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第75話 終話
その後のことは、あまり覚えていられなかった。
目を疑うことをされた気がしたが、断片的な記憶しか浮かんではこない。
朝か夕べか、それすらもわからない薄暗がりの群青の中で、儚那はぼんやりと目を覚ました。背中に布団ではないものの感触がする。
「起きましたか?」
その背から声がかかった。後ろから抱きすくめられたまま眠っていたらしかった。
「のど」
「え……」
「乾いたでしょう。水差しを取って参りますよ」
「そん、──自分で、取るよ」
「……立てないと思いますよ?」
「えっ?」
言われてみると、確かに手足のどこにも力が入らない。体力を根こそぎ使い果たしてしまっていた。
「すみません。少々、やり過ぎました」
「しょ、……」
少々? かなりの間違いではないだろうか。
襟元から覗く自身の肌に、無数に残る吸い痕を見てそう思った。
寝台から降りた蘇芳が水差しを取り、音もなく杯に注ぐ。その水を受け取ってひとくち口をつけると、ここが砂漠であるかのように甘く美味しく感じられた。
ひどい喉の渇きに気付いてごくごくと一気に飲み干すと、欲しいと言う前におかわりが注がれる。
役目を終えた水差しを棚に置いた蘇芳が、カタリと窓の格子を上げた。
「ご覧なさいませ」
声につられて外を見れば、豊かな満月が青白い月虹に囲まれていた。
「……きれい」
「本当に」
戻った蘇芳はまた元のように儚那を抱きかかえ、寝台に入った。
背から感じる体の感触はまだ慣れなくてぎこちない。けれど頼もしくて、温かかった。
「蘇芳」
「なんです?」
「私、国王になって、分かったことがある──」
「うん?」
「国を守るって、どういうことなのかって。大切な……一番大切な人に、命を賭けよと命じなければならないくらい、厳しい時もあるのだって」
「ひい様……」
後ろから回された腕がぎゅっと儚那の肩を抱いた。
「そう、思ったら、父のことが思い出されて──」
「先王のことを?」
儚那は硬い腕の中でこくりと頷いた。
「父にはずっと、疎まれてばかりだと思ってた。でも子供の頃、母の葬儀のあとで泣いていた私を、父がたった一度だけ肩車してくれたことがあった。そうしてシュロの森よりも、遥か先の海を、広い世界を私に見せて下さった。私に笑いかけて下さった」
「そう、──そんなことが……」
「ずっと忘れていたのに、この頃父のことを思うと、あの時のことばかりを思い出すの。私を疎んでおられたとしても、それでも──」
「ひい様……」
「それでも、私にも、愛された瞬間はあったのだって──そう思っていても、良いと思う……?」
肩に回された腕に手を触れ、確かめるように抱き寄せた。
「ひい様。その、こんなことは言うべきではないと思っておりましたが──もしも先王が心からひい様を疎んでおられたのら、ひい様は生まれてすぐに殺されていたのですよ。それを危険を冒してでも隠して、生かす道を選ばれた。愛情がなくては、できぬことであったはず」
「本当に? 本当にそう思う?」
首だけを向けて問うと、
「はい」
にっこりとした笑顔が返った。
儚那の目の奥に耐えていたものが溢れて、その厚い胸板に頬を寄せた。
「とうさまは、と、とうさまは私と、同じ薄茶色の目をしていて、お髭が、少しくすぐったくって」
朧げな父の面影を追うと、側にいる優しい掌が頷きながら儚那の頭を撫でた。
「蘇芳、これからも私を助けてくれる?」
「もちろんです。そのために私はいるのですから」
「うん……」
父に命を救われてから、王になるまでに多くの出会いと別れがあった。
亡き母と姉、女官の三人と、離宮の女たち。そして大乱の果てに盟を結んだ南方の民。
「……鵺はどうしているかな」
あの者たちのことだから、今ごろ王宮から差し入れた酒で盛大に月見酒などを楽しんでいるかもしれないと思った。
「──あの、ひい様」
「なに?」
「その、とても心が狭いのが、自分でも嫌なのですが……今しばらくは私の前で、他の男の名を呼ばないでいただきたい」
蘇芳は急にムスッとして、あちらを向いてしまった。
「えっあっ……ご、ごめんっ!」
「ひい様の方から、口づけしてくれたら許します」
「えっ!? えええ……」
儚那はどうしたら良いか分からず、おずおずと体を反転させた。それからできるだけ首を伸ばして、その唇にわずかに唇を触れ、すぐに離れた。
「足りない」
「えっ」
次はバサリと押し倒されて、
「こうです」
寝具の上で、貪るような口づけを交わされる。
その肩越しに、蜜色の月が見えた。
「誰にも奪わせない、もう二度と」
「私も……」
この温かさ、この唇をもう離さない。
爛漫に輝く今宵の月虹に誓った。
了
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