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誘引される茶翅
太陽の光で透けるように白い肌だけが浮いている。風にふわふわとその髪が漂って、だがその子は浮かない顔をしているのだ。
それは、和一も忘れていた幼い頃の記憶だ。なぜ今になってそれを夢に見るのか分からないが、じんわりと胸が暖かくなってくる。
その子は同じ学年の…名前までは覚えていないが可愛らしい子で、和一は純粋な気持ちから助けてあげたいと思ったのだ。
虫が苦手だ、それなのにその子は死んだそれを弔いたいと言うのだ。
カッコつけて和一がそれを掴んで穴に入れてやると、安心したように愛らしい笑顔を浮かべる。優しくて、眩しいその子に胸が激しく叩かれ苦しい。
(…確か、名前は………みんなから『ひなちゃん』って呼ばれてたっけ)
そこまで記憶が蘇った時、和一はハッと現実世界に引き戻される。夢と同じく鼓動はドンドンと内から叩いていた。ソファーで眠っていたせいか、全身が凝り固まって辛い。
ようやく片付いたリビングにキラキラと朝日をめいっぱい取り込んで、カーテンの隙間から降り注ぐ。
「…………ひな、ちゃんか。」
その名前を呟くと、何故かあの憎たらしい男の顔がフッと脳裏に浮かんだ。たかが連絡先を交換しただけで子供のように無邪気に笑ったあの男のことを。笑った時のえくぼが似ているからか?…思い返せば、少し寂しそうな表情もひなちゃんに似ているのだ。
「………」
和一はスマートフォンを取り出して、『母』に電話をかける。彼女は直ぐにそれを取り、呑気に『あら、あんたにしては早かったね』と受話器越しで欠伸をしている。
「母さん、…小学校の卒業アルバムを取りに行ってもいいか」
ぶっきらぼうに要件だけ伝えると、彼女は気にもせず『それはいいけど、あんた大丈夫なの?…』とこうるさく騒いでいる。
和一はそれには答えず「十時過ぎに来るから」と一方的に通話を終了させた。
荷造りもあとは封をするだけ、和一は二人で暮らしたその部屋に名残惜しさを感じなかった。あるのはやっと事が片付くという安堵である。
「嫌だなあお客さん、俺は嘘なんて言ってないですよ〜」
その詐欺師スマイルは時として通じない時もある。大体占いだの、霊媒だの、その類を信じる客ばかりではない。単純に冷やかしで営業妨害してやろうという人間も多くいる。今日の客も単にネタになると思ってわざわざ予約したのだろう。
「でも、俺幽霊とか占い?とかってただのハッタリだと思ってんだよねえー!さっきから陽艶時さんの言ってることって誰にでも当てはまる事だし」
それに最近の若者は直ぐにSNSに投稿するきらいがある。このようなクソ生意気な客には陽向は決まって言うセリフがあるのだ。
「うーん、別に信用出来ないならお金払わなくてもいいよ。でも何か困ったことがあったら相談に乗るね」
そう言ってさっさと家に返すのが吉、無駄な時間を使いたくはない。正直ぶん殴りたいが、その営業スマイルを崩す事無くスムーズにお帰り頂こう。
(…はあ、今日こんなんばっかりじゃねーか。酒、飲みてぇ〜)
立て続けに冷やかし客、というのは今日はついていないようだ。陽向は席を立って少し早めに店を閉めることにした。
紫のカーテンをそっと開いて看板を『CLOSED』に変えた陽向に、カウンター席から「あ!陽向〜!終わった?一緒に飲もーよー」といつものウザイ友人が声を掛ける。
「あー?お前なんで居んのよ」
「なんでって酒飲みに?今ケンジくんと
の話で盛り上がってたとこよ。あの中央店、やっぱり遠隔してるよねーって。俺この間陽向に貰った五万全部台に飲まれたもん」
