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第50話 エピローグ
夕方5時の鐘が鳴って、泥だらけの軍手で額の汗を拭いた。三々五々、ため息とともに山を下る準備をしている。慣れたものでそれぞれが気遣い、声掛けをし、時間通りに山を下っていくので、後ろから号令も点呼もせずにチェックシートに必要項目を入れてポケットにしまった。
道端にタラの芽を見つけた。持って帰って夕食にしたいところだが、今は不謹慎かと唾を飲んで離れた。季節が巡っているのだ。
挨拶を交わしてボランティアの人たちと別れると、山の入り口に停めた軽トラに戻った。いつものように報告書を掻き始めたところで、運転席の窓をノックする者がいた。
見上げると、胸板の張った黒いTシャツが見えた。屈みこんで覗かせた顔に見覚えはない。訝りながら窓をスライドする。
「すみません。この先に明治さんの家があると聞いてきたのですが」
「ああ、創さんのお知り合いですか?」
「いえ、宗一さんを訪ねたくて。ここ、道があったと思うのですが」
チャラ息子のほうではなく父親の方。名前も知ってるし、道があったとこも知っているということは、どうやら知り合いらしい。
「道ね…、去年の秋の突発的暴雨で流れちゃったんで、今は隣県の方からの道しか通れないですよ」
「流れた? まさか、あの土砂崩れ事故って、ここのことでしたか?」
男が聞いてくるが、その表情は少しも変わらないことに警戒心が湧いた。30代後半か40代か、身体は鍛え上げているようにしゅっとしているが、疲労感が顔に張り付いたような表情は、どこにでもいるサラリーマンのようにも、犯罪のひとつやふたつを抱えているようにも見えた。
「そうなんですよ、今も土砂崩れで行方不明になった人の捜索を、ボランティアの方々としていてね」と話しながら、さりげなく報告書を助手席に置いて、長靴を脱いでスニーカーに履き替えた。
「行方不明ってご家族か何かですか?」
「いえ成人男性一人ですよ。春先にIターンでこっちに来てくれた若い男性なんですけどね。元々土砂崩れを免れた家に住んでたもんですからね。あの豪雨で、家ごと流されちゃってね」
『土砂崩れ事故』を知っていながら被害者を知らないなんてことがあるのか、ニュースや役所で手に入る情報を流す。こちらが警戒してると悟られないよう、煙草に火をつけハンドルに肘をついた。
「捜索されているということは、まだ手がかりもないんですか?」
男はしぶとく聞いてくる。
「今年の初めに一部の骨が見つかったって話ですけど、誰のものって特定されてないんでね」
面倒くさいとでも言うように、わざと大きく口を開いて紫煙を吐き出した。
「そうですか。足止めしてしまいまして、すみませんでした」
「いえいえ。お気をつけて」
男が2,3歩下がると、シートベルトもしないまま、ゆっくりと車をバックさせ、あぜ道でUターンして速度を上げた。ミラーに映る男はしばらく山を眺めてから、こちらの道へ引き返してくるのが見えた。
「シゲさんの情報流して大丈夫だったのかなぁ」
ヨシさんの家で油を売っていた明治の創は、トウモロコシのような黄色い頭を掻きあげて言った。
「徳重さんを探しているなら、行方不明かあるいはもう死んでますって思ってくれた方がいいと思うよ」
明治は報告書を自分の鞄にしまいながら、軒先で身体を伸ばした。ボランティア活動は役所の方でまとめてくれているが、報告はいつも明治に任せている。村人に染まりたくて、同調意識は動くが、役所やら顔役に会うことは極力避けたい。
「あれ、じゃ逆に、ムラさんはまだ死んでないって思ってるわけ?」
春先でもまだキンキンに冷たい水に耐えながら、泥だらけの顔や腕を洗った。
「信じてなきゃ、ボランティアで山狩りなんかしないっしょ」
土砂崩れで知り合いが行方不明になったとしたら、俺なら掘り返さない。自然に任せて土に還り、安らかに眠ってほしい。今日、捜索に参加した老人たちも、死んだと思って掘り返したりはしていない。『死ぬはずがない』という確信が欲しくって、掘り返しているだけなのだ。
