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第4話

 年が明け、本格的な冬が始まった。雪の降る日が続き、朝晩凍てつくような寒さが身に堪(こた)えるようになる。  しかし、如月(二月)の頃、辛い寒さをはねのける、私だけでなく世間的にもたいへんにめでたい吉事があった。出産のためご実家の左大臣邸に退出されていた桐壺様が、無事に御子をお産みあそばされたのだ。帝にとっては第二子の誕生である。すでに東宮となられている一の御子様に続き、お二人目も男子であった。桐壺様のご出産の際、左大臣様がお医師を払いのけ、おん自ら赤子を取り上げ頬擦りした、とはおそらく尾ひれのついた噂だろうが、それほどまでに左大臣様は喜んだという。  まだご出産から十日も経ってはいないのだが、よほど早く桐壺様と御子様にお会いしたかったのだろう、帝による矢のような催促でもって、桐壺様は昨日内裏に戻ってこられた。私は明日、桐壺様と御子様にお会いできる予定になっている。  そのことを思うと胸が躍り、なかなか寝つけずにいた。 (今頃は親子水入らずでお過ごしなのだろうな……)  その輪の中に自分がいないことを寂しく思ってしまうが、それは致しかたあるまい。一年ほどお会いしていない帝、懐妊のお知らせをいただいたとき以来の桐壺様と東宮様を思い起こしながら、私は少しでも睡眠を取ろうとまぶたを閉じた。  それからどの程度時が経っただろうか。ふと目を覚ました私は、暗い室内で手足の冷たさにぶるりと身震いした。傍らに置いた火鉢の火は残っていたが、それでも凍えるような寒さであった。身を竦めながら衾(ふすま)(掛け布団)を肩まで引き上げる。そのとき、何か常と異なる兆しを感じた。 (なんだろう……)  耳をすませば、几帳の向こうから女房たちの寝息が聞こえてくる。控えてくれている彼女たちの気配はいつものことだ。そうではなく、何か……そこで気づく。  外が騒がしい。  男たちが叫んでいるような声が聞こえてきて、私は思わず身体を強張らせた。此処はかしこきお方、帝のおわす内裏である。粗野ないさかいとはもっとも無縁の場所のはずだ。何かあったのだろうか。  様子を窺っていると、突然すぐ近くで女の悲鳴が響いた。続けて荒々しい足音、衣擦れの音が聞こえる。 「ひっ、た、助けて……っ!」  助けて、とは尋常でない。もの恐ろしさと凍てつく寒さに固まった足をむりやり動かして、私は妻戸に走った。さすがにこの段になると女房たちも起きだしており、不安そうな顔で身を寄せあっている。女房の一人が近づいてきて、妻戸に手をかけた私を止めた。 「何があるかわかりませぬ。わ、わたくしどもに任せてお下がりください」 「でも、……!」  皆怖がり、いっこう戸を開ける気配がない。しかし、先ほどの悲鳴は―― (だめだ、彼女たちに任せておけない……!)  この場に姿を現さない大弐を瞼裏に浮かべながら、私はいつになく強い力で女房たちを振り払った。  ばたん。荒々しい音を立てて戸を開けた途端、眩しさに驚いた。夜半にもかかわらず、周囲が異様に明るかったのだ。また、常の後宮では考えられないような、現実味のない騒々しさが耳に飛びこんでくる。  しかし、それに気をやる余裕はなかった。大弐が簀子に倒れ伏していたからだ。幾重にも重ねた女房装束が花弁のように広がる中、大弐は蒼白な面持ちで目を閉じていた。 「しっ……しっかりしてください!」  何度か揺すると、彼女はかっと目を開いた。背丈を越すほどの髪を振り乱しながら、腕の中で暴れる。私のことが見えていないのか、一心不乱に何かから逃げようとしていた。 