光輝は大好きなギャンブルに口止め料を注ぎ込んだらしい。とんだ馬鹿者だが、本人が楽しそうならば良しとするしかない。
「ひーちゃんも座ったら?何か作るわよ」
「…俺今飲まないよ」
「あら、禁酒してたかしら?それならオレンジジュース作ったげるから座りな」
大人になってから異常に早く時が経つ。カレンダーは一枚捲られあっという間に半分終わっている。
(そういや、あいつあれから何も音沙汰ねぇけど…一ヶ月とちょっとか…。)
お預け状態の雨音をそのまま帰すという愚行を働いた陽向は、ふとした時あの整った顔を思い出す。未だに彼の連絡先を知らないというのは色々と不便で、次会った時に聞こうと思っていたのにその本人と会えない。
そのうち会いに来るだろうと高を括っていたが、雨音がここに訪れる気配は全くない。
(ま、ゲーノー人らしいし…。あいつなら美人選び放題だろ…)
「はい、どーぞ。」
そのオレンジジュースを受け取ってちまちまとストロー喉に流し込む。程よい酸味が口に広がるのにそれは心のモヤを取り払ってはくれない。
「そういえば、雨辻くんは最近見ないけど辞めたの?」
「違うわよ〜和一は色々とゴタゴタしててね。暫くしたらまた手伝いに来てくれるはずよ」
「そうなんだあ。つーか陽向、あの子とどうなったよ」
光輝はニヤニヤしながら陽向に話を振った。それに反応を誰よりも早く示したのは健二郎で、「なに?あの子って?」と目を輝かせているのだ。
「えっとね、背が高くてイケメンの年下男子と玄関先で―」
「それって!レイン!?」
光の速さで健二郎は勘づいたようで、野太い声を裏返す。
「おい、それは言わねぇ約束だろが!」
「え?俺この事のお金貰ってないよ。」
「ひーちゃん!あんたまさかとは思ったけどレインとデキてたの!?」
カウンターの向こうから身を乗り出して健二郎は問いただすのだ。こうなれば収拾は難しいだろう。
「…別に付き合うとかは…」
「どういうことよ。まさかセフレとか言わないわよね」
健二郎は先程の高い調子が落ち着いて、ぎっと陽向を睨みつける。彼はそのような類が嫌いで、『付き合ってから』とよく陽向に言っていた。
「…いや、最後までヤッてねーよ?」
「でもヤル気だったよねぇ〜」
余計な事をヘラヘラと言う友人に、今度は陽向が睨みを聞かせる。 だが左頬に健二郎の痛い視線が刺さっているのだ。それを見ないふりして空のグラスの氷をストローで回す。
「あんたねぇ〜、そういうのには何事にも責任ってもんが…」
「まあまあ、ケンジくんいいじゃないの、陽向もいい大人なんだから」
健二郎の説教を光輝が上手く遮ると、 「…まあ、そうね」と微かに不満げな表情をしているが納得したようだ。
「でもあれから一ヶ月、まだ進展ないの?」
「だってあれ以降俺あいつと会ってないよ。連絡先とかも知らんし」
「ええ〜?そんな事ある?普通好きな子だったら真っ先に聞くけどなあ……あれじゃない?もうヤれなそうだから別に乗り換えたとか」
陽向が気にしないようにしている事をを光輝は躊躇いもなく口にする。それは心のモヤが不安だったのだと陽向に気づかせるのだ。
「俺だったらヤるだけの子がヤれないってなったら切るもん。それにあの子カッコイイから引く手数多でしょ」
その辛辣な言葉が胸に突き刺さった。…もし陽向が雨音と恋人にならず、ただの友人のような関係であったとして。
彼が恋人を連れていたらやはり和一に感じた時と同じ『違和』が生じるだろう。
光輝が恋人を連れていてもなんの感情も起こらない。その他の親しい人間に対しても同じだ。
なぜ特定の人物にだけそのような感情を抱くのか、些か疑問ではあるが。
「ひーちゃん、気になるなら自分の感じた気持ち、ちゃんと相手に伝えてみたら?曖昧にしていたら相手も傷つくわよ」
