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ムーランルージュ ⑥
理人がフロアに到着した時、瀬名は既に出社していて自分のデスクで仕事をしていた。
「おはようございます。理ひ……部長」
「あぁ」
一番に気が付いて嬉しそうに飛んでくるのは最早見慣れた光景になっていて、周りの部下達からの微笑ましいものを見るような視線が何とも居心地が悪い。瀬名との関係に気付いているのはこの部署では課長だけのはずだが、それでも時折、意味ありげな笑みを向けられるのは勘弁して欲しい。
「あ、部長ちょっと待って下さい」
「なんだ」
周囲に挨拶を済ませ、自分の席へと戻ろうとすると突然瀬名に呼び止められた。すっと手が伸びて来て距離が縮まりそれに伴って鼓動が僅かに早くなる。
「ネクタイ、曲がってます」
「え? あぁ」
手際よく直されて至近距離で瀬名と向き合う形になり、理人は思わず顔を背けた。
「今日は大事な会議があるんですよね? 頑張って下さい」
「……当然だ」
素直に礼を言うのは何となく気恥ずかしく思えて、ぶっきらぼうにそう言うと理人は足早に自席へと向かった。
パソコンを立ち上げ、今日の会議で使用する資料の最終チェックを行う。今回開発した商品の実験データをまとめ、市場調査の分析結果を元に競合他社の動向予測などを盛り込んだものだ。
今後の戦略を立てる上で非常に重要な会議となる。ここでの結果如何によっては今後の業績に大きく影響が出るので気を引き締めなければならない。
大丈夫。いつもどうりやれば何も問題はない。自分に言い聞かせるように心の中で呟いて、理人は気合を入れるように両頬を叩いた。
***
「あれ? お前は、今朝の……」
会議室へ向かう途中、若い男を連れた社長とばったり出くわした。今朝のと言われ思わず立ち止まり、理人は目を瞬かせる。
「なんだ知り合いか?」
「えぇ、まぁ……」
社長の問いに曖昧に答えながら、男がジッと理人を見下ろしてくる。今朝も思った事だがとにかくデカい。
190は軽く超えていそうな感じがする。何かスポーツでもしていたのだろうか。がっしりとした男らしい体つきをしている。さらりとした短めの黒髪に、ゾッとするような冷たい切れ長の瞳が印象的だ。年のころは瀬名と同じか少し上くらいだろうか。
「お前、名前は? 何処の課だ?」
「あ?」
男は理人の目の前まで来ると、まるで値踏みするように上から下へ舐める様に眺めて来て眉根を寄せた。明らかに不機嫌そうだがそれはこっちも同じだ。
朝っぱらから変態に絡まれて気分は最悪だし、その上何故そんな威圧的な態度で質問に答えなければいけないのだろうか。
「こら、一臣。初対面の人に失礼だろう」
不穏な気配を感じ取った社長が慌てて間に入って来た。
「悪いね鬼塚君。コイツは、私の甥っ子なんだ。今はまだ、研修中でうちの会社で色々学ばせてるんだよ」
「……甥? あぁ、そういえば似てるような……」
社長には、子供がいないと聞いている。岩隈が消えた後釜には弟が近々就任すると言う噂は理人の耳にも届いていた。
それに加え、甥を呼び寄せたという事は、会社の経営方針を叩き込んでゆくゆくはコイツに跡を継がせるつもりなのだろう。
「で? アンタの名前何?」
「……チッ、言葉遣いのなってねぇガキが……」
不遜な態度を取る桐島に思わず小さく舌打ちすると、苛立つ心を深呼吸で鎮めながら名刺を取り出し相手に差し出した。
研修中とはいえ社長の甥、という事はいずれ自分の上司になる予定の男だ。偉そうな態度が気に入らないからと言って喧嘩を売っていいわけがない。
「企画開発部の鬼塚です」
挨拶の意味を込めて差し出した手は握られることは無く、代わりにフッと鼻で笑われた。
完全に馬鹿にされている。
「それじゃ、今日のプレゼン楽しみにしているよ鬼塚君」
そう言って社長が去って行くと、続いて一臣と呼ばれた男も踵を返した。
去り際にチラリとこちらを見たその視線は、やはり理人を馬鹿にしているようでなんとも不快な気持ちになった。クソが。
絶対アイツを見返してやる! 去っていたドアを睨み付けながら理人は密かに闘志を燃やした。
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