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第1話 夏が続くから

 指で首筋を撫でられた気がして、思わず首をすくめる。足元を砂埃が舞ってそれが風だったと認識する。  ぼんやりとしていた視界に色の名前を付く。黒、夜の空。赤、目の前の信号の色。白、街灯の明かり。そう、ぼんやりとしていた。立っているだけ。  事件が片付くまで缶詰状態だった。三日も風呂に入ってないし、下着はまだしも十日も同じスーツのままだ。  ようやく事件が片付いて、久々に塒に帰るところだ。時間は午前0時を少し回ったところ。  じっとりと湿った不快な体温に撫でられた気がした。重い瞼を落とすと、撫でた指先の奥で、顔の陰影を作ろうとする。ゾッとした。  目を見開いて、首筋を強く擦る。垢が指先で丸まる感触があっても止めずにいると、赤信号が「どこかへ行け」と言わんばかりに青に変わった。そのままネクタイに指を掛けて首元を緩め、空を仰ぐ。  黒、さっきそう感じたけれど、灰色だ。霞んでいる。皇居に近いこともあって、繁華街に比べればそれほどでもないのかもしれないが、明るい。空まで喧噪が届くほど、空は人間の吐息で濁っているように見えた。  指先が耳朶を掠り、別の感触を思い出した。耳朶から首筋へ落ちるあの指先。  鎖骨まで、舐めるようにゆっくりと落ち顎先へ登る。  どこまでも乱暴になれるくせに、こちらの気持ちを汲み取ろうとでもするように、じらすように、宥めるように、あの指が動くと喚きたいような、泣きたいような気持ちになる。  顔が、つい、浮かんでしまう。慌てて首を振っても、陽に焼けた顔が、余裕の笑顔が、降り注ぐ。…ああ、ダメだ。  首を振って前を見るとまた赤信号だ。何度目の赤信号だろうか。  今回の事件は長かった。相棒に恵まれない俺は外回りに出ることもなく、本部補助という立場で情報整理が中心だった。事件の大半は事前に防ぐことが難しい。それはわかっている。それでも、帳場を立ててからの犯罪、殺害が多いと解決したところで虚しさは拭えない。身体に傷がつくよりも、心が重い。  深く息を吐きだしてゆっくり瞼を開く。やはり先ほどの、湿った指先の気配が消えていない。  わかりやすく言えば、誰かから見られているような感覚。  ここ最近、何度かあった。前回の事件では、下調べのつもりで向かった奥多摩で、銃や麻薬の密売をしていた組織および関係者をたった一人で一網打尽にした、……そんな、あるわけない筋書きで決着してしまった。自身の銃を奪われ腿を撃ち抜かれるという、あってはならない失態は自宅謹慎で免れた。  拉致監禁に近い状態で、なぜ本部と連絡が取れたのか。  警察が乗り込む前に救急車で運ばれる事態について、裏取引があったのではないか。  銃の密売についての中心人物を取り逃がし、その人物らしき人間が別の場所で、死体としてあがったこと。  説明のつかない部分はいくらでもあったが、諮問委員の大半は´簑島´の家系に頭が上がらない、もしくは忖度によるメンバーなので、ユルユルのまま終わった。痛いところを突くこともできなかったメンバーの意向により、謹慎期間は尾行を点けることで身辺調査は続行されると、これまた本人に知れてはならぬことを監察官から小言をこぼすように告げられた。  内調による身辺調査および尾行といっても、同じ警察組織の人間の動きは把握しやすく、この不快感は別ものだとわかる。  帳場にかこつけてしばらく帰宅しなかったせいで、忘れかけていたが、やはりこの帰宅のタイミングを狙われたのかと思うと溜息が出た。  首を上げずに、視線だけ向けると目の前は赤信号だ。視界の端で青の点滅を確認すると同時に、身体を九十度転回し走った。  信号を渡り切り、直線をそのまま走りきり、地下鉄の階段を駆け下りる。霞ヶ関の構内は入り組んでいる。日比谷線への階段を駆け下り、ホームを突っ切り千代田線への通路へ進みながら売店の後ろで止まる。