5 / 5

第5話

(しょく)つがいの骸! 「子どもを引き取りたいのです」  桐壺がそう言ったとき、私は一も二もなく頷いた。 「君がそうしたいのなら」  桐壺はないものねだりをする女ではない。いつも手の内にあるものだけで満足する性質である。その彼女が何かをしたいと言うとき、それは本当に望むことだと知っているから、私は否と唱えるつもりはなかった。しかし、なぜ彼女がそんなことを言いだしたのか興味はある。なぜなら、私たちの間には、つい先日第一子となる敦忠(あつただ)が生まれたばかりだからだ。 「いったいどうして子どもを引き取ろうと考えたんだい?」  すると、桐壺は悲壮な面持ちで答えた。 「その方は、わたくしが幼い頃、兄の笛の師として邸に通ってくださっていた、前(さきの)兵部卿宮様の御子なのです。わたくしも、前兵部卿宮様には、何度か笛をご教授いただきましたわ。その前兵部卿宮様に仕えている女房とわたくしの乳母が旧知の仲であった縁で、前兵部卿宮様が先日お亡くなりになり、御子様が天涯孤独になってしまったとお教えいただいたのです」 「なるほど。それで君は、その御子様をお救いしたいと言うのだね」 「救うなどと、そんなたいそうなことではございませんわ。ただ、ご縁のあるお方の大切な御子様を、放っておくのが忍びなくて……」  眉根を下げる桐壺は、会ったこともないその御子を、心の底から思いやっているようだった。その性根の美しさがたいそう愛しく、私は彼女の髪をそっと撫でた。 「わかったよ。それではさっそく、その御子を宮中に召し上げよう」  今現在、京を中心に各地で痘瘡(もがさ)(天然痘)が猛威を振るっており、庶民はもちろん貴族の間でも死者を多数出していた。無論、前兵部卿宮の遺児だけでなく、親を亡くした子どもは山と存在し、京に溢れかえっている。その中で前兵部卿宮の子どもだけを救う必要性について考えてしまう己が冷淡であるとは思わない。いずれこの国を治める身ともあれば、馴れあいなど不要だからである。しかし、ゆえに目の前の女人の甘さに惹かれるのだろう。彼女こそが魂のつがいであると、疑う余地もない。  魂のつがいとは、身体の相性が良い相手のことを指すのだと思っていた。しかし、彼女を深く知るうち、それだけではないのだということを知った。桐壺と自分、それぞれ持ちあわせない部分を補う関係、それこそが魂のつがいなのだ、と。  桐壺の要望で引き取った御子は、宇治に住んでいたことから宇治宮と呼ぶことになった。  宇治宮は凡庸な子どもであった。わずかばかりでも同じ先祖の血が通っているはずだが、天皇家の威厳など微塵も感じさせぬ、きわめてありふれた平多だった。  彼を養子に迎え入れた際、貴族たちは大いに荒れた。特に桐壺の父である内大臣には、断固として反対された。私の次の東宮位を巡り、敦忠と宇治宮の間で争いが起きることを危惧していたのだ。政治的な駆け引きにより、私には桐壺以外にも二人の女御がいるが、そのどちらにも子はない。ともすれば、桐壺を擁する内大臣家以外の貴族たちが一丸となり、宇治宮についてもおかしくはないからである。その懸念はもっともであったが、私は桐壺の願いを違えるつもりは毛頭なく、反対意見を押し切った。  しかして、宇治宮のごく平凡な姿を見て、貴族らの大半は宇治宮を擁することを諦めたようだった。少し潰れた丸い鼻と、丸い木の実のような瞳。それは父や私とは似ても似つかぬ面立ちであり、帝位に就くには気迫が足りなかったからである。  私は実子のように宇治宮を養育した。それは彼に対する愛情というより、桐壺が気にかけている子どもに対する愛情であった。 「ご指導ありがとうございます!」  だが、煌めく瞳で私を見上げ、頬を紅潮させながら礼をする小さい子どもに、だんだん愛着が湧くようになった。将来的に敦忠の障害にならぬよう、成人後の宇治宮には閑職を与えるつもりであったが、もっと側近くに仕えさせるのもいいかもしれない。そのためには、今以上に勉強させ一人前にせねばならぬ。宇治宮は私たちの教育を受けてもなお庸劣だったから。 「東宮様、この答えはいかがですか?」 「あの、この間、たくさん笛の練習をしたんです。聞いていただけますか?」  平凡だが決して諦めない努力家というのは、彼の美点であった。好意を隠さぬ素直さも。  