難しい顔をしている陽向を心配してか、健二郎は優しく諭す。それに便乗して「そう!俺が言いたかったのはソレ!」と光輝はうんうんと頷いた。
「あんたはそういうの苦手だと思うけど…例えばプレゼントとかどう?ひーちゃんどうせ貰ってばっかりでしょ」
全てお見通しの健二郎の助言に、素直に従ってみることにする。そうすることで不安が取り除かれるのならば。
「………うーん、考えてみるよ」
自ら行動を起こそうと思うこと自体、そこそこ生きていると思わなくなる事なのだろう。だが今日の陽向は小さな一歩を踏み出したのだ。
(…ネクタイに三万も出しちまった)と思う反面、きっと飛び上がるほど喜ぶ雨音の姿を想像して楽しみに思う。
高級ブランドのネクタイなんて滅多に人にはやらないが、左手に握られたそれを早く渡したくて堪らない。
(……あいついるかなあ。つーかマジでヤれなかったからもういいやってなってたらどうするよ…。いやいや、あんだけ好き好き言っててそりゃないよな)
一抹の不安は消えないが、雨音の事だから単純に忙しかっただけだろう。陽向の足は雨音のマンションの近くまでやって来た。今更ながら変な緊張が全身を襲って中々前に進めない。ロボットのようにぎこちない動きで階段を上り、ようやくそのマンションが見えた。
(…なんて言って渡せばいいんだ?つーかネクタイで良かったのか?いきなりプレゼントって変じゃね?…ってあれは…)
マンションのエントランス、そこに見覚えのある背中が居た。だがいつもと違うのは、その隣にいるスタイルの良い女だ。彼らは腕を組んで歩いて随分親しげである。確かに見た、その女が雨音の頬にキスをしたのだ。
「……………は?」
『もうヤれなそうだから別に乗り換えたとか』
あの|光輝《バカ》の言った言葉が陽向の頭を殴るように響いた。心のどこかで(そんな訳ない)と否定しても、目の前の彼らの距離はただの友人では無い。陽向はズカズカと楽しげな彼らの元へ乗り込んだ。
「おい!雨音!」
「…ああ、陽向さんどうしたんですか?」
「どうしたじゃねーだろ」
短気ではない、そう自負していたがどうやらそうでも無いらしい。そのオシャレで高そうな服の胸ぐらを掴むくらいには腹が立っていた。
「…先部屋行ってて」と雨音は冷静に女に告げ、恐ろしく冷たい眼差しで見下ろす。一ヶ月でなにがあった?その態度の変わり様は陽向を困惑させた。
「これ高いシャツなんで引っ張らないでください」
「んな事知るか。どういう事か説明しろ」
胸ぐらを掴んだ腕を引き剥がし、雨音は「あなたに関係ないと思いますけど。何しようと別に恋人じゃないんだから」と正論を吐く。最悪の展開に心を宥めて深呼吸を二回ほど行った。
「恋人になりたかったんじゃないの?」
これ以上怒鳴り散らかさないように、陽向は声を抑えた。何か事情があるのかもしれない。それを聞かずして一方的に騒いではいけないと思ったからだ。
しかし陽向の努力虚しく、雨音は平然と言って欲しくないセリフを吐くのだ。
「陽向さんヤらせてくれないじゃん」
「………は?」
「ヤりたい盛りなんで。」
ブチブチと脳みその血管が切れたのではないか。そう錯覚するほど陽向は怒りで全てが支配された。深呼吸を何回しても追いつかない。
「…あー!そうかよ!じゃあ全部ナシな!」
バンッと地面にプレゼントを投げ捨てる。「二度と面見せんな!ボケ!」と捨て台詞を吐いてその場を去った。これ以上ここに留まると手が出そうだった。だからこの位で勘弁してやろうと思ったのだ。
特に行先は決まっていない。だが三ヶ月も経たぬうちに禁酒は破られることだけは決まっている。
ビニール袋の中から酒を乱暴に掴んで、苛立ちでままならない指先はタブを開ける。それを喉に流し込んでもなんの満足感も得られない!
