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ムーランルージュ ⑤
朝起きて、支度をし別々に家を出る。 いつもより1本遅めの電車は混んでいて、ぎゅっと押しつぶされそうになる。
あぁ、憂鬱だ。今日は何となく瀬名と顔を合わせ辛くて朝からそっけない態度を取ってしまった。
まぁ、普段からそこまでなれなれしい会話をしているわけでもなかったので、怪しまれずに済んだのだがいつまでもこのままでいいわけがない。
そんな事を考えながらぎゅうぎゅう詰めの車内でぼんやりと窓の外を眺めていると、不意に尻を撫でられた感触があった。
それは一瞬の事で、まぁ混んでいるし偶然手が当たっただけかと気にせずにいたのだが、すぐに今度は明らかに意志を持って尻を揉まれびくりと身体が強張る。
一体何処のどいつだ? 朝っぱらから満員電車に乗じて人の尻を揉む変態野郎は。
首だけ後ろに向けて姿を確認しようとするが、相手の方が身長が高いせいかよく見えない。
それどころかするりと手が前に伸びて来て、ズボン越しに股間を撫でられ理人はぎょっと目を見開いた。
「チッ、クソが……」
朝っぱらから胸糞悪い。悔しくて踵を上げ、男のつま先目掛けて足を振り下ろすが既にそこに足は無く、逆にバランスを崩して背後の男に抱き留められるような形に倒れ込んでしまった。
「おっと大丈夫ですか? 具合が悪いのかな? おじさんが介抱してあげようか」
男は息を荒げながら、べっとりとした口調でそう言って来た。
「あ? 気色悪い事言ってんじゃ……」
「あれ? なんだ誰かと思ったら理人君じゃないか。久しぶりだねぇ」
「……っ」
男の顔を見て理人は言葉を失った。何故なら、今、自分を抱き留めている男は高校時代の担任、本田だったからだ。
でっぷりと脂ののった腹に、眼鏡をかけた中年太りのこの男が理人は大嫌いだった。
教師のくせに隙を見つけては生徒を手籠めにして淫行を働き、しかもそれをネタに脅してくる最低な男だ。
「お、お前……なんでここにいるんだよ」
「なんでって、今から仕事に決まってるじゃないか。そんな事より、久しぶりだね。理人君は変わらないなぁ……というか、益々色気が増して来たんじゃないかい?」
ハァハァと鼻息荒くしながら、先生はねっとりと頬擦りをしてくる。
「チッ、そんなの知るか」
気持ち悪くて鳥肌が立ち、全身が総毛立つ。嫌悪感から吐き気が込み上げてくるのを必死に
抑えて、理人は男の腕から逃れようと藻掻いたが、体格の良い男の力には敵わなかった。
卒業して既に10年以上経つと言うのにこの馬鹿力は一体何処から来るんだろうか。
「あー久しぶりの理人君、なんだか匂いがするなぁ」
「やめろ! 気持ち悪ぃ!」
「ねぇ、昔みたいに口でヌイてよ。すぐ済むから」
耳元に息を吹きかけながら囁かれて、ゾワリと寒気を感じる。
冗談じゃ無い。どうしてこんな奴の為に時間を割かないと行けないのだ。しかもここは通勤通学ラッシュの時間帯だと言うのに……。
「チッ、この変態教師がっ! そんなに抜いて欲しけりゃ風俗にでも行け! 警察呼ぶぞくそ野郎がッ」
今すぐ大声で怒鳴りつけてやりたかったが、此処は満員電車の中。どうしても小声になってしまい、迫力は半減してしまう。
「相変わらず口の悪い子だねぇ。でも、そういう所も嫌いじゃ無かったけど」
「俺はてめぇの事なんて大っ嫌いだったけどな」
「あぁ、その人を射殺せそうなその冷たい視線。いいねぇ、堪らないな。ゾクゾクする……っ」
恍惚とした表情を浮かべながら、身動きが取れないのをいいことに腰を引き寄せグイグイと尻に押し付けて来る。
「くそ、変態色ボケジジイが! きめぇし、マジでいい加減に――」
「……何やってるんですか、オジサン。嫌がってるじゃないですか」
「!?」
突然、何処からともなく低い声が聞こえ、絡みついていた腕が外れた。
「痛い、いたた……ッ」
見れば190㎝近い長身の男ががっしりと本田の腕を掴んで捻じり上げており、あまりの痛みに本田は情けない悲鳴を上げて苦悶の表情を浮かべている。
一体何が起きたのかわからず唖然として見つめていると、ほんの一瞬、男の切れ長の瞳と目が合った。
「――――」
何か、言わなければと口を開きかけたその時、目をスッと逸らされてしまい理人は口をつぐんだ。
そして次の瞬間。
「みなさーん、この人痴漢ですよ~!」
男が本田の腕を掴んだまま大きな声を張り上げる。
「なっ、ち、違っ私は……」
周囲の視線一点に集中し、見る見るうちに本田の顔が青ざめるのが分かった。
「言い訳なら、次の駅で駅員さんに言うんだな」
低くドスの効いた声で言われ、本田は観念したのか項垂れたまま動かなくなった。
それからほどなくして駅に到着しドアが開くと男は有無を言わさず本田を引っ立ててホームに降り立った。降りる瞬間、一度だけ目が合ったが、すぐにそれは逸らされてしまい、そのままずるずると本田を引きずって、あっという間に改札の向こうへ消えていってしまう。
「あ……」
助けてくれた礼を言いたかったが、もう遅い。理人は呆然としたまま、その後姿を見送った。
彼は一体何者だろう? ただ、あの時見せた鋭い眼差しはどこか瀬名に似ていたような気がした。
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