「たっ、助けて……ぁ……っ」  見たところ怪我はなさそうだが、聡明な彼女らしからぬうわ言を繰り返し、老齢とは思えぬ力強さでもって床を蹴り上げる様子は常軌を逸していた。まるで物の怪に憑かれたようである。 「大弐、大弐、どうしたのですか? 何があったのです?」  何度か問いかけてみたものの、答えが返ってこないことを悟った私は、ひとまず彼女を室内に連れてゆくことにした。妻戸の陰に声をかけると、こわごわといった様子で女房が数人現れる。しかし、先輩である大弐の状態に度肝を抜かれた彼女たちは「物の怪かしら」「大弐さんが、こんな……」と怯えて近寄ってこない。  そんな女房たちの声がふと途切れた。彼女たちは私の背後を凝視したあと「きゃぁああああああ」とつんざくような悲鳴をあげ、次々に失神していく。驚き反射的に振り返った私は、そこに立つ男性に意表を突かれた。  簀子に立っていたのは、この国を統べる帝その人だった。衵に長袴姿で、右手に太刀を持っている。灯籠の明かりに照らされた横顔は、最後にお会いしたときと変わらぬ、自信に満ちた笑みを湛えていた。高貴で才に溢れるこの方の冷涼な美貌がもっとも輝く表情だ。養い子として帝の側近くに仕えてきた私は、それをよく知っている。引き取られてからおよそ七年間、さまざまな顔を見てきたのだ。しかし。 (なぜ微笑んでおられるのですか……)  今、常と同じく微笑む帝は、私の理解をはるかに超えて異常だった。太刀と帝のお召し物には、無数の黒ずみが――おそらくは血飛沫が舞っているからだ。  この返り血は、いったい誰のものだろう。そう思ったのは、この圧倒的な君主たる帝が、何者かに一太刀でも浴びせられるとはとうてい信じ難かったためである。  帝は唖然とする私と視線をあわせると、蕩(とろ)けんばかりに甘く晴れやかな笑みを浮かべた。 「やあ、宇治宮……長らく待たせてしまったけれど、君を手に入れるためにやってきたよ」  そして、左手に提げていた射干玉のごとき漆黒の糸の束を私に寄越した。大弐を床に横たえ、それを受け取った私は、糸の中からあらわになったものを見て声なく叫んだ。  放射状に伸びた闇のような黒は糸ではなく、長い長い髪の毛だった。帝が掴んでいたのは、女の頭部であったのだ。  その女人を、私はよく知っていた。姉とも母とも慕ったお方。東宮含む帝の御子を二人もお産みあそばされた貴きお方。  帝の魂のつがい。魂をわけあった、運命をともにするべきただ一人のお方。  桐壺女御様だった。 (なぜ、どうしてこのようなお姿に……っ?)  頭を掲げてみれば、ぼたりぼたりと首から血が滴り私の膝を打った。生温かいその熱を穢れなどとは思えず、私は小袖が染まるままに、艶やかな黒髪の中に埋もれたお顔を覗きこんだ。桐壺様は、菩薩のように穏やかな表情をされていた。死に際にこれほど優しい顔ができるものなのだろうか。いや、できるはずがない。ともすれば、これはうつつではないのだろう。そう、目が覚めたら、桐壺様は柔らかい声で「怖い夢を見たのですね……」と慰めてくれるはずだ。ならば早く、女房たちのように気を飛ばしてしまいたい。  願いどおり、ふうと意識が遠のきそうになったとき、怒号が鮮明に聞こえてきた。 「清涼殿にて怪異あり! 物の怪出現!」 「主上、桐壺女御、ともに行方知れず!」  松明を掲げた武士たちが庭を駆けていくのが目の端に映る。彼らの大音声にはっと我に返っても、絶望的な状況は何ひとつ変わってはいなかった。しかし、なるほど、今目の前に立つお方は物の怪に憑かれているのかと、私はようやく合点がいった。魂のつがいが亡くなり、それでもなお喜色満面の笑みを浮かべ続けるこの方は普通ではない。  