「くそ!!なんなんだよ!あのボケ!!」
人気のない公園のベンチは遠くの街灯の光がほんの少し届くだけの面白みのないいつもの場所だ。陽向は何か嫌なことがあった時決まってここでヤケ酒を煽ってストレス発散している。
早くも一つ空にして、次は赤い紙パックの酒を取り出しストローを勢い良く突き刺す。そうすると中身が噴水のように溢れて手がビシャビシャになった。
「………くそ…」
情けなくて、鼻の奥がツンとしてくる。それを騙すため追加で酒を流し込むのだ。だが飲めば飲むほど目玉を水が覆う。それが零れないように上を向くが、ついには容量オーバーでボロボロと目の端から流れていった。
「…うぅ、なんなんだよぉ…」
勝手ながらとても傷付いた。原因は陽向がハッキリとせずフラフラしていた事だとわかっているから尚更だ。彼の好意に胡座をかいて見限られた、それだけの事だが、寂しくて寂しくてしょうがない。陽向がようやく向き合おうと決心したら雨音はそっぽを向いた。怒りの原動は小さな勇気を踏みにじられたからだろう。
酒も相まってか感情に今は素直である。子供のように目を擦って、噛み締めて赤くなった唇は呼吸するように酒をストローで吸い上げた。
「好き、って演技だったのかよ〜、クソ俳優〜!視聴率ゼロになっちまえぇ…ぅう…」
傍から見たら不審人物だ。それでも感情が渋滞するよりは吐き出した方がいい。酒はたんまりあるのだ、記憶が無くなるまで飲めばこの恥ずべき行動を認識しなくて済む。この時ばかりは|下戸《げこ》で良かったと思う。
次はハイボール、そしてその次は…そうしているうちに怒りや悲しみはアルコールでぼやけていくはずだ。
陽向の愚行が続けられようとした時、リリリン、とズボンのポケットの携帯が振動した。それを反射的に取り耳に押し当てる。勿論まだ涙は止まっていない。
「はーい、もしもし?…ぅぅ、誰だよ〜、もしもしー?」
三秒ほど相手は無言だった。何を話すか考えているのだろう。そして落ち着いた深みのある声で『…外崎、俺だ。今大丈夫か?』と問いかけるのだ。
「……和?ええっと、…大丈夫よ。何かあった?」
陽向は服の袖で濡れた頬を擦ると、何事もない振りをした。手遅れだろうが、人前で泣くのはプライドが許さない。勿論酒がもう少し回っていれば誰がいようと泣き喚くこともあるが、今日は少しアルコールが及ばなかった。
『もう晩御飯を済ませただろうか。…この間の埋め合わせに食事でもと思ってな。』
隙間だらけの心を抱擁するように、その低音はほんの少し陽向の激情を宥める。
「まだ食べてねぇけど…取り込み中で」
『今どこだ』
「え?ええっと、…スウィンドーよ。予約が沢山で大変なんだよね〜」
今は誰とも会いたくない最悪な気分だったので必要の無い嘘をついた。何も無ければ陽向は飛び上がるほど喜んだだろうが、アルコールと涙で浮腫んだ顔など見られたくない。
『……………』
何かを察したのか、和一は無言だった。受話器の向こうから足音がするのでどこかを歩いているのだろう。
(あー、きっとこれを断ったら次は誘ってくれねぇだろうなあ。俺には結局金しかねぇんだ…)
マイナス思考はまた落ち着いていた涙を誘った。ポロリとそれは地面にシミを作る。
「まあ、そういう事だからまた日を改めて―」
鼻声になりながら陽向が断りを入れようとした時、薄闇から二本の足がぬっと現れた。それは幽霊にしてはハッキリとした輪郭だ。恐る恐る視線を上に向けると、少し呆れた顔をした和一が仁王立ちしている。その手には買い物袋がぶら下がっていた。
「スウィンドーにいるんじゃなかったのか?」
「か、和!?…なんでここに…」
「見ての通り買い出しに行った帰りだ。偶然通りかかったらお前がいた」
