と話したことがなかった。いわゆる体育会系の人たちに囲まれてきて生きてきたから。バカとかのろまとか、怒鳴られるのは当たり前だった。
体育会系というそのものが悪いと言いたいわけじゃない。ただ、自分の周りにはそういう人が偶然集まってしまっただけなのだ。
運が悪かったんだと、そう思うしかない。
先輩といると、時間の流れがゆっくりと遅くなるような感じがする。忙しない毎日から抜け出して、秘密の空間にいるようだった。
「あの…なにか手伝うことないですか?」
「ん?」「いや、その…部員でもないのにここにいるのもあれだし…掃除とか、やることあったらやりたいなって…体力だったら無駄にあるから」
先輩の好意でここにいられるのだ。何もせずただ時間を過ごすだけなんて申し訳ない。
「そんなこと気にしなくていいのに」先輩が俺の頭を撫でた。「髪の毛、ちょーほわほわ。気持ちいい」子犬でも撫でるみたいに、先輩は優しく俺の髪の毛に触れる。心地いい、と感じ始めている自分に少し驚いてしまう。
「じゃあ、水張り一緒にする?」「みずばり?」「そう、さっきあっちの教室で大きなパネルに水彩とか鉛筆で絵を描いてる人何人かいたでしょ?そのための準備、一緒にしてもらおうかな」
先輩の手は俺の頬をむにむにと触る。「お肌もちもちだね」「そ、そうれすか」
先輩に感じる、この何とも言えない気持ちは何だろう。
すっと目を細め笑う顔。綺麗な弧を描く眉と生えそろった睫毛。
見つめていると、頭のどこかがくらりとするような目まいみたいな感覚。
そんなことを考える俺をよそに、先輩は俺の手を引き、隣の部屋へ歩き出していた。
「用意するのはこれだけ」
そこにあったのは、縦幅が1メートルくらいの長方形の木の板と、それよりも少し大きな画用紙。木綿豆腐を2つくっつけたくらいの筆洗と、刷毛が数本、
白い紙のテープ。
「糊とかいらないんですか?」「いらないよ。これだけでくっつくの」
先輩はまず白い紙のテープを手に取る。「この木の板の縦横の長さより、ちょっと長めに切ってくれる?」「はい」
触ってみて初めて分かったけど、テープの反対側がつるつるしている。
「それ、濡れた手で触るとべたべたするから気を付けてね」先輩はそう言いながら筆洗に水をくむ。
先輩は刷毛を俺に渡して、「この画用紙を満遍なく水で濡らしてほしいの。四隅もしっかりね」と言った。俺は言われた通り、水をたっぷり含んだ刷毛で画用紙を濡らす。透明な絵の具を塗っているようで楽しい。
「そうしたら、木の板にも同じように水塗って。染み込むように何回か塗ってね」「はい」
画用紙と木の板、両方に水を塗り下準備が終わったらしい。水を吸った画用紙の四隅を持ち、木の板の上に重ねる。
水で濡れた面どうしをずれないように慎重に合わせた。
「手で直接触ると皮脂がついて絵の具をはじいちゃうから、ティッシュとか持って入り込んだ空気抜いて。ケータイに透明のフィルム貼るときに空気抜くでしょ?あんなイメージね。あんまり力いっぱいやると紙にしわがよっちゃうから気を付けてね」「は、はい」
入り込んだ空気を優しく追い出すように、4つ折りにしたティッシュで画用紙を満遍なく撫でていく。
「紙って水にぬれると、乾いた後にでこぼこになっちゃうでしょ?それって、紙の繊維が伸びて、乾くときに元に戻っちゃうからなの。こんな風に紙を濡らして伸ばし切った状態にして、木の板に張り付けると乾いた時に元に戻ろうと収縮するのね。そうしておけば絵を描いてるときに紙がよれたりしないって仕組み」「へぇ…そうなんだ」
始めに切っておいたテープを水で濡らし、画用紙の辺の部分に張り付け木の板にしっかりくっつける。どうやらこのテープは水で濡らすとつやつやした部分が糊のようになるらしい。
