1 / 1

ヒート真っ只中(ピークは越えた頃)の話

 卓袱台の前に胡坐をかき、イヤホンを挿して音楽を聴きながら宿題をしていた。厚く雨雲がかかり、昼だというのに外はどんよりとしていて薄暗い。  すぐ後ろで小谷が動いた気配がした。のっそりと身体を起こし、布団の真ん中に座ってぼんやりとしている。 「おはよ、小谷。身体大丈夫そ?」  イヤホンを耳から外しながら振り返ると、小谷はうん、と虚ろに返事をしながら、首の後ろを掻いた。小谷のうなじには、昨晩新垣が付けた傷がある。今朝見たらかさぶたになっていたので、傷が酷くならないように傷パッドを貼っておいた。痒いのにうまく掻けず、小谷は露骨に不機嫌を顔に出した。 「風呂入ってくる」  よろよろと立ち上がると、やや不安定な足取りで風呂場へ向かう。掛けてあったタオルケットが落ち、露になった瘦せた白い素肌に残る情事の後が生々しい。 「待って小谷、俺も行く」  心配だったので宿題を切り上げて小谷の後を追った。  ヒトには男女の他にアルファ、ベータ、オメガの性があるらしい。新垣は男アルファ、小谷は男オメガにあたる。新垣と小谷は番いの関係にあった。  番とはなにか。まだ分かっていないことも多く、一言で説明するのは難しい。番いは性交中にアルファがオメガのうなじを噛むことで成立する。噛まれたオメガのうなじには、アルファの歯形が残り生涯消えることはない。オメガは発情期を迎えると、フェロモンを出して不特定多数のヒトの発情を誘うが、番いができたオメガのフェロモンは番いのアルファにしか効かなくなる。ヒートの周期は3カ月に1度。現在、小谷はヒートの真っ只中にあった。  一人暮らし用の狭いアパートの浴室で、小谷は風呂椅子に座ってうつらうつらしていた。やはり、ついてきて正解だった。シャワーを手に取り、水とお湯の栓を捻って温度を調整する。少々温めの温度になったことを自分の手で確認すると、今にも眠りそうな小谷に声を掛けて髪を濡らした。髪を洗ってやる間に、浴槽に湯を溜める。泡を落とすのは、浴槽に溜まった湯を洗面器ですくって使った。リンスが終わるまでの間に、新垣の服はびしょ濡れになった。 「新垣」 「ん?」 「腹減った」  湯が半分ほど溜まった浴槽に身体を沈めた小谷は、相変わらずぼんやりと眠そうな顔をしている。新垣はどうせ今更だと、小谷が使っていた濡れている風呂椅子に腰を下ろして浴槽の縁に腕を乗せ、小谷が眠らないように見張っていた。 「冷凍のたこ焼きがあるけど、それでいい?」 「うん」 「わかった。用意しておくからそのまま寝るなよ」  小谷の傍を離れるのは正直不安だったが、そろそろ限界だった。昨日より随分マシになったとはいえ、ヒート中の小谷からはフェロモンが漏れ続けている。狭い密室に長時間一緒に居たら、また気が狂って何をしでかすかわかったものではない。  昨晩、ヒートを迎えた小谷を抱いた。セックスしている間の記憶は曖昧で、気が付くと朝になっており、自分が小谷に付けた歯型や痣を見て愕然とする。そんなことを何遍と繰り返してきた。いつか小谷を壊してしまうのではないかと、漠然とした不安が常に付き纏っている。  びしゃびしゃになった服を着替えた後、冷凍庫から出したたこ焼きを皿に乗せ換え、袋に記載された通りの時間電子レンジで温めた。その間に卓袱台の上を片付け、レンジが鳴ったら中身を取り出して卓袱台の上に用意した。 「新垣、服借りていい?」 「うん」  小谷が風呂から出てきたのは、ちょうど準備を終えた時だ。洗面所がないから仕方ないものの、小谷は新垣の気も知らず全裸で出てきてバスタオルで身体を拭いている。