気がつけば、私は宇治宮のことを愛しく思うようになっていた。  発情期の桐壺のもとを訪れた際、端に控える女房を見た私は、あることに思い至った。 「つがいを持つ男女伽は、つがい以外を誘惑することはないのだったね」  殿舎を甘く満たす発情期の香りは、つがいの私だけを引きつける。主芙婀の女房がこの香りに惑わされず、淡々と仕事に打ちこんでいるのがその証拠だ。  しかし、主芙婀はたとえつがいや妹背(いもせ)(夫婦)がいても男女伽に近づくことはできるし、契ることも可能だ。ましてや平多であれば、つがいが存在しない代わりに誰とでも恋仲になる可能性があるのだ。  それに気づいた私は、蔵人の一人を呼び出した。 「後宮に仕える者たちを、つがいのいる男女伽のみとするように」  蔵人は短く頷き、そして私の命(めい)を実行した。帝やそのきさきたちの女房を入れ替えさせることはさすがにできなかったが、東宮および東宮妃に仕える者など、それ以外は老いも若いも関係なく総浚いした。  私が二十歳、宇治宮が十四の頃のことだった。  十四というのは元服を迎えてもおかしくない年であり、私自身十四で成人している。宇治宮の成人を見込み、最近は貴族たちがなにかと彼に言い寄っているようだった。蔵人からの報告では、特に清原少納言(きよはらのしようなごん)の擦り寄りが激しいらしい。私は清原少納言の不名誉な噂をばらまいた。その結果、次の除目(じもく)(任官の儀)で彼の昇進はなくなった。それは貴族たちへの牽制であった。  何も知らぬ宇治宮は、元服の期待を胸に日々を過ごしているようだった。可愛い、愛しい宇治宮。彼を手放すことなどできようもない。臣下に降り、いずれ来たる私の治世を助けたいなどといじらしいことを言うのだからたまらない。しかし、私は彼をいつまでも手元に置いておきたいのだった。  宇治宮は初恋を桐壺に捧げたためか、無意識に器量好みになってしまったようで、身の回りの女房たちなど一夜限りの相手にも見えないらしい。また、私の方針で下世話な情報をほとんど入れさせなかったためか、彼の身体はまだ成熟していないとのことだった。すべて側仕えの女房たちから聞き出したものだ。しかし、念には念を入れ、この頃から宇治宮に仕える女房たちは、一定の周期で入れ替えさせることにした。長くひとところにいては情が移る。宇治宮にも、女房にも。それは許し難いことだった。  そして年が明け、二十一になると同時に、即位の話が持ち上がった。父である帝はまだ健在であるが、飲水病(いんすいびよう)(糖尿病)の気があるため、早期の退位を思い立ったらしい。  私としては即位することに深い感慨はなかったが、いずれ帝位を継ぐのであれば早いに越したことはないと考えていた。着手すべき案件は山のようにあるからだ。  そんな折、私の意識を改める決定的な事件が起きた。 「東宮様はこのところ、なんだかご機嫌がよろしくないのですね」  ふふふと微笑むのは、数日ぶりに対面した麗景殿女御だった。彼女は私と桐壺より二つ年嵩であり、三人の女御の中でもっとも遅く入内した女性であった。いつもは一線引いた態度の彼女なのだが、今日はどこか様子が異なっていた。御簾を巻き上げ、黄昏の光が差しこむ室内で片頬を照らされたこの殿舎の主は、妙に妖しめいた空気を纏っている。 「あたくしは、最初から二番手、三番手とわかっていながら入内した身。出しゃばらないよう、この後宮のことはようく観察しながら生きてまいりましたわ。だからきっと、この後宮の中だけでいえば、あたくし、蔵人の皆様にも引けを取らぬくらいの情報通ですのよ」  麗景殿の言うとおり、私や貴族たちにとって、彼女の存在は二番手止まりであった。貴族間の勢力均衡を図るために迎え入れたが、私にはすでに桐壺がおり、家柄も良く、美しく、琴の名手と名高い主芙婀の彼女でも、寵愛するには至らなかった。とはいえ、定期的に召し出しているというのに、彼女の愉悦を含んだ表情は初めて見た。麗景殿は濃いまつ毛を瞬かせ、私をじいと上目で見やる。 「いかがですか? 当たり?」  私は首を振った。 「いったいどうしてそう思うのですか?」 「桐壺様と宇治宮様が、十日ほど物忌(ものいみ)なのですもの。お会いになれなくて寂しいのではと考えたのですわ」 「そうですね、そのとおりです」  物忌とは、怪異や血や死といった不浄に触れた場合、あるいは夢見、またあるいは日取りが悪いときなどに、他者と会わずに謹慎することをいう。