まさかばったり出くわすとは思ってもいなかった。陽向は急いで涙を拭っていつもの調子に戻す。
「ははは、いやぁ、さっきまでは働いてたのよ、俺」
「大丈夫か?……どうした?」
だが、和一は直ぐに異変に気がついたようでそっと膝を折って視線を合わせた。陽向はこの酷い顔を見られないよう俯くが、覗き込む切れ長の瞳はそれを逃さない。「泣いていたのか?」と涙で濡れた頬に優しく触れる。
「うぁ!」
その行動は予想外で、陽向は仰け反った。背後の低木がバキバキと音を立ててクッションになったが、あまりの間抜けさに木に埋まったまま呆然とした。心臓が驚きのあまりバクバクと脈打っている。
「…相当酔ってるな。ほら」
差し出されたその手を掴んで起こしてもらい、服についた葉っぱを取り払う。恥ずかしさに顔から火が吹きそうだ。よりによって和一の前でこのような失態をするとは…。
「悪ぃ…」
「歩けるか?」
そっと肩を支えるその手の部分がやけに熱い。一歩踏み出してみるが世界がグルグル回って歩けそうもなかった。気持ち良さと気持ち悪さの共存が始まると潰れる合図である。
「うぅーん、…無理かも」
和一に全ての体重を預け、陽向は重い瞼を下ろす。どうにでもなれ、という自暴自棄があったのだろう。嫌われようがなんだろうが金さえあれば幸せなのだから。
「おい外崎、起きろ。…………………しょうがないな」
柔らかい繊維が頬を掠めてとても心地が良い。柔軟剤の良い香りがふんわりと体を包んで、陽向は思わず顔を埋めた。それに優しく誰かが頭を撫でるのだ。|宛ら《さなが》猫にでもなった気分である。ゆっくり手足を伸ばし、夢見心地のまま瞼を開ける。
「うーん……どこだここ。」
そこは見慣れない部屋だ。目の前のローテーブルにはまだ湯気が立つ湯のみの茶と急須。目線の高さ的にソファーに眠っているのだろう。
「起きたのか」
頭上でその声がして、陽向は体を勢い良く起こした。隣に視線を向けると和一が小難しい本片手に座っている。彼は引っ越したのだろうか、部屋の端にまだ開けていないダンボールが積まれていた。
「あー、…ごめん。」
失態の記憶はまだ新しい。無くなれば良かったのだが、しっかりと覚えていた。彼は本をぱたん、と閉じて視線をゆっくりこちらに向ける。
「俺は構わないが、お前は大丈夫なのか?」
「ああ、単純に飲みすぎかな」
今日の和一は特別優しい。陽向がいつも目にする彼は眉間にシワが寄っていて楽しくない、それが顔に出ていた。今は穏やかに茶を啜っているのだから不思議だ。和一は空いた湯呑みに茶を注いで、そっとこちらに差し出した。
「俺には話し辛いだろうが…」
「そんな事ねーよ。ただ…お前に聞かせるのも申し訳ない、というか…」
和一は雨音との関係を知らない。きっとただの知り合いか何かだと思っているはずだ。そんな彼にいきなり話しても混乱させるだろう。だが陽向の本心は誰かに話を聞いてもらいたいのだ。頭の中はいかに分かりやすく話をまとめるか整理している。
「……阿形雨音のことか?」
「ッ、なんでそれを…!?誰に聞いた?」
「………」
和一は分かりやすく視線を逸らす。陽向は直ぐに犯人が誰なのか察した。後であの馬鹿はしばき倒さなければならない。
「…まあ、知ってるなら話は早いけど」
「何か酷いことをされたのか?」
「そんなんじゃねーよ。俺がフラフラしてたから嫌われただけというか…。まあ単純にヤりたかっただけだったんだろうけど」
女と歩いていた雨音が思い起こされ胸がズキズキ傷んでくる。(あの後あの女とヤったんだろうな)と嫌な想像を膨らませ、誤魔化すように陽向は貰った茶を飲んで心を落ち着かせた。
「…それは本人から聞いたのか?お前が勝手に思い込んでいる可能性は?」