新垣はなるべく小谷の方を見ないようにシンクの下を漁った。確か、フリーズドライの味噌汁があったはず。味噌汁は、シンク下のかごの中に収められていた。ひとつ取り出してやかんでお湯を沸かす間、着替えを済ませた小谷が卓袱台についてたこ焼きを食べ始めていた。  コンロの前で火の番をしながら、小谷が食べている様子を眺める。風呂を出てから幾分か目が冴えているように見える。ヒート中の小谷が覚醒している時間は短く、ヒート中の大半の時間は睡眠に充てられ、起きている間はぼうっとしているか発情しているかの場合が多い。小谷が言うには、ヒート中はずっと夢の中にいるような感覚だそうだ。ふわふわして気持ち良く、覚めてみるとどんな夢だったか思い出せない。そんな感覚らしい。  沸かした水が少量だったため、すぐに沸騰した。コンロの火を止め、フリーズドライの入ったお椀に湯を注いで小谷に出した。小谷が食べている姿を見ていると小腹が空いて、たこ焼きをひとつ分けてもらった。元の位置に戻って咀嚼していると、小谷がこちらを睨んできた。新垣が隣に座らなかったことが気に入らないのだ。コンロの近くでは換気扇が回っており、シンクの前の小さな窓も開けている。小谷のヒート中はフェロモンが充満するので、換気が欠かせない。従って、新垣の定位置はベランダの窓際かシンクの前になる。  雨の音がする。シンクにもたれかかったまま、首だけを窓の外に向けた。先程の天気予報では、一日中雨の予報だった。今日は少し肌寒い。新垣、と呼ばれて、ん? と軽く返事をしながら小谷に向き直る。 「ちんこ見せてほしい」 「は?」  ぽかんと口を開けたままフリーズする。小谷から見たら、さぞ間抜けな顔をしていたに違いない。平素の小谷は潔癖というか、下ネタを毛嫌いしている節がある。それがなぜ、急にそのようなことを言い出したのか皆目見当がつかない。正気を疑ったが、真っ直ぐこちらを見る目は真剣で、正気だった。 「なんで? どうして急にそんなこと」 「そういえば今までちゃんと見たことなかったと思って。ヒートになると訳わかんなくなるから」 「人のちんこなんてちゃんと見るものじゃないだろ」  そうなんだけどさ、と小谷は尚も食い下がってきた。いいですよ、と簡単に見せれるモノではないが、小谷が言うのなら、と思ってしまう。 「じゃあ、それ食ったら……」  簡単に見せれるモノではないが、もったいぶるほどのモノでもない。とはいえ、小谷が食べている目の前でズボンを脱ぐのはなんだか違う気がする。とにかく、おかしなことになってしまった。  小谷がたこ焼きを平らげ、味噌汁をすする間、空いた皿を回収して洗い物を始める。味噌汁を空にした小谷が流しまでお椀を持ってきた。  お椀を受け取って、スポンジで洗い始めた時だ。小谷が新垣の背中にひっつき、腹に腕を回した。 「ちょっと、小谷、離れて」  反抗するように小谷の腕の力が強くなる。小谷がぐりぐりと新垣の背中に額を押し付け、匂いを擦り付ける。密着してわかることは、小谷の下半身は反応していない。小谷にとってはただのスキンシップだということだ。過剰反応して大袈裟だという思いもあるが、実際背後から小谷の甘い匂いがしている。  フェロモンの匂いは、どうやら小谷の体調や機嫌によって微妙に変化するようだ。今はほのかな甘い匂いがしており、機嫌がいいようだ。  皿一枚とお椀が一つ、箸が一膳、コップ2つを洗って水切りかごに収め、備え付けのタオルで手を拭く。その間、ずっと振りほどけずにべったり小谷が背中に貼り付いていた。 