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第2話

‡《1日目》‡   寝苦しさに目を開けると、見るからに年季の入った茶ばんだ壁紙が目に入った。唯斗は布団の中でゆっくりと伸びをして、少し重たく感じる体を起こした。  古い合宿所の一室、てんでバラバラの向きに敷かれた布団に部の仲間3人が寝転がっている。片隅に置かれた扇風機は一応動いてはいるが、室内にこもった生ぬるい空気をゆるやかにかき回しているだけだ。  そこここに散らばる空のペットボトルやスナック菓子の袋を見て、昨夜この部屋に部の中心メンバーを集め、日付が変わるまで新フォーメーションについて議論を戦わせていたことを思い出す。消灯したのは確か2時過ぎだったが、神経が昂ぶっていたのと暑さのせいで唯斗はなかなか寝付けなかった。    入口近くに敷かれた布団を振り返る。そこに寝ていたはずの関本隆輔はすでにいない。  昨夜も白熱する議論のぶつかり合いを時には宥め、的確な判断で有効な意見を口にしながら、「もう電気消すぞ。いい加減に寝ろ」と消灯まで仕切って最後に床に入ったはずなのに、今朝は誰よりも早く起きて走りに行っているのだろう。  唯斗からはもっとも遠い位置に陣取った布団。深い意味はないのかもしれないが今の二人の微妙な距離が表れているように感じ、失望と安堵の両方から唯斗は秘かに溜息をつく  合宿は今日が2日目だ。話したいと言っていた件も、まだ持ち出される気配はなかった。  朝っぱらからうだうだと、私事で思い悩んでいる時間はない。  唯斗は一つ深呼吸し、壁の掛時計を見て驚いた。もう7時半を回っている。  あわてて飛び起き寝汚い仲間達の脚やら何やらを容赦なく踏み付けながら窓に進むと、一気にカーテンを開け放った。眩い夏の光が東向きの窓から容赦なく降り注いでくる。  背後で睡眠不足の仲間達から、次々と非難の声が上がった。 「眠ぃ~! あち~!」 「部長人でなし~! せめてあと5分……」 「人でなしで結構。俺はおまえらの優しいママじゃないんだからな。ほら、とっとと起きて布団上げて、着替えて顔洗ってメシ行く! あ、その前にこの部屋の片付けな」  うぇーとかぎゃーとかいう声を笑って聞き流し、唯斗も自分の布団を片付けにかかる。ブツブツ言いながらもおとなしく起き始めた連中も、かったるそうにそれにならう。 「ユイさん、リュウさんは? どこ行ったんですか?」  小柄でリスみたいな小動物系の顔だが瞬発力は新入部員一のテツこと下田(しもだ)哲也(てつや)が、表情豊かな目をクリクリ動かしながら聞いてくる。哲也はクールで男らしい鉄壁の守護神のファンなのだ。 「走りだろ。あいつの日課だから」 「うちらの守護神ちょっと元気すぎでしょー。昨夜の今朝でよく走れんね、あいつ」  同じ3年でディフェンスの要を任されているカズこと岩倉(いわくら)和彦(かずひこ)が、まだ布団の上に胡座をかいたまま脱色した髪を眠そうにかき上げる。  その髪の色や両耳に開けたピアスの穴は真面目な生徒の多い進学校では当然目立って、生活指導の教師や風紀委員の格好の標的となっていたが、本人はどこ吹く風と自分のスタイルを守っている。  不良っぽい見かけに比して気さくなムードメーカーで、後輩の悩みを真摯に聞いてやる面倒見のいいところもあった。 「諸君、そろそろ起きたかな?」  部屋の襖を開けて顔を覗かせたのは、和彦と並んで主要ディフェンダーの池田(いけだ)広樹(ひろき)だ。  ソフトなマスクは体育会系というより、知的文化系といった方がイメージ的にはしっくりくる。インテリ風の容貌に見合って頭の回転は部内随一だが素行は見てくれほどよくはなく、自他共に認めるプレイボーイの遊び人だ。