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第1話

「合宿に入ったら、おまえに話がある」  最後の夏合宿になるな、という瀬名(せな)唯斗(ゆいと)の言葉に頷いてからためらったような間を置き、関本(せきもと)隆輔(りゅうすけ)はそう言った。  内面が表に出ないクールなポーカーフェイスはいつもと変わらなかったが、秘めた決意を覗かせる真剣な瞳が唯斗の胸を騒がせた。  ――1週間後の合宿まで待たなくとも、今言えばいいだろ。  そう軽く返すことがなんとなくできず、唯斗は波立つ胸を宥めながら、隆輔の男らしく整った美貌から目を逸らした。  運動部に所属する3年生は通常、秋の国大地区予選を最後に引退し、大学受験の準備に入る。唯斗達サッカー部員も例外ではない。早い者は一学期の終了を待たずしてすでに部活からは手を引いており、この夏休みに校内の合宿所で行われる夏合宿に参加する3年生は全員の半数にも満たなかった。  成績が常に上位の隆輔とは違い、中の上の位置に留まっているのをなんとか底上げしようと喘いでいる唯斗は、部活のない日は予備校通いを余儀なくされていたが、この高校生活最後の合宿だけはどうしても参加したかった。  引退するまではまだ部長だからという責任感も、もちろんある。だがそれ以上に、部を退いたら隆輔と話す機会がこれまでよりも減ってしまうということが最大の理由だと、本当はわかっていた。 「今度の合宿でちょっと新しいフォーメーションを試してみようと思うんだ。前話したろ? マサをトップ下に上げてカンタとテツのツートップでいく案」  横顔に注がれる隆輔の視線を痛いほど感じていながら、唯斗は涼しい顔で受け流す。見つめられるごとに体の奥に溜まっていく熱には気付かないふりで、ことさら明るい声で当たり障りのない話題を続ける。 「ヒロにも相談してみたんだけど、悪くないって言ってたし」  同じ3年生で部の戦略担当の頼れる参謀である池田広樹(いけだひろき)、通称ヒロの名を出せば、どんなときでも揺るがない隆輔の男らしい瞳が色を変えてくれないかと、あさましい期待をしてしまう。  だが、目の前の男は相変わらず憎らしいほどポーカーフェイスで、 「気が早いな。秋大までは俺達もいるのに」  と、感情のこもらない冷静な声で応じた。  この声を聞くといつも、互いの間にときどき流れる甘い切なさみたいなもどかしい感情は、すべて自分一人の錯覚なのではないかと思えてくる。隆輔はいつも冷徹で大人で、ほんのわずかな動揺も見せてくれない。  そのことに安堵し同時にどこかで落胆を感じながら、唯斗は秘かに息を吐き表情を取り繕った。 「俺達が引退した後のことも考えとかないと。俺の場所はマサにまかせるとして、おまえの後もコウタの他に、キーパーできるヤツ一人育てとかないとマズいだろ? 1年から誰か……な、何だよっ」  急に頬の辺りに向かって伸ばされてきた指に、唯斗は不自然なほど身を引きあわてて相手を見上げた。  隆輔はわずかに眉を上げおとなしく手を引き、「汗が」と言った。  過剰に反応してしまったことにばつが悪くなり、唯斗は拳で乱暴に額の汗を拭う。 「暑いんだよ」  隆輔のせいでもないのに八つ当たりじみた文句をつぶやく。  今日の最高気温も三38度、ニュースでは連日の記録的な猛暑をトップで伝えている。学校での夏期講習を終えての帰り道だ。そろそろ夕刻だと言うのにうだるような熱気は去らず、絶えず体を火照らせる。  ただ唯斗の体の奥に溜まるこの熱は、明らかに夏の暑さのせいだけではない。  いつから隆輔に触れられることを過剰に意識するようになったのだろう。ゴールを決めたときの喜びのスキンシップでさえためらってしまうようでは、周囲に変に思われるのもそろそろ時間の問題だ。 「ユイはあまり汗をかかないな」 「普通にかくよ」  照れくささをごまかそうとつっけんどんに答えた。  隆輔はいつもそうだ。  こちらを思い切り惑わせておきながら自覚なく、常に冷静で動じない。自分の気持を制御できず混乱し、みっともなく赤面することなど絶対にない。  隣の気配がいきなり離れたのを感じ、唯斗は思わず顔を上げた。  近くに来られると不安なのに、距離を取られると急に寂しくなってしまう。相手の一挙手一投足に、こんなにも一喜一憂してしまう。  本当に、どうかしている。  隆輔は道路脇の自販機にまっすぐ歩いて行くと、緑茶とスポーツドリンクのボトルを買って戻ってきた。 「ほら」  両方を突き出され、迷ってから、 「サンキュ」  と小声で言って、唯斗は緑茶を取る。受け取るときに一瞬だけ、指が触れ合った。  あわててキャップをひねり喉に流し込むと、触れた指先から微妙に上がった熱を爽やかな香ばしさが心地よく冷ましてくれる。  ボトルを傾け一気に空けていく、自分より十センチは上背のある相手をそっと見上げる。  端整だが甘さがなく、どちらかというと強面の印象を与える荒削りな美貌。意志の強さと思慮深さを併せ持つ切れ長の瞳は、唯斗といる今はリラックスして穏やかな光を湛えている。    健康的に日焼けした肌。逞しく盛り上がる肩から腕にかけてのライン。  スポーツマンのわりには細身であり色白で、神がことさら端整込めて作り上げた観賞用の美しい人形のような唯斗とは、何もかも違っている。  違い過ぎるから、見ていたいと思うのか。それゆえに、惹かれてしまうのか。  2年半、二人は部の中心メンバーであり続け、後半は部長と副部長として密な付き合いをしてきた。互いに隠し事など何一つないし、すべてを理解し合っていると思っていた。    それでも、まだ手が届かない部分がある。  壊れやすい繊細なガラス細工みたいなその部分に秘めた感情は、ちょっとした拍子に唯斗を惑わし甘い切なさを全身に巡らせたが、それが決して暴いてはならない禁忌のものなのだということはわかっていた。    合宿に入ったら話があると言ったときの隆輔の瞳は、それまで互いに避けてきた禁区に踏み入る決意をはっきりと伝えてきた。その真摯な眼差しを思い出し、唯斗は微かな動揺に胸を押さえる。    その話は聞いてはいけない。  聞きたくない。  聞いたところで自分には、聞かなかったことにするしかできないのだから。 「今年も、夏が来るな」  梅雨が明けて間もない空を澄んだ目で見上げ、隆輔が独り言のようにつぶやいた。  唯斗は空ではなく、隆輔を見ていた。  隆輔が自分を見ていないときは、唯斗はこうして彼を見ていられる。だから、隆輔にはいつもどこか遠くを見ていてほしい。  そうすれば、唯斗はずっと彼のことをみつめていられるのだから。

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