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第49話 ならばひとまず
じゃれ合ってたらお腹が空いてきたので、徳重がもらってきた肉や総菜を食べる。徳重は、ここへ戻ってくるときに思い至ったことについて伝えてきた。
「もらってばかりで俺からはなんも渡せなかった。これってやっぱさ、こういうところで働く者として成り立ってないような気がしたんだ」
それは事件のせいもあるだろうと思うと、何も言えなかった。庭の畑や鶏の卵を持って、世話になっている人達へ配る。その配慮に至らなかったというが、庭の花壇のスペースなのだから仕方ないのではとも思う。
「勉強させてもらったってことでさ、どこか行こうかなって思ったんだ」
「どこか?」
「どこかでなんか、一から始めてみようかなって」
縋るような目で見てしまう。食卓に置いた湯呑を包んでいた手が震えそうで、手を広げてテーブルにつける。徳重は腕を組んだまま、躊躇うようにあちこちに視線を向けたあと、真剣な顔になって身を乗り出した。
「さっきの、隠し事云々じゃないけどよ。確認しておきたいことがいっこだけある」
誰がいるわけでもないのに、声が少し小さくなる。
「オマエがここに潜入する理由になった拳銃の件。実はさ、本当はキリさんから預かって、ロッカーに隠した。ロッカーの鍵を石鹸に埋めて銭湯のロッカーに隠したんだ。」
そうだったのかと、少し残念な気持ちが湧いた。しかし、取調室のような状況のせいか、無表情のまま頷いた。
「萌絵が石鹸を回収したときには、中身がなかったってさ」
血の気が引くような気がした。
「それは…」
徳重が頷いて「俺とキリさんしか知らないこと」と言う。
筒美会の火事の後見つかった遺体の数は、あの会合に集まっていた幹部の人数と同じだったのに……。
片桐が鍵を回収した? 片桐は生きている?
「……俺もな、まさかって思ったけど、あの体育館での会話が引っ掛かってさ。『若頭に言われれば、警視庁から証拠品の銃まで盗み出せる』って」
警視庁から盗まれた証拠品の銃、それが事実なら警視庁の失態となるため、そんな事実はないと四課は結論付けた。鄭社長の情報では数で負ける薗田組が実行したのだという。抗争になる前に、銃で襲撃して組員の数を減らしたかったのだと。だが情報が筒抜けだったために、筒美会に横取りされた。取り仕切っていたのは片桐だ。マル暴の手入れがあるという情報も入っていたため、片桐は誰かにそれを託したはずだ。誰に頼むか? それは徳重だろうというのが朝倉の読みだった。見事に当たっていたわけだ。だが――。
「……片桐に言われて、盗んだ?」
徳重が神妙な顔で頷く。ならば鄭社長も情報に踊らされていたということになる。
「何故、それを今更?」
「『若頭に言われれば』ってのが引っ掛かったんだ。銃は抗争のためじゃなく、キリさんが組にバレないように入手したいと言ったから、俺が単独でやったことだ。当然、俺ら二人しか知らないはずなんだ」
右手を軽く握って口元を隠しながら徳重が言う。
「あてずっぽうでないなら、組崩壊の事件後、キリさんは昇に接触している」
額に手をついて考える。
徳重が言う通り、確かに警察の知らない情報と、警察しか知らない情報が昇の口から出た。警察しか知らない情報は、あの事件で人質を取られ協力するしかなかった五課長からと思ったが、筒美会の証拠品の在処やその中に動画があったということまで、知っていただろうか。
また、抗争のためではなく数兆の銃が必要となると、片桐はそれ以上の大きなことを考えている可能性がある。昇に情報を漏らしたのは協力のためか? 暴力団ではなく反社の力が必要なことなのか? 否――。
「オマエを誘い出すために、昇に話を持ち掛けた可能性もある」
徳重の言葉に顔を上げた。片桐の冷徹な顔を思い出すと、目の前が真っ暗になりそうだった。徳重が腕を伸ばして手を握ってくれなければ、眩暈に沈むところだった。
「…そうかもな」
殺したい。俺を玩具のように扱って、見世物にして冷笑した男を。徳重に接触するかもしれないと聞いて、朝倉から銃を買ってここへ乗り込んだ。
「大丈夫か?」
握られた手に力が籠る。顔を上げて心配そうに眉間に皺を寄せているその顔をみた。強く掴まれた手は徳重の温もりを伝えてくる。大丈夫だ。
俺はこの温もりを守りたいと思ったんだ。ガラスの向こうで、多くの管に繋がれた動かない身体を見て、自分の中の悪意がそうさせたことを悔やんだ。公序良俗のためにある警察組織にありながら、私怨のために人を動かしてしまったことを悔やんだ。
「ここへ来る時、辞表の上に警察手帳をおいてきた」
「えっ?」
徳重が驚いた顔を前に出した。
「片桐を殺したいと思ったのも事実だが、今はその気持ちはないんだ」
固まったままの徳重に頷いてみせた。以前、警察以外に俺にできる仕事はあるかと考えたこともあったが、そもそも警察事態も向いてないように思えた。情報収集や筋読みはできても、自分の行動が事件を起こすかもしれないなんて、考えが及ばず負傷する羽目になったし、何人も犠牲にしてきた。捜査本部の采配や班長として大人数を捌けはしても、相棒やましてや大切な人など少数単位ではハンドルできない。致命的に危険回避能力がない。
「あえて言うなら、二度と会いたくないってだけだ。何か悪巧みをしていて、俺に阻止してほしいと願っているとしても、俺はもう、あいつには会いたくない」
「……渉」