売店の横やエスカレータは人一人分の幅しかなく、すれ違うことも追い抜くこともできない。また、売店が視界を塞ぐため、エスカレーターを上ったのか、先を折り返し下ったのかもわからないため、尾行とあれば、売店の脇までは来るはずだ。暫く立ち止まって、左右のホームを確認するが、誰も来なかった。  ホームに電車が止まり、乗り換えの人に紛れて下りホームへのエスカレーターにのり、ゆっくりと今度は丸ノ内線ホームへに進む。  階段を下りるとちょうど電車が着ていた。開いた扉から入り、少し進み閉まりかけた扉から出て、目の前の階段を駆け上がる。  誰もついてきていない。気のせい、だろうか。ただマンションへ帰るなら千代田線に乗るという情報も知っていて、先回りしている可能性もある。  何か見落としている気がして、胸が騒いだ。  元来た通路を走って、一気に地上を目指す。出口近くのコンビニに入り、ペットボトルの水を手に取る。ゆっくりと追跡者がないこと、外を歩く人がいないことを確認し、レジを済ませた。キャップの部分を握りなおすと、路面側の出口を出てまた走った。  表面化できない部分の大半は、警察外部からの情報で助成されている。一般市民の情報提供はありがたいことであり、グレーゾーンをどこで線引きするかの問題だ。  前回の事件は、鄭社長からの情報が発端だった。  彼女の組織は、主に在日外国人を相手に銃の売買を行っている。故に、暴力団や裏社会の情報に接することが多く、それを流してくれる。裏社会の人間を敵対視していることもあるが、なにより祖国の同胞に粗悪な銃が渡らないことが第一、そのために敵対する組織や仕事の邪魔となる密売組織や邪悪な集団は、警察の手を借りてでも早いうちに潰すというのが彼女たちの信条だそうだ。  粗悪な銃を密輸している組織、ということで証拠を押さえる交通事故を引き起こした。証拠品を押収し、取り調べをもとに登場人物の整理を始めたところだった。表立って動いている人物は警察の方でも把握していたが、巨額の金をどこから持ち出しているのか、そこを確定するまで待つ予定でいたのに、やる気満々の相棒に引っ張り出されて、火の中へ手ぶらで突進することになってしまった。警視庁に配属されたばかりの新人だったために、危険なほどの承認欲求を感じていながら、空回りするやる気を抑えてやることができなかったのは、自分の責任だ。  彼女らの組織には、銃取引をするもの、ブツの分解と再構築するもの、それぞれの手腕によって役職は分かれている。主に情報調査として動く女性二人と鄭社長本人、その三人としか面識はなく、一人強気のものはいるが戦闘部隊ではないという。だが、時間を稼げれば、調査続行している彼女たちにどうにか伝わり、状況打破できるではないかと考えた。まさか、そこにあいつが現れるとは微塵も考えていなかった。  入院期間であらかたの取り調べも終わり、事件は解決した。終わったことを日比谷公園で伝えた。ツインテールのいつもの子がホットドックとともに、イヤホンを渡してきた。教わったURLを叩くと動画サイトに繋がった。ツインテールの子が、馬の身体を洗ったり、馬と散歩するシーンが流れる中、鄭社長の声が聞こえる。  マイクのアイコンを押下すると通話ができた。電話もメールもSNSも、証拠が残るがワンオンワンのライブ動画なら、盗聴も転送も保存もされない。世の中はどんどん変わっていく。  海外から密輸された粗悪な銃は押さえたし、部下を貸してくれたおかげで薬物取引も潰すことができたこと、事件が片付いたことと情報のお礼を伝えた。また、内調がついたので暫く接触はしないと告げると、「尾行者の中に別のヤツが混ざっている、注意しろ」と忠告された。  徳重がストーカーといったので、読み違えていたかもしれない。

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