「残念ながら直接言われたよ。ははは、ふつーにショックでびっくりした」
和一は少し考え込むと、「そんなことを言う人間にろくな奴はいないと思うが…」と難しい表情を浮かべる。そして席を立つと、陽向が大量に買い込んだ酒の袋をドサッとテーブルに置いた。
「とりあえずこれは今晩片付けるか。」と酒という酒を広げる。飲んで忘れよう、そういうことらしい。陽向もそれに賛同し、乾杯することにした。ごくごくと喉を鳴らして再び酒を流し込み、別の話題を提供する。
「そういや、引っ越したの?前の部屋と違うような…」
「ああ、先週な。玲実とは離婚したんだ」
「え?…あーそうなんか。悪い」
「謝るな。別に気にしていない」
明るい話題に持っていきたかったが、いきなり地雷を踏み抜いたようだ。だが陽向は最低だが人の不幸に安心して肩の力が抜けた。(和の隣にあの女は違和感あったもんな)と悪魔が囁いて、それにうんうんと頷く。
「…安心したのか?」
「い、いやそんなことは…」
また不快にさせてしまうのではないかと和一の様子を窺うが、彼の口角は微かに上がっている。気まずさで俯いた陽向の前髪を掬って、和一は無理やり視線を奪い取った。
心臓がまるで雑巾のようにギリギリと締め上げられる。その黒い瞳を見ていると催眠にでもかけられたように思考に靄がかかるのだ。そして和一はその目を細め、
「俺は今まで何故お前の魅力に気が付かなかったんだろうな」
と呟いた。
陽向は和一の言葉に自分の耳を疑わなくてはならない。低く、だが甘い声は鼓膜から脳みそに伝達されそこから背筋をゾワゾワと泡立たせる。
「………ど、どうした?酔った?」
「俺はお前と違って下戸じゃない」
(ということは、本心って事だよな?からかってるのか?いや、でもこいつはそんな事する性格じゃねーし…。魅力、魅力ねぇ…それってどう意味?…あー、頭回んねぇ…)
和一の言葉の意味を理解しようと脳みそは頑張るが、アルコールに浸かって使い物にならない。それに飲み過ぎて胃がムカムカとして気持ち悪い。
「…おい、大丈夫か?」
「ううう、ダメかも。…吐きそう」
今日は一体何度失態を披露すれば気が済むのだろう。飲み過ぎでぶちまけるとはあまりに悲惨だ。和一は『気にするな』とは言っていたがいくら陽向でも気にする。
「あああ、最悪だ…」と一人呟いて人の家の湯船に浸かってブクブクと小さな自己嫌悪を水面に吐き出し、湯の温もりに身を委ねた。疲れと酒のせいで今にも寝てしまいそうである。
(…あー、明日からどうすっかな…。別にあいつがいない頃みたいに過ごせばいいんだろうけど…。なんかちょっと寂しいのが悔しい)
また鼻の奥がツンと痛くなった時、それを遮るように人影が扉の前に現れる。
「入るぞ」
和一の声がしたと思えば、彼は直ぐに扉を開き浴室に入ってくる。勿論一糸まとわぬその姿でだ。陽向は視線をあからさまに逸らして「…俺入ってんだけど」と文句をつけた。
「俺の服も悲惨な状態だから風呂に入れてくれ」と言われたならそれ以上抗議出来ない。そもそも人様の家で吐いて風呂に入れさせて貰っている陽向がどうこう言える立場ではないだろう。
「それにまだ酒が抜けてないだろう。滑って頭を打ったら大変だ。」
蛇口を捻ってシャワーから湯が吹き出すと、たちまち湯気が広くない浴室を包み込む。
「……………」
隣で体を洗っている男にチラリと視線を向けて、自身の喉仏がごくり、と生唾を飲む音が聞こえた。
昔からあの腕で竹刀を振るっていたのだ。引き締まった体は筋肉がほんの少し動くだけでそそられるものがある。水が踊るように肌を滑り落ちて、泡と共に排水溝へ流れていく。
(何考えてんだ?俺…)
和一とはただ話がしたいと思っていただけだった。今も昔もそれは変わらない。それなのに何故体はおかしな反応を見せるのか。