「真ん中あたり、ちょっと空気残っちゃいましたね…すみません…」
「これくらいなら大丈夫だよ。一晩おいて乾けば真っすぐになるから」
先輩はそう言って笑う。
「水張りって、美術部の人でも結構難しいんだよ。凛ちゃん、丁寧にやってくれたから大丈夫だよ。ありがとうね」
「いえ、そんな…」「そしたら、凛ちゃんもなんか描いてみれば?」
「え、俺、絵心ないですよ…」「そんなもん、あろうがなかろうがいいんだよ」
先輩の部屋に連れ戻され、A4サイズくらいのキャンバスを渡される。
小さめのイーゼルを出してくれて、そこにキャンバスを立てた。
「これ、油絵の具ね。使うときは、この油壷っていう入れ物の中に入ってる油で絵の具を溶かして描くの。おさがりだから好きに使っていいよ」
先輩は透明なバケツを俺に渡す。その中には絵の具のチューブがいっぱい入っていた。
「でも、俺美術部じゃないのに…いいんですか?」「俺がいいって言ったらいいの、部長だから」そう言って先輩は俺の頭を撫でる。
俺はそのバケツの中を探ってみた。最後の最後まで使い切るようにねじられていたり、ペタンコになっているものの中に、ほとんど新品みたいなものも混ざっている。
「この筆、何の毛だと思う?豚だよ」「ぶた…」「こっちがイタチ。これは多分…狸かな?」筆の種類も様々で、大きなものから細いものまでそろっている。「楽しいですね、いっぱい道具があって」「でしょ」
俺は先輩が選んでくれた筆をとって、一つだけ色を選んだ。
一番好きな水色。筆を持って固まる俺の後ろから、「何を描いてもいいんだよ」と先輩が声をかける。
横に目をやると、先輩の顔がすぐ近くにあって驚いた。
俺の手に先輩の手が重なる。「凛ちゃん、何が好きなの?」耳元でささやかれる低い声にどきりとしてしまったのは、しっとりした甘さを含んでいたから。
「え、えっと…」「水色好きなの?」「あ、はい、そうです…」「へぇ、そうなの…」
先輩の左手が俺の腰に回ってそっと抱き寄せてくる。
先輩に抱いていた謎の感覚の正体が分かった。
この人、やたら色っぽいのだ。
目線とか、声とか、仕草とか、数えだしたらきりがない。
それを自覚してるのかどうか、分からないけど、先輩に感じている不思議な感覚を言葉にするなら、色っぽい以外に当てはまる言葉が見つからない。
違和感の正体に気づいた瞬間、自分が置かれている状況のとんでもなさというか、抗えない空気感に脳みそが戸惑いだす。
男の人に抱き寄せられて、嫌と感じないのはなぜなんだろう。
まだ知り合って間もないのに、甘えたくなってしまうのはなぜなんだろう。
包容力、という言葉が頭をよぎる。
尋常じゃないほどの包容力と、人心掌握力。
先輩は、人を甘やかすという才能がずば抜けているんだと思う。
特に、俺みたいな、自分の力で自分の心に決着がつけられないどうしようもないやつ。
先輩の左手の指が、俺のお腹をくすぐるように這い回る。むずがゆい感覚に思わず体が動いてしまう。「ひぇっ」と変な声を出して体をくねらせる俺を見て、先輩はくすくす笑った。
「くすぐったがり?」「あ、いや…」「くすぐったがりの人って、感じやすいんだって」「は、」何を、と聞かずとも、先輩の声色と表情でなんとなく分かってしまった。
「俺ね、今スランプなの」先輩が俺の手を動かし、パレットのうえに取り出された絵の具を掬う。
「自分が何を描きたいのか、わかんないの…」
そういいながら、水色の放物線を描く。俺はそれを見ながら、自分の心臓がばくばく跳ねて、体中に血液を回しているのを感じていた。
「凛ちゃんは、俺の風になってくれそうな気がするの」「風…、ですか」
「そう、汚れた俺の感性を根幹から吹き飛ばしてさわやかな空気を運ぶ、綺麗な風」