普通ではないと思うのに、私は逃げ出すことができずにいた。この手に抱いた、敬愛する女性の亡骸を前に、全身の力が抜けてしまったのだ。悲しみも恐怖も、すべての感情は膜の向こうで蠢いているような鈍い感覚。桐壺様のお顔を取り落とすわけにはいかない、それだけを虚脱した身体に言い聞かせ、桐壺様をただ手にしていた。 「桐壺を失ったことは私も辛い。しかし、おかげでようやく、私は君を運命だと証左することができた」 「……それは、いったい……」  帝にとっての運命は桐壺様だ。意味がわからず、帝のお顔を凝視した。少しでも帝のお考えがわかればと思ったからだ。そこで初めて、帝の額にうっすらと汗が光っていることに気づいた。よく見れば太刀を握る拳は必要以上に力がこもっているのか、小刻みに震えている。瞳も血走り、荒い息を噛み殺しているようだ。笑顔を浮かべればその裏に隠されてしまうほどわずかなものではあるが、普段表情を崩すことのない帝には滅多にない面体だった。そして、帝の長袴を押し上げる逸物の存在感――それに気づいたとき、真っ先に頭に浮かんだのは、まるで獣のようだということだった。きっと獣の物の怪が取り憑いているに違いない……美しい桐壺様を喰らうために……そう思う私を否定するように、帝の皮を被った目の前のそれは、傍らに太刀を置き、桐壺様ごと私を抱きしめ告げた。 「私のこの身体は今、桐壺の発情期にあてられているのだよ。首だけとなっても、彼女の匂いは私の身体を狂わせる……。しかし、君以外の雌を求めてしまうなんて、私は宮に誠実ではなかったね。桐壺がいるうちは私たちが結ばれないのも道理だ。だから桐壺の首を刎ねた。これで私の愛を信じ、身を委ねてくれるだろう?」  ふぅ、ふぅと荒い呼吸が聞こえる。これは……私のものだ。私は知らぬ間に息を荒らげ、全身を震わせていた。感情はどこか遠くに飛んでいってしまったのに、身体だけが目の前の恐怖に反応していた。  私たちが昨年交わした言葉を、物の怪が知っているとは思えない。ともすれば、目の前で微笑むこの方はやはり帝ご本人なのだろう。そうとわかると、膝にあたる熱い昂ぶりが恐怖をさらに増長させる。これは桐壺様に向けた情欲のはずだが、この情欲を超える執着を帝は私に向けていると、そして私の一言のせいで帝が桐壺様を殺めたと、知ってしまったから……。  あやまちを拒否したあの日、私はなんと言ったのだったか。桐壺様のために結ばれぬほうがいいと告げたのだ。帝は「わかった」と仰った。桐壺様をこれまでどおり大切にするという意味だと受け取っていたのだが、私の言葉は捻じ曲がって帝に届いてしまったのか……。  私の頬に指を滑らせ、帝は仰った。 「君は私の運命だ。準備に時間がかかってしまったけれど、君と私はこれから一生ともに過ごす運命なんだ」 「運命など……そのようなもの、平多の私には存在しません……」 「私が運命と言ったら運命だよ」  微笑んでいるのに強い圧を感じる。支配者たる主芙婀の、それもこの国一の方である帝のその有無を言わせない口調は、私から反駁の余地を奪う。 「愛しているよ、宇治宮。君が私のもとから離れることは許さない。君の運命の相手は私以外認めない」  頭を引き寄せられ、唇が重ねられた。口の中に帝の舌が侵入してくる。押し返すこともかなわず、私の口内は深く深く蹂躙された。そのうち完全に力が抜けた私の腕から、桐壺様がごとりと転がり落ちる。 「……ぁ」  桐壺様のために、帝の運命のお相手は桐壺様だと諭し続けなくてはならない。それだけが唖然とする私の気力の源だったのだが、この手から桐壺様を失ったことで桐壺様にも見放されたような気がして、振り絞るべき精根が消え失せてしまった。  