(鎮まれ〜鎮まれ〜…)と深呼吸を繰り返すが、陽向の頭上で
「外崎、横、詰めろ」と和一は暇を与えてはくれない。
「え!?…狭ぇーのに入るの?」
「俺は湯船に浸からないと風呂に入った気がしない」
モジモジと体を縮ませ、陽向は浴槽の隅に丸まった。だからといって広くなる訳では無いが。その体が豪快に浸かると、滝のように湯船からお湯が逃げていった。
とりあえず陽向は頭の中で気持ちの悪いものを思い浮かべる。そうすることで元気になりつつある分身を鎮めることが出来るのでは無いかと踏んだのだ。
(カエルの卵…、後は…この間見たゲテモノAV…よしよし、その調子だ)
その膝が陽向の太ももに当たって、萎みかけていたそれが再び元気を取り戻す。和一の肌が触れる度体が過剰反応を起こし、一生懸命萎えさせようとしていた努力は水の泡だ。
「……和〜、上がらないの?」
「今入ったばかりだ。」
「…ソーヨネ…」
陽向は既にのぼせ気味だが、和一が上がるまで我慢しなくてはいけない。今できることは出来るだけ和一に触れないよう体を縮こませるだけだ。
「…外崎、大丈夫か?のぼせたんじゃないのか」と人の気も知らないで和一は気軽に陽向の頬を撫でる。反射的にその手を逃れるように背を向けた。
「な、なんか今日お前触りすぎじゃね?…まさか俺に気があるとか?なーんて!」
「…………………」
背中に動きを感じ、陽向は体を強ばらせた。肩に触れたその手はゆっくり首筋をなぞって思わず上擦った声が漏れる。
「ちょっ、和?…何してんの?」
「いや、…俺はお前に触れたかったんだと自覚した」
するりと陽向の脇の下を通り逃げられぬように回された腕が胸の突起を掠め、体がビクビクと跳ねた。咄嗟に唇を噛んで情けない声を出さずに済んだが、直ぐにその指先は突起を躊躇なく押し潰すのだ。乱暴で荒々しく、ねじ伏せるような快楽が脳天を突き抜ける。
「…ッあ!や、やめろッ!」
陽向の制止など聞こえていないのだろう、抵抗する陽向の体をその腕が巻き付き離さない。水面が大きく揺れ、バシャバシャと湯船からまた水が溢れる。
「…外崎」
「か、和、ぁッ…うぅ…ッなに、考えてんだよ!」
ぬるりと首を這った舌は耳朶の感触を味わうように絡みついて、その湿った音は脳みそをぐちゃぐちゃに掻き回すのだ。…どこか彼の舌は違う。何が違うのかは分からないが別の生き物のように蠢く。
「こ、怖ぇよ!やめろ!ッうぁ…」
「何が怖い?」
「な、なんかベロが…」
和一は「ああ、それはそうかもな」と平然としている。恐る恐る後ろを振り向いた陽向に彼はそれを見せてやるのだ。
「生まれつきこれだ」と舌を出した男に陽向は怯え、そして体の奥はビリビリと反応する。
まるで蛇だ。蛇のようにそれは長い。長い舌は再び陽向の項や耳朶を這いずり回った。
「ぁう”ッ…、…あ、いつと同じでヤリたいの?ろくでもないのはお前も一緒だな」
背中に当たった硬いそれは和一が陽向に興奮している証拠である。陽向も和一を非難しているが、気を抜けば簡単に果ててしまいそうだった。
「確かにそうかもな」
和一はなんの否定もせず認める。それは例え頭が馬鹿になっていても流せない事だ。
「…ふざけんな!」
陽向はどうにかその腕を振りほどき、逃げるように湯船から上がる。だが、のぼせた体は立ちくらみを起こして陽向は壁に手を着いた。
視界がぐるぐる回って、吐くものなどないのに胃がギュッと収縮している。
「うぇ、気持ち悪い………」
またリバースしそうな陽向を和一は後ろから捕まえると、なんの躊躇いもなく、だらしなく涎を垂らし張り詰めたそれを鷲掴みにした。
「ぁッ!く、くそ!ぅ、あッ…触るな!」
「責任は取る」
