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絆 17

「お父さん、すぐに戻ります。ここで待っていて下さい」 「あぁ、気をつけて」  想は一呼吸置いて、優しい微笑みを返してくれた。 「はい!」  想はもういい大人なのに、妙な不安に駆られる。  この胸のざわつきは何だろう?  そもそも忘れものなど、本当にあったのか。  私の私物は必要最低限で、想も何度も確認してくれたのに。  とても嫌な予感だ。  それに、あの声には聞き覚えが。  あっ! そうだ、私の介助をしてくれていた病院スタッフだ。  背筋がぞわりとしてくる。  あの男は、明らかに想に性的な関心を持っていた。  まずい! 想が危険だ!    そう思った瞬間、私は想を守るために駆け出した。  いや……  駆け出したのは心のみで、身体は不様に地面に転がっていた。  足が動かなかった。  麻痺したように痺れている。  かつてボールを抱えてグラウンドを駆け抜けた私の足が、全く役に立たない日が来るなんて……激しい絶望と焦燥感に襲われる。 「ううっ……想っ! 想っ、戻って来い!」  身動きが取れない身体が恨めしく、悔しくて地面を拳で叩いていると、グイッと身体が起こされ車椅子に戻してもらえた。 「えっ」 「お父さん! 大丈夫ですか」  懐かしい声がした。  私をお父さんと呼ぶ、逞しい手の持ち主は……   「駿くん! 想を……想が危険だ! 正面の建物の208号室だ」 「分かりました!」  駿くんがひらりとコートを翻して、一気に駆けだしていく。    すごいスピードだ。  まるで往年の私のように風を斬って駆けていく。    彼は想を助けてくれる! 守ってくれる!  最愛の息子の笑顔を守ってくれる人だ。 **** 「想、お父さんの所に戻ろう。心配していたよ」 「お父さんが……」  項垂れる想の手を引いて歩き出すと、悔しそうな顔を浮かべて立ち止まってしまった。 「どうした?」 「……悔しいんだ」 「悔しい?」 「まさかあんな風に動きを封じられるなんて。男なのに何も出来なかった。こんなの……情けないよ」  唇を噛みしめる想の気持ちが、痛い程伝わってくる。 「想は何も出来なかったわけじゃない。ちゃんと毅然とした態度を取っていた」 「……でも、あのまま駿が来てくれなかったら……どうなっていたか」 「でも俺は来た。想もちゃんと俺を呼べた。この結果だけじゃ不満か」 「でも……しゅーん」  想がふわりと抱きついてくる。 「僕は……ひ弱だ。もっと丈夫に強くなりたいのに……持って生まれた体質は厄介で、どんなに気をつけても、どんなに頑張っても……変わらないんだ」  男なのに男に襲われそうになる口惜しさ。  想の男としてのプライドをひしひしと感じた。   「そんなことない。想、よく聞け。サッカーのチームプレーを思い出せ。何のためにいろんなポジションがあると思っているんだ?」 「……僕の……ポジションもあるの?」 「あるさ! 想はパスが得意だ。想は人と人を繋ぐ『絆』というボールを上手にパスしてくれる。今日だって俺にちゃんとパス出来たじゃないか。 パスの精度や技術が高い選手をパサーと言うんだよ。想はまさにパサーだ!」 「駿は誉め上手だね。そうか……そういう風に考えると救われるね」  想がようやく微笑んでくれた。 「俺もひとりでシュートは決められない。想との連係プレイのおかげだ」 「駿の言葉はいつも僕を持ち上げてくれる。さっきはごめん。自分を卑下して……」 「想はいい男だ。俺が保証するよ!」 「しゅーん、だから大好きだ」  想からの甘いキス。  それから俺の手を引いて窓辺に向かい、窓から身を乗り出して手を振った。 「お父さん! 今、戻ります。僕は無事です!」 「あぁ……想……良かった……駿くんありがとう」  想のお父さんは祈るようなポーズを取っていた。  人生は何が起こるか分からない。  お父さんが銃で撃たれてしまったように、想も一瞬の隙をつかれた。  だからこそ絆を深めて生きていきたい。   ****    もう機体は雲の上だ。  無事に離陸して、安堵した。  お父さんは空港の雑踏に疲れたのか、座席に着くとすぐに眠ってしまった。  こんな風にお父さんの寝顔を見守ることは、今回の入院前まではなかった。  僕はお父さんの手にそっと触れて、そのぬくもりを確かめた。  この手に僕はずっと守ってもらった。  大切に育ててもらった。  お父さんの息子で良かったです。  お父さんが生きていてくれて良かったです。  ありがとうございます。 「駿、毛布をもう一枚借りてもらえるかな」 「あぁ」  お父さんの胸元まで毛布をかけてあげた。  それから僕も毛布を膝にかけて、もう1枚は駿と僕を跨ぐようにかけた。 「駿、中で手……繋ごうか」 「おぉ、いいな」  ぎゅっ……  指を1本1本絡めて握ると、じわりと愛情が溢れてきた。 「駿、迎えに来てくれてありがとう」 「これがしたかったんだ」 「一緒に帰るんだね」 「そうだ。この先、俺たちはいつも一緒だ。初恋前線は、また活発になる」 「うん!」  久しぶりの甘い触れ合いに心がときめいていく。  空はどこまでも淡いピンク色に染まっていた。 「俺たちの色だな」 「……初恋色だね」                                                『絆』 了     

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