「とりあえず髪乾かすか」 「約束」  返事に詰まる。小谷が忘れていてくれていたらどんなによかったか。返事の代わりに、はー、と長く息を吐き、息を吸うタイミングで覚悟を決めた。腹の前で組まれていた小谷の腕を外し、正面に向き直る。ズボンのゴムに親指をかけ、下着ごと膝の位置までずらした。 「これでいいか?」  一体これは何のいじめだろう。小谷に下半身を凝視されている。実際は数秒だったのだろうが、随分と長い時間に感じられた。気を逸らすために窓の外に目を向けるが、小谷の視線が股間に突き刺さっているのを感じる。  自分の意思に関係なく、ぴくりと股間が反応した。ぐぐぐ、とゆっくり頭をもたげる。 「はい、もう終わり」  サッとズボンを引き上げるが、下着の中で勃起していることはバレているだろう。小谷の顔が直視できない。新垣の顔は、羞恥のために真っ赤になっていた。  トイレに逃げようとしたら、小谷に手を掴まれた。 「挿れていいよ」 「……はぁ!?」  喉から間の抜けた情けない声が出た。そして、小谷を振り返って少しの間フリーズする。  ようやく直視できた小谷は、少し顔を赤らめて俯かせていた。何て言葉を掛けたらいいのか分からない。 「昨日シたのじゃ、足りなかった?」 「そういうわけじゃない。気を悪くしたなら謝る」  小谷の手は離れたが、新垣はその場に立ち尽くした。何て声を掛けたらよいかわからない。ちんこを見せろだの挿れていいだの、普段の小谷からは想像もつかない。 「じゃあ、なんで?」  少し考えて小谷が口を開く。 「ただ挿れてほしいと思った。それだけじゃだめ?」 「……だめじゃないよ。布団に戻るか」  正直、複雑な気持ちだった。恋人が予想外にエロいのは、新垣も例外ではなく男子高校生にとって嬉しい誤算だ。だが、小谷の言動には何か別の意味があるような気がする。  雨の音、布が擦れる音。粘膜が擦れ合う音。荒い吐息、心臓の音。テレビは付けていない。畳に敷かれた布団の上で小谷に覆い被さりキスをした。 「小谷、すっげぇ甘い匂いする。また自制効かなくなったらごめん」  昨晩でだいぶ薄くなった匂いがまた一段と濃くなった。くらくらする頭で、本能的にTシャツを脱いだ。ヒートに中てられて、内側から身体が熱くなっていた。それは小谷も同様だったのだと思う。息を荒くして、顔を火照らせていた。小谷の服も脱がせようかと思ったが、やめた。小谷が着ているのは新垣のTシャツで、自分で裾を捲り上げて匂いを嗅いでいた。ふっと新垣の表情が緩む。 「こっちも要る?」  脱ぎたてのTシャツを渡すと、小谷が顔の前でぎゅっと抱きしめた。その姿が愛おしくて頭を撫でた。髪が濡れている。そういえば、タオルで拭いてそのままだった。  無防備に曝け出された胸に顔を寄せる。白い肌の、ツンと尖ったピンク色のそこに舌を這わせた。 「んや!」  ビクリと身体を震わせながら小谷が可愛い声を上げる。新垣は構わずに乳首を舐めながら、反対側の乳首を軽く指でつまんだ。 「にいがき、それやだ」 「んー?」  ちゃんと聞こえていたが、聞こえないふりをした。乳頭を軽く爪で引っ掻きながら口を窄めて乳を吸う。当然何も出てこないが、舌に当たる小さくて固い肉の感触はクセになる。  小谷がぐったりした頃、渡したTシャツを強引に剥ぎ取りキスをした。手が小谷の下半身に伸び、小谷の口の中を舐めながらズボンと下着をずらしていく。小谷は新垣の頭に両腕を回し、肩幅に足を開いて膝を立て、新垣を受け入れるポーズを取った。  新垣の手が股の間に入る。小谷が一瞬身体を固くした。 