返事がないので、明治の方を向くと目を潤ませながらこちらを見ていた。
「やっぱり、シゲさんって生きてるよねぇ」
「まぁ、あれは殺しても死なないって顔だからねぇ」
と言ってしまってから、『村上』としてこの村で一度しか顔を合わせてなかったことにハッとするが、明治はそれどころではなかった。
「そうだよねぇ。俺さぁ、シゲさん帰ってきたぞってオヤジから聞いて、シゲさんちにすっ飛んで行ったんだよ。そしたら雨戸閉まったままでさぁ。『あれ! またあの別嬪さん連れ込んでんのかよー』って思って、遠慮してやったんだよ。
つか、雨も降りだしてきたし、結構強かったしさ。あれ、雨って知ってて雨戸閉めっぱなしだったのかなとか、車で引き返しながら思ったんだけどさ。あんとき、雨強いからうちこないとかって声掛けてたら、こんなことにならなかったのかなって」
いつものように呟いて、いつものように泣き始めた。面倒くさいがいい奴だ。冷たい手で頬をポンポン叩いてやると、ぎゃっと悲鳴を上げて転がった。『別嬪さん』と明治は言うが、それはきっとボスのところの息子のことだろう。簑島渉もあの日、警視庁を辞職してから、行方知れずとなっている。
ふたりとも国外へ出た形跡はないが、徳重の経歴やら、前回の事件に協力してくれた女たちの組織の繋がりなどを考えると、正式ルートではなく国外へ出ることも簡単だろう。簑島渉が警察を辞めたとなると、国内に留まる必要もない。壊滅させたはずの筒美会の残党が、首を狙っている可能性もあるし、なにより片桐の存在が不可解だ。
千葉の爆破事件で簑島兄弟の因縁は終了したが、兄・昇に接触していた片桐の目的はつかめなかった。あの事件を踏み台に、黒い計画に渉を引っ張り込もうとしていたのか、歩いは単純に身体が目的か。または渉を餌に徳重を手足として動かしたかったのか。
「ムラさん」と泣きべそ顔のまま、明治が見上げていることにようやく気付いて、洗った軍手を物干しに干しながら、のんびりと返事をした。
「あのさ、シゲさんが生きてるとしたら、出てきた骨って誰のなのかな?」
「オマエのとこの私有地だろ? 昔からの豪農なんだからいろいろあるだろ。納税の相談に来た村人の間引きとか、夜這いに失敗した娘が失踪したとか、だいたい奉公人の数は合ってたのかとか…」
明治は足をバタつかせながら縁側を転がり、「怖い怖い」と騒ぎ始めた。今は亡き明治の祖父は、豪快な男だったらしく武勇伝の数々が知れ渡っている。干していた切り干し大根が、明治の足首に絡まって、悲鳴が高まる。
「これぇ! そんなことしてっと爺さん降りてくっぞ!」
ギャーギャー喚く明治が起き上がって俺の身体に絡みついてきた。割烹着で手を拭きながらヨシさんが奥の部屋から出てきた。ヨシさんがいう爺さんは、たぶんトシさんのことだろうが、明治は祖父を思ったのかもしれない。会釈して歩き出すとヨシさんが鞄を蹴りながら、「創、これどうすんだ」と声を張り上げた。
「ねぇねぇ、シゲさん生きてるとしたら、どこ行っちゃったの?」
明治は子供みたいに、まだメソメソとしている。先ほどの黒Tシャツの男の人相を思い出そうとして、ぼんやりし始めていることに、眉をひそめた。早いところ報告した方がよさそうだ。
「オマエの読みが当たっていて、あの日『別嬪さん』が来てたとしたら」
「え? うんうん」
「目指すは楽園じゃないか?」
ぶら下がっていた明治が綺麗に着地し、ゆるゆると口を広げる。ぱぁあっと擬音が聞こえそうな嬉しそうな顔で、何度も頷くと右手を取って握手するようにブンブンとふった。幼稚園児のように朗らかなスキップで、ヨシさんのもとへ戻っていく。いい人たちだ。徳重は急に事件に引っ張り込まれて、迷惑をかけたことを気にしていたようだが、自分はそうならないようにうまいこと切り替えなければと、改めて思う。
どこからか甘い花の香りがしたような気がして、暗い夜空を仰いだ。すっかり夜の景色になったあぜ道を歩き、気配がないことを確認しスマホを耳に当てた。
「桜庭です。今話せますか?」了
-了-
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