通常は数日ですむところ、二人の物忌はずいぶんと長く、私は物足りない思いをしていた。素直に頷くと、麗景殿は庭に視線をやり、すうと目を細めた。 「……本当に、物忌なのでしょうか?」 「どういうことですか」  私は自身の声が固くなっていることに気づいた。もちろん麗景殿もそれに気づいているだろう、ふたたび楽しげな表情を浮かべる。  おとなしいと思っていた彼女だが、人を煙にまくときの生き生きとした顔つきこそが、本来の彼女に違いない。初めて知った事実を心に刻んでおく。こういう手合いを相手にするときは、結局のところ、もったいぶった口上につきあうのが一番早い。そうわかっていたものの、私はつい催促するように言葉を重ねてしまった。 「麗景殿、何かご存じなら教えてください」  そのとき、初夏の風に乗ってかすかに笛の音が聞こえてきた。そして、それにあわせた琴の音色。合奏のようである。その二つの音に私は覚えがあった。  麗景殿は聞き入るように目を閉じている。口元ににんまりと大輪の花を咲かせながら。  私は無言で立ち上がり、先触れもなく音の聞こえてきた淑景舎に向かった。私の姿を見て女房たちが集まってくるが、無視して北庭の方角に回ると、庇の間に桐壺と宇治宮がいた。打ち解けた様子で笑いながら、楽しそうに笛を吹き、琴をかき鳴らす姿は仲睦まじい親子そのものであったが……。 「何をしているんだい?」 「と、東宮っ?」  驚く二人に、私ははらわたが煮え繰り返る思いだった。大股で近寄り、宇治宮の手を引いてむりやり立たせる。 「君たちは物忌で、しばらく誰とも会えないのではなかったかな?」 「あ、あの……それ、は」 「嘘をついてまで、私に隠れていったい何をしていたのか、説明してみるといい」  彼を掴む手につい力がこもってしまう。しどろもどろでろくに私の顔も見られぬ宇治宮に代わり、桐壺が答えた。 「今度のご即位のお祝いに、わたくしたちから演奏をお送りしようと思って、内緒で練習していたのですわ」  黙っていてごめんなさい、と柔らかな眉を八の字にして告げる桐壺は、常と同じ、穏やかで裏など何もなさそうに見える。そうだ、彼女はいつだって甘いほどに優しく、他人のために行動できる善性の人間だ。だからこそ、私は彼女のすることならなんでも叶えようと思っていた。しかし、彼女たちが今、私のためにとしたことがまったく許せない。否、私が許せないと思う相手は、萎縮して肩を窄める宇治宮のみであった。  彼が私に隠れて桐壺に会っていたことが、彼のことで私が知らぬことがあるという事実が、耐え難く、認められなかった。人でも物でも権威でも、およそ何かに対してここまで執着する自分を初めて知った。  桐壺を思うときの穏やかで互いを尊重しあう気持ちなど今の私には一切なく、ただこの少年を私の管理下に置いて、私だけのものにしたいという熱が私の体内を駆け巡っていた。  ――私は俯く宇治宮を見下ろした。目をみはり、精一杯涙を堪(こら)えている姿に同情と劣情を催す。かわいそうで、健気で可愛い宇治宮。この執着が養い子を慈しむものでないことをようやく理解した。しかし、今すぐこの腕に彼を抱きしめたいと渇望する私とは裏腹に、宇治宮は十四にしては純真で、私の猛る思いを受け止めるにはまだ幼い。彼を手に入れるためには時間が必要だ。まるで蝶を貪る蜘蛛のように、ゆっくりと絡め取ってゆこう。光源氏が幼い紫の上を引き取り自分好みに育てたように、私も彼を育てあげてみせよう。それまでは、彼の純情を大切にしていこうと、そう決めた。そんな私を宇治宮も慕っていたはずだった。  だが、宇治宮は桐壺に遠慮し私を拒んだ。それは桐壺を母とも姉とも慕う宇治宮にとっては当然の帰結であったが、私には目から鱗であった。なぜなら、私にとっての運命はもはや宇治宮だけであり、私たちが結ばれる未来しか見えていなかったからだ。  宇治宮のことを考えるだけで身体が熱く重たくなる。他のきさきたちをどれだけ抱こうと満足などできようはずもなかった。彼を前にしたら、私は今度こそ己を止められないだろう。むりやり抱くのは時期尚早だとわかっていたので、断腸の思いで彼のもとを訪れるのはやめた。その代わり、一刻も早く彼を手中に収めるための算段をつけなければ。