今回の事件で、自分が属していた組織が無力だったのだと感じた。法や規則に則って行動したところで、銃や武力がなければ抑え込むこともできない組織や悪意と戦うことに、無力感が湧いた。司直にも手が出せないものを排除するのが母が今回動かした組織だとするなら、そこに任せたい。本当に片桐がなにかよくないことを企てているとしたら、恐らく徳重からの情報で、もう動いているはずだ。
「俺が刑事になったとき、教育係としてペアを組んだ先輩刑事がいたんだ。庄司先輩」
徳重が呆然とした顔でこちらを見ている。
「庄司先輩はなんでもできる人だった。剣道も銃も大会クラスだし、悪知恵も働いて、上からも下からも好かれる人だった。ある休暇後、背中に大火傷を負ったと聞いてお見舞いにいった。退職すると呟く彼は、以前の彼ではなくなっていて、目も心も死んでしまったようだった。
エリートだったし、引き留めもあったし公安への引き抜きの話もあった。事件の合間を縫って再びお見舞いに行った時には姿がなかった。連絡しても繋がらず、公安に確認しても知らないと言われ、まさかと思って調べたら、入院した日に殉職扱いになっていた」
徳重の手をすり抜けて湯呑を手にした。すっかり冷めてしまった緑茶をすする。
「おかしいだろう? 殉職したなら葬儀だってあるだろうし、所轄の人間が知らないわけがないじゃん」
徳重も同じように湯呑を取ると一気に飲んだ。
「上司に聞いてもあやふやなまま逃げられた。これは、手帳か銃でも持ったままバックレたのか、当時はその程度に思って、時間とともに忘れていった。
筒美会手入れの日、襟足に火傷の跡がある男を見つけた。庄司先輩は昔、柔道で肩をやっていて右の肩甲骨が少し浮いている」
徳重が声に出さずに「え?」と聞き返した。
「忘れない後ろ姿だった。路地を曲がったところで声をかけてしまった。そこが、筒美会幹部のアジトとも知らずに」
『逃げろ』と聞いた気がして引き返したが、すでに挟まれていた。岩のように大きな男に警棒で振りかぶったが、取り上げられて腕を折られ拉致された。
「片桐と呼ばれた男は庄司先輩だ」
「な……、嘘だよ。だってあの人、5年以上は組に居るんだぜ?」
徳重は片桐と直接口を利くようになるまで、自分がフロント企業で働いていることを知らなかった。ヤクザは嫌いだが、片桐とはウマがあったらしく、お互いに信頼しあっていたと言っていた。そんな徳重にしたら、彼が元は警察の人間だと聞かされたら、ショックを受けるのもわかる気がする。
「潜入というより、『草』という忍者の任務にも近い。素性を隠して潜りこんで、組織に溶け込んで生活していたんだろう。筒美会壊滅が目的だったというなら納得がいく。幹部全員が集まる日を狙って警察はガサの日程を組んでいたんだから」
組長の正体を掴んでいるものが凡そいない組織であって、三桁超える構成員をまとめる事務所は都内各所にあったが、幹部が滞在する時間も少ないため、ガサができないでいた。そんな中、幹部が集まる日時と場所を特定できたということは、恐らく片桐が警察に情報を流したと考えるのが妥当だ。
徳重が細く長く息を吐いた。説明しなくても同じ結論に至っただろう。
「ならば、火事もキリさんの仕業だな。筒美会の完全な消滅とともに、自分の身を隠した。あるいは二重スパイか?」
草となるには情報が洩れないように、在籍情報も消すことがあると聞く。登録抹消の代わりに殉職として戸籍まで操作し公安と繋ぎをつけていた可能性もある。しかし、組員として薬物売買や殺しなど、幾つもの犯罪を重ねてきている人間を、お咎めなしに元の職場に戻すとも思えない。
「その千載一遇のチャンスのために5年も潜伏させて、危険な仕事させてきたっていうのか。……マル暴か公安かしらんけど、ことが済んだら両手を上げて迎えてくれるのかな」
「最初からか途中からか、騙されていたんじゃないのかな。オマエに銃を盗ませた理由を考えると、筒美会以上に殺意を持った組織でもあるんじゃないか?」
「こっわ」
茶化すようにいいながら、徳重は俯いてため息をついた。暫く沈黙が続いた。台所の窓の外はいつも暗い。夜にはたまに月明りに照らされて、暗い森の幹が白く反射することもあるが、その白さとは違う色に見えた。奥の部屋に脱ぎ捨てたスーツが、いつの間にか台所の椅子に掛けられていた。眼鏡を取り出して外を見た。雨がいつの間にか激しくなっているようだ。
徳重もそれに気づいて、部屋を突っ切り締め切った雨戸をひとつ開けた。なにか言ったが聞こえなかったので、隣に向かう。
ザーザーと激しい音を立てて雨が降っていた。地面が見えないほどの量で、土まで跳ね上げるせいか泥のような臭いがした。畑にあった添え木や、枯れた枝が流された。川になり始めているようだ。
「畑、ダメになっちゃったな」
徳重の腕に手を添えて囁く。
「また作ればいい。オマエ、マジで警察辞めたの?」
辞めたのかともう一度聞かれて、本当に辞めてしまったことを逡巡したが、後悔も心残りもない。片桐こと庄司の目論見に一番近づいているかもしれないが、たった今吐き出したところで阻止したいとも、奴ともう一度対峙したいとも思わなかった。徳重の腕を滑って徳重の指に自分の指を絡めた。
思わず口角が上がる。すっきりした顔で頷いてみせた。
徳重が同じように微笑む。
「ならばひとまず、俺と一緒に行くか?」
どこへ? と聞かなくても、この手を離さないと決めた。
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