優美で穏やかな美形だがどこかブラックな影も感じさせるところが女心をくすぐるらしく、繊細で品のある容貌のいわゆる正統派王子系の唯斗や、硬派で男性的な美貌の隆輔とはまた違ったタイプの女子ファンが大勢ついている。    博愛主義で誰とでも仲良く争わずがモットーの広樹は、なぜか一方的に隆輔をライバル視しており、何かというと突っかかる。敵視するなら同じディフェンダーの和彦の方ではないかと思うのだが、なぜ隆輔なのか、その理由には唯斗も薄々気付いていた。 「ユイ、おはよう」 「ああ」  自分だけに特別に向けられる甘さのこもった挨拶を、唯斗は露骨に視線を逸らし受け流した。 「ヒロ、おまえ昨夜どこ行ってたんだよ? トイレに行くとか言って、そのまま消えてそれっきりで」 「俺がいなくて寂しかったとか?」  強引に前に回られ背けた視線を捕らえられ、唯斗は眉を寄せる。  他の部員のいる前で、たとえ冗談でもこういう妙なアプローチをされるのは困る、と厳しい眼差しに乗せて軽く睨むと、相手はおどけたように軽く手を振った。 「そんな怖い顔しないでくれよ。隣の部屋で一服してたんだ。いつのまにかそのまま寝込んじゃったみたいで」 「一服? 合宿所の中でそんなこと……」  いきり立つ唯斗に、広樹は苦笑で軽く肩をすくめる。 「大丈夫だよ、バレないから。リュウじゃあるまいし、堅いこと言わないで」 「ヒロおまえよー、合宿所の中はマズイだろ。匂いが残るから外で吸えよな。所内で吸殻でもみつかったら、俺が一番先に疑われるんだって」  的外れな文句を言う和彦に深く嘆息し、唯斗は甘い視線を送ってくる広樹の目を見ないようにしながらその背を押した。 「片付けは俺達がやっておくから、ヒロは食堂の方へ先行ってくれ。もうみんな集まってるかもしれないから。カズもだ」  なかなか腰を上げようとしない和彦をも、無理矢理引きずり起こし追い立てる。 「わかったわかった、あーもう、押すなって。え~、メシは8時からだっけ?」  和彦が寝巻き代わりのジャージ姿のまま大あくびをしながら部屋を出て行く。 「ユイ、また後で」  と、軽く手を上げ微笑を残していくその後姿を見送り、唯斗はホッと息をついた。  別に、広樹に直接好意を告げられたわけではない。だが注がれる眼差し、言葉の端々に、ただの冗談で流すには熱すぎる温度を感じてしまうのだ。  そしてそのたびに意識してしまうのは、隆輔のことだった。  唯斗が広樹にあからさまに言い寄られていることは、隆輔も気付いているはずだ。それについて相談したことなどもちろんないが、本当はいつも気になっていた。  自分と広樹のことを、隆輔は一体どう思っているのだろう。 「ユイさん」  いきなりかけられた声に、ぼんやりともの思いにふけっていた唯斗はハッと顔を上げる。布団とそこら中のゴミを一先に片付け終わった、機敏な哲也が手を上げていた。 「自分ちょっと朝ごはん前にコンビニに買い出し行ってきていいですか? スポドリとか切らしてるんで」 「おう、頼んだ」  フットワーク軽く出て行く哲也を見送ってから、唯斗は両手で頬を叩き気合いを入れ直した。  手早く練習用のユニフォームに着替えると、眠そうな顔で空き缶をゴミ袋に放り込んでいる2年生の富山(とみやま)(まさる)を振り返る。 「マサ、悪いけど後いいか?」 「了解っス」  相手が笑顔で親指を立てるのを確認し、部屋を出る。  広樹と和彦を先に行かせたはいいが、やはりどうも心配だ。ゴーイングマイウェイの彼らが、 「今日の練習は午後からでOK。それまで各自自由な」  などと、ろくでもない指示を出してしまわないとも限らない。  隆輔がそろそろ帰って来てくれているといいのだが。

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