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第1話 王太子の秘密

「ひい様、まあなんて可愛らしい!」 「かわいいですわぁ……」 「姉宮様のお見立てはさすがでしたっ」  お付き女官の紅玉、木蘭、春麗に代わる代わる賛辞され、儚那(はかな)は恥ずかしそうに頬をかいた。  儚那の月に一度の外出のためにと、八つ年上の姉宮が贈ってきたのは唐風の女の衣装。  小柄な体をくるぶしまですっぽりと覆う生地は桃色で、裾の先から翡翠色の裳が揺れている。  木蘭色の長い髪には桃花を模した髪飾りが華を添え、まだあどけない色白の肌にぷっくりとした薄紅の唇が綻んでいる。長すぎる袖口からは指の先がちんまりと見えていた。  ほうっ、と女官たちがため息をもらした。  どこからどう見ても可憐な少女にしか見えない。心身共に女と自覚する自分たちより遥かに愛らしい姿なのに、その体が男であることなど、いったい誰が看破できようか。  にこっと笑んで、お気に入りの籐椅子に掛けた儚那は格子窓の向こうに目を遣った。  月虹(げっこう)国を統べる琉王(りゅうおう)家の王太子、つまり王位継承者である儚那(はかな)は今年で数え十六になる。  恵まれた立場ながら、少し前までの儚那は宮廷から遠く離れた離宮で隠されるように生きてきた。  というよりも、はっきりと隠されていたと言っていい。  理由は儚那の生来の体にあった。     琉王家の跡取りは代々優れたαか、やや見劣りしてもβ、或いはその他の男児と決まっているのに、第一夫人の嫡男たる儚那の体はあろうことか希少種にして最劣等のΩ。  男女ふたつの性を併せ持ち、子種を持たない代わりに妊娠できる体だという特異さゆえに父王に疎まれ、第二夫人が産んだ次男が王太子に据えられたが、その次男が去年の暮れに流行病で身罷ってしまった。    次男の他に男児は儚那しかいない。  そのうえ現王と犬猿の仲の王弟が、取り巻きの側近らを抱き込み、自らを次の王位継承者に据えよと名乗りを挙げた。  長らく覇を競う弟に玉座が渡るくらいならばと、王はしぶしぶ離宮の儚那を王宮に呼び寄せる。  幸い儚那がΩであることは、王が信を置く僅かな者しか知らされていない。対外的には儚那はごく一般的な男児であるとして、この春、正式に王太子として迎え入れられたのである。 「素敵なお出かけになるといいですわ」 「なるに決まっているわよ、きっと誰もがひい様を振り向くもの」 「当たり前よ、私のひい様よ」 「ああ本当に可愛らしいこと……」  森の奥深くに息づく離宮時代から世話を焼いてきた女官たちは、みな儚那を姫様、ひい様と呼んだ。  特に儚那の体がΩであることを知る、二、三年上のお付き女官たち──背の低い順に紅玉、木蘭、春麗にかいがいしく世話を焼かれ、儚那はまるで王女のように何不自由なく暮らしてきた。  父王に疎まれ、秘密を抱えながら王太子に立たされた今でも、儚那には特別の不満はなかった。  ただ──。    儚那は、もう何度も読み返した書物をぎゅっと抱きしめた。  強いて、ただひとつだけ満たされぬ思いがあるとするならば、この書物の中に描かれる恋というものを、知ってみたいということ。  そしてその願いは、女官たちとのふれあいの中には見い出せない思いなのだ。 「お支度は整いましたか」   落ち着いた低い声とともに堅牢な扉が開いた。  あちら側に立っていたのは、これも離宮時代からの付き合いである四つ年上の男βの側近、蘇芳(すおう)である。  蘇芳は勝手知ったるの風情でつかつかとこちらに歩み寄ったが、新しい衣装で着飾った儚那を見るや、急にドギマギと赤くなった。 「姉宮様のお見立てなのですって。ね、蘇芳様も可愛いとお思いになるでしょう?」  童顔の紅玉に無邪気に問われ、蘇芳がぎこちなく言葉を絞る。 「そ、う、ですね。ええとても、その、お似合いでらっしゃるかと……」 「まあ蘇芳様ったら」 「声がうわずってらしてよ」 「ほんとうに」  お揃いの女官服に、二つのお団子頭を揺らして、くすくすと女官たちが笑い合う。  蘇芳はちょこんと座り込む主に手を伸べた。儚那がその手に指先を載せると、ぐいと引き寄せて扉の外に誘い出す。  女官たちがきゃあきゃあと色めき立った。 「外は危のうございますゆえ、私から離れてはなりませぬぞ」  儚那の利き手を包み込む蘇芳の掌は熱かった。  後宮の広い廊下を、皆でかたまって歩いていく。  儚那はチラリと蘇芳を盗み見た。  後宮に仕える男といっても蘇芳は唐国にみられるような宦官ではない。  断種などという惨たらしい刑罰を与えなくとも、信頼に足る者たちばかりを備える自信が月虹国にはあるからだ。  それは儚那だって、容姿も所作も美しい蘇芳は好ましい。家柄こそ華々しくない下級官吏の子息ながら、蘇芳は文武に秀で、月虹国で最速の颯人(はやと)馬もよく乗りこなす。  ことに馬上戦で剣を競う姿は月虹国にこの人ありと謳われるほどの武人であり、離宮時代はそのありあまる武才のために、王宮と離宮を行き来する多忙な生活を送っていた。  けれど足首まで覆い隠す青藍色の官服をすっきりと身に纏い、肩に届かぬ黒髪をかき分ける指の隙間から、眼鏡(めがね)越しに覗くつり目は大海を閉じ込めたような深い藍色。  物静かな美しい文官。それが蘇芳を見た者の、主なる第一印象だ。  女官の中には蘇芳に思慕する者もいるし、儚那だって蘇芳は素敵だと思う。思うけれども、物語の二人のように身を焦がす恋には遠い、幼い思いだった。 「その服」 「えっ?」  ふいに眉をひそめた蘇芳がこちらを向いた。 「肌がその、出過ぎてはいませんか」  言いにくそうに口元を隠す。  儚那は慌てて自分をかえりみた。言われてみれば確かに、姉宮からの衣装は胸元の合わせ目が大胆かもしれなかった。 「ただでさえひい様のお体は、はちみつ漬けの果実のように甘い香りがするのですから。それでは余計に虫を寄せ付ける……」  あまつさえ希少種のΩの体で、αにでも遭遇したらどうなさるおつもりか。そう続けたそうな心配性の視線が揺れる。  今度は儚那が赤くなり、俯いて真っ白な胸元に手をやった。はちみつ漬けの果実のような。などと言われると、酷く恥ずかしくて落ち着かない。  胸元はすぐに暖かくなった。蘇芳が自らの首巻きを解いて、儚那の肩に掛けたからだ。 「……ありがとう」 「風もまだ寒うございますゆえ」  背後できゃああっと女官たちの歓声があがった。  鳥かごの後宮からようやく外に踏み出すと、眩しい春の陽射しが儚那の靴をきらきらと照らした。

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