こんな俺に優しくしてくれる先輩の、何が汚れているというんだろう。先輩が描いているものは、段々形になっていく。
「はい、凛ちゃんの出来上がり」
そこにいたのは、デフォルメされた俺だった。丸い顔と、くりっとした目。
点々としたそばかす。困ったような顔をして俺を見ている。
「凛ちゃんの事、気に入っちゃったの」「え?」「可愛くて、仕方ないの」
俺の何が可愛いんだろう。うじうじしてて、役立たずで、バスケ部から逃げた半端者の俺のどこが、可愛いっていうんだろう。
「可愛くなんかないですよ、俺、」「可愛いよ、さみしそうな顔してるときとか、特に」
先輩の目は、嘘をついているように見えない。至近距離で見ると、顔の綺麗さがよくわかる。整った顔立ち、心地いい低い声、ミステリアスな雰囲気と包容力。
俺が女の子だったら、どうにかなってるかもしれない。いや、男でもどうにかなりそうだけど。
「だから、明日も来て」「あ、え、えっと…」「お願い」先輩が左手に力を込めてゆっくりと俺を抱き寄せる。
「俺さみしいんだ…」今まで聞いた中で一番、とびきり色っぽい声だった。
視界がくらくらする。
「…先輩は、邪魔じゃないんですか?」「うん」「俺みたいなのに、なつかれて、嫌じゃないんですか?」「うん」「…役立たずの、半端者なのに?」「俺にとってはそうじゃないよ」
「俺、ほんとに、精神が弱っちいから、甘やかされちゃうと…なんか…ますます駄目になっちゃいそうで、怖いんです…」
「駄目になってよ」
その一言が、胸に刺さった。駄目になってなんて、言われたことない。
まともになれとか、強くなれなら散々言われてきた。
甘い囁きは、耳から入り込んで脳みそを駄目にしていく。
「俺とおんなじ、駄目人間になって」「どういう意味ですか、」
「これからも来てくれるなら、教えてあげる」「あ…」
「水張り、うまくいってるか見たいでしょ?」
ドラマの引き際の台詞のような言葉は、俺を魅惑的な世界に導いていく。
「顔、真っ赤」「す、すいません、」
「凛ちゃん、かわいい…」
先輩の唇が、俺の口を優しくふさいだ。
頭の中が真っ白になったり、真っ赤になったり、目まぐるしい。
あっさり奪われてしまったファーストキスは、あまりにも甘美で艶っぽい空気の中で交わされた。
ゆっくりと離れていく先輩の唇を目で追ってしまう。「嫌だった?」
先輩の指が俺の唇をすっと撫でる。
「あ、えっと、初めてで、勝手がわかんなくて、」「なんだ、そうなの」
先輩がうふふ、と笑っている。先輩は、他の人としたことがあるんだろうか。
「じゃあ、明日も来てね」「あ、は…はい」「約束ね」先輩が左手の小指を俺にむける。指切りをしようと言いたいんだと思って、俺も手を出そうとすると
先輩が俺の手首をつかむ。
「え?」驚いたのもつかの間、またキスをされる。さっきよりも長く。
ちゅう、と音を立てて離れていく先輩の唇は、笑っていた。
「交わすなら、キスの方がいいじゃない」ずっと先輩のペースにのせられっぱなしだ。
「ねぇ、名前で呼んで」「な、名前?」「俺、先輩って呼ばれるのあんま好きじゃないの。下の名前で呼んで」「あ、わ、分かりました…」
「はい練習」「せ、清介さん」「もっかい」「清介さん、」「もっかい」「清介さん…」「上手にできました」
よしよしと俺の頭を撫でる。こうされることを、気持ちいい事と認識し始めている自分が怖くなった。
甘やかされることが、快感になり始めている。
もうすでにだいぶ駄目になっていそうな俺の頭は、この先どうなってしまうんだろう。
先輩の唇のやわらかさを思い出しながら、今日は眠りにつくんだろうなと思った。
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