泣きじゃくる宇治宮を瞼裏に思い浮かべながら、私は宇治宮との未来のために準備を進めた。  そして、その日がきた。  桐壺に第二子が誕生したのだ。二人目の御子も男子であった。これにより、左大臣家ゆかりの御子が次代の東宮位に就くことは間違いなく、今後の政局に大きな変動や混乱が生じることも、万が一にも宇治宮に東宮の座が回ってくる可能性もなくなった。 (さすが桐壺……)  私の望みを寸分違わず叶えてくれる魂のつがいだ。  出産の報を受け、私は直ちに桐壺を召し上げた。生まれたばかりの赤子を抱き、上御局(うえのみつぼね)(清涼殿にある女御たちの控えの部屋)に参じた桐壺は、お産直後のやつれた身体に発情期が重なったせいで、息も絶え絶えの様子であった。一回り小さくなった躯体に唐衣を纏った姿(十二単)は、まるで衣服に溺れているようにも見える。抱いていた赤子を受け取れば、ずしりと重みを感じた。おぎゃあおぎゃあと泣き暴れ、まったくおとなしからぬ我が子だが、今の今まで桐壺はこの細腕でしかとこの子どもを抱きかかえていたのだ。母という存在のなんと力強いことよ。東宮誕生の折にも感じた畏敬の念を、今ふたたび覚える。 「わたくしより、御子をようくご覧にならないといけませんわ」  まじろがず彼女を見ていたら、怒られてしまった。 「そうだね、すまなかった」  よしよしと、腕を揺らしてあやしてやる。家族団らんの穏やかな時間だ。 「よくぞ無事に御子を生んでくれたね。感謝しているよ」 「わたくしこそ、こんなに可愛らしい御子を授かることができて、本当にありがたく、嬉しいことでございますわ」  久方ぶりの桐壺との再会、そして生まれたばかりの我が子との対面。この時間が長く続けば良いと願っていたのは事実だ。しかし、桐壺が身じろぎした拍子にいっそう強く香った淫靡な香りによって、それは叶わぬことだと突きつけられた。  発情期の匂いが私の鼻を強く刺激し、身体を熱くした。胸が拍動するたび、指の先々まで熱がみなぎってゆくのがわかる。すでに充分あてられていた私の身体は、もはや隠しようがないほど汗ばみ、息を荒らげていた。国母としてではなく、男女伽の女として、私の身体は桐壺を求めているのだ。  しかし、私の心が望むのは宇治宮ただ一人。世継ぎが二人も生まれた今となっては、己が精を注ぎこみたいと熱望するのは、宇治宮の胎の中だけだ。  その彼にとって、桐壺の存在が私たちの運命の障壁だと言うのなら。主芙婀としての本能が宇治宮を不安にさせるのなら。  桐壺をこの世から消さねばならない。 「……桐壺」  父母よりも私のことをよく理解している彼女との別れは、身を切るほどに辛い。だが、宇治宮をこの腕に閉じこめるためならば、私は他の何もいらない。今この手に抱く血を分けた我が子も、この世で最高の位である帝という地位も。  桐壺は、とうにこの願望に気づいている。そのうえで子を産み、私のもとに舞い戻ってきた。そうに違いないという確信がある。なぜなら、私たちは魂のつがいだからだ。  私の呼びかけに顔を上げた桐壺のかんばせは、腕の中の子どもを見つめるそれと同じ、慈愛に満ち溢れたものだった。 「そろそろお別れなのですね」  今宵、人払いをしたのは桐壺だ。敏い彼女は、この先自らの身に何が起こるかわかっているのだ。 「長い間帝にお仕えすることができて、わたくしは幸せでございました」  まるで菩薩のような柔らかな笑顔で、桐壺はそう言った。 「私も君と出逢えて幸せだったよ。君はこれからもきっと、この世で一番の理解者だ」  それはまったくの本心だった。彼女以上にわかりあえる人間はいないはずだ。  いつの間にか安らかに眠っていた我が子を畳の上に置くと、居心地が悪いのか身じろぎをした。そのため、私は着ていた直衣を脱ぎ、その衣で彼を包んでやった。  そして、几帳の裏に隠していた太刀を持ち出し、桐壺の正面に立つ。  桐壺は座りこんだまま、口の端を持ち上げた。 「さようなら」 「今までありがとう」  無抵抗の白い柔肌に、磨き上げられた刀身が沈んでいく。熱い血潮が私の身体を濡らした。桐壺は小さく呻いただけで、笑みを絶やさなかった。  誰にも邪魔されることのない、私たちだけの静かな別れだった。  理解者を失った私は、逸る心のまま、運命の相手のもとに駆け出した。一刻も早く、運命をこの手にするために。 ~了~

ともだちにシェアしよう!