ゴシゴシと痛いほど上下に扱かれ、自立する事も困難になる。覆いかぶさった和一は陽向がヘタレ込まないよう腰を押し付けて絶対に逃がしてはくれないようだ。
空気と陽向の体液が混ざり、卑猥な音を狭い浴室に響かせた。和一の荒い呼吸が鼓膜を犯し、腰に擦れる男の肉欲は新たな快楽へ誘う。
「か、和、は、離して…」と懇願するが、悦びに爛れた顔と声ではなんの効果もない。それどころか尻を押し付けるような体勢になって、まるで自ら腰を振る淫乱だ。
(や、やばい、良すぎてイきそう)
チカチカと目の奥が火花を散らし始める。それが酔いかのぼせか、はたまたぐちゃぐちゃに合わさって出来た快楽なのか分からない。
「ぃ、…いやだ!もう、イきそうだから…止めて」
抗えば抗うほど陽向の体はその乱暴な扱いに強い快楽を覚え我慢が出来なくなる。もう一押し、と言わんばかりに和一は陽向の肩や首筋に噛み付くのだ。痛い、だが陽向にとってそれは絶頂への燃料に過ぎない。
「ぅ、あっぁッ…!」
痛みと快楽で爆ぜた脳汁は下半身に直結し、その手のひらに大量の精を吐き出させた。痙攣する体はその余韻にすら敏感に反応して、背後の男を悦ばせる。
「手が汚れた。…綺麗にしろ」とその精液でベトベトの指を口に押し込まれた。掻き回すように口内を弄り、陽向が和一の手で絶頂した事を刷り込むのだ。
蛇口から水が一滴、その音がやけに反響して聞こえる。和一のものなのか、自分のものなのか分からぬほど乱れた呼吸。
「いい子だ」と耳元で褒められ、気が抜けたのか陽向は自身の吐き出した欲の苦さを最後に意識を手放した。
暗い部屋に灯ったスマートフォンの画面は、思わず顔を顰めたくなるほど通知の嵐だ。着信が42件、メッセージが17件と普段ならそのような事にはならない。
その全てが同じ人物、『阿形雨音』であることは、直ぐにかかってきた電話で分かる。
「…はい」
『なんで出てくれないんですか!!』
耳を受話器から離したくなるほど張り上げた声に、ぐっと眉を顰めた。
「すまない。色々と忙しくてな。ところでこんな夜更けにどうかした―」
『陽向さんの連絡先教えてください!』
食い気味に彼はそう言った。余程焦っているのだろう。忙しいはずなのに寝る間を惜しんで、だがどうにもならなくて可哀想だ、と同情する。
ちらりと視線はベッドに転がるそれに移される。引き寄せられるようにその足は眠る男に向かった。
ベッドの端に腰を下ろし少し濡れた髪を撫でて、はだけた胸元をしっかり正すのだ。人の家のベッドを幸せそうな顔をして占領している。今日はもう目を覚まさないだろう。
「…悪いが俺は連絡先は知らない」
『そんな訳ないでしょ。あの人は貴方と連絡先交換したって言ってましたよ』
「……。」
『教えてください!』
「本人の許可が無い。勝手に教える訳にはいかないな」
『協力してくれるって言ったでしょ!』
必死に彼は眠る男の連絡先を欲しがっている。何も無ければきっと教えていたはずだ。
その黒い瞳は夢にいる男の唇をそっと指でなぞりながら、その傷だらけになった首筋に満足感を得る。昔から常に頭の片隅に居座り続ける厄介者だった。…それが形を変えただけだ。
『…お願いします!あの人に謝らないといけないんです!』
「悪いが状況が変わった。」
『は?…どういうことですか』
「外崎は渡せない」
これは誠実な対応だ。中には何も言わず奪う人間もいる。仮にも陽向の事を好きだという彼に配慮しただけ。
『ふざけんな!この―』
その罵詈雑言は聞く必要が無い。電源を再び切って、自分もベッドに横になる。その髪の感触を頬で感じながら、まるで自分のものように抱き抱えた。
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