「あっ、あっ、んっ……はぁ」  小谷のナカは柔らかくて、熱くて、愛液で満ちてぐずぐずになっていた。小谷の顔も、涙と汗と唾液でぐちゃぐちゃになっている。 「にいがき、指なくていいよ。もう挿れて」  小谷の懇願を無視して耳の裏にキスをする。指を増やし、内側を擦る。そのうち、小谷が息を詰めて射精した。 「はぁ、はぁ」  小谷のナカから指を抜き、無意識に手に付いた小谷の体液を舐めた。完全に意識が持っていかれており、味はわからなかった。全て舐めとると、ぐったりしている小谷に目を向けた。 「小谷、手貸して」 「手?」  ぽやんとした目で首を傾げながらも、小谷が右手を差し出した。自分のズボンをずらし、小谷の手首を掴んで自分の性器を握らせる。小谷の隣に寝そべり、小谷の手を借りて自慰をした。 「挿れてもよかったのに」  新垣が射精を済ませて手を拭いていると、小谷が不満げに声を上げた。 「昨日の今日で身体辛いだろ? それより、風呂の湯は抜いてないよな?」  自分の手を拭くと、今度は小谷の手を取って同じように拭いた。 「そのまんまだけど」 「じゃ風呂入ろ。小谷、動ける?」  小谷は何か言いたげな顔で新垣を睨んでいたが、やがてのっそりと身体を起こした。  風呂の湯を洗面器で汲んで掛け湯をし、狭い浴槽にふたりで身体を沈めた。新垣が足を広げ、小谷がその間に収まって新垣の肩に頭を預ける。古いアパートの設備に追い炊き機能はない。お湯と水の蛇口を捻り、温度を調整してお湯を足した。 「小谷、さっきから機嫌悪いな。どうした?」 「さっきの、新垣はあれでよかった?」  あれとは。新垣は首を捻り、すぐに思い至った。挿入なしで手コキで済ませたことを指しているのだろう。 「ああ、うん。よかった。ありがとう」 「こんなこと言ったら新垣は怒るかもしれないけど、俺は新垣の役に立ちたかった」  再び新垣が首を捻る。 「えーっと、役に立つって何? どういうこと?」  何でもない、と小谷が素っ気なく答え、会話が終了する。  小谷が自分はセックスでしか役に立てていないとか考えていたらどうしよう。  なんとなく話が噛み合わないのは恋愛観が異なるからだと思う。小谷を意識したきっかけは番いになったからに他ならないが、今はちゃんと恋愛感情で小谷を好きだと胸を張って言える。しかし、小谷はどうだろう。小谷には、恋愛感情が抜けているんじゃないかと思う時がある。オメガだからアルファと番いになる。番いだからセックスをする。小谷の思考はこれで完結している気がする。その是非は新垣が判断するものではない。ただ、セックスすることでしか自分の価値を見出せていなかったのだとしたらそれは哀しいと思う。 「新垣、何で黙ってるの? 怒った?」  小谷がこちらを振り返った。物思いに耽っている間に不安にさせていたようだ。 「ん、いや。考え事してただけ」 「挿れてって言ったのは、ヒートの時のこと全然憶えてないから、ちゃんと憶えておきたかったから。あと、昔のこと忘れさせてほしかった」  前に向き直った小谷を後ろから優しく抱き締めた。それはまた今度な、と言うと、うん、と小谷が返事をした。抱きしめた腕に、小谷の手が添えられる。  さっきはまだ、窓が開いていたからギリギリ己を保てたのだ。もっと匂いが充満していて、ヒートの時のようなもっと濃い、ねっとりした絡みつくような匂いだったら小谷の望む通りのことをしていたと思う。そうしなくて正解だった。  小谷の過去を思うと堪らない気持ちになる。ただ今は、腕の中の番いに優しくしたいと思う。

ともだちにシェアしよう!