脱力していると、ふわりと身体が宙に浮いた。帝が私を横抱きしたのだ。 「宮を抱ける日をずっと待ち望んでいたよ。逢えば衝動を抑えきれないと思って逢瀬を自制していたが、正解だったね。君の体温、香り、すべてが何より私を燃え上がらせて、もう止まれない」  耳にかかる吐息が熱い。私を見つめる瞳に宿る情念は、仰るとおり、もはや留め置くことなどできないのだろう。  倒れ伏す大弐を跨ぎ、他の女房たちを蹴り飛ばし、帝が妻戸に手をかけると、内側からひいと悲鳴が聞こえた。私付きの女房がまだ数人、陰から私たちの様子を見ていたらしい。その場にひれ伏した彼女たちに、帝は言い放った。 「今すぐ出ていけ。明日一日、何者も立ち入ることを禁ずる」  それは、宮中が大混乱に陥っている今、とうてい無理難題に思えたが、有無を言わせぬ厳命に、女房たちは皆首を縦に振ることしかできずにいた。それを見下ろす私は、このあと何が待ち受けているか考えることも放棄して、ただぼんやりとしていた……。 「あっ、……や、ん……っ」  尻に指を入れられて、いったいどれほど経つのだろうか。格子が閉ざされた母屋の中は薄暗く、むんとした熱気が私たちを包んでいる。厳しい寒さにもかかわらず、畳に横たわる私はうすらと額に汗を浮かべていた。  胎の中を帝の指が三本、我が物顔で行き来している。私はすでに小袖を脱がされ、生まれたばかりの姿を帝に晒していた。そのうえ、情けなくも両脚を大きく蛙のように割り開き、むず痒いような気持ち悪いような不思議な感覚に、声をあげることしかできなかった。 「宇治宮、感じているんだね」  そんな私を見下ろす帝は、満足そうに微笑んでいる。つうと人差し指で私自身をなぞられて初めて、私は自身のものが勃ち上がっていたことに気づかされた。ぶるりと全身を震わせる。太ももにあてられた帝の股間は熱く、硬く、雄々しかった。 「可愛い可愛い宇治宮」  帝はまるで幼子に言い聞かせるように繰り返してから、私の胸に吸いついた。ぢうぢうといやらしい水音を立てて乳首を弄られるたび、私の身体は快感を拾った。そして、熱のこもった指先に自身を数度擦られただけで達してしまった。きゅうと胎の中を無意識に締めてしまい、帝の指をいっそう感じてしまう。小さく呻くと、帝は指を引き抜いた。代わりに、ご自身の逸物をあてる。はっと息を呑むより早く、それは私の中に押し入ってきた。圧迫感に全身力をこめても、帝は構わず、激しく律動した。執着心をすべてぶつけるように、何度も何度も私の最奥を突き、そして果てた。 「っ、……ふっ」  熱い激流が私の身の内を満たしていく。汗を滴らせながら頬を蒸気させる帝は、この世の何よりも美しく、神々しく、私は身体の痛みも快感もすべて忘れて、帝を見つめた。  帝は私が見惚れていることに気づくと、そっと唇を触れあわせる。 「君が私の養い子になってくれて良かった。君と出逢えて良かった。桐壺の思し召しだね」  そうして桐壺様を思い返すとき、帝はすこぶる柔らかな表情を浮かべるのだ。それはとても人間らしく温かなものだった。この、誰の手も決して届かぬ天上人が桐壺様と過ごした時分は、確かに人として、幸せで温かなものだったに違いなかった。  そんな方の瞳に今映っているのが自分であることが許せず、やるせなかった。比翼連理の魂のつがいだけでなく、すべてを捨ててまで私だけを思われる様子が悲しくて、申しわけなくて、私しかいないのだと思うと、この手を振り払うことなどできようもなかった。 「泣かないでください……愛しい敦成(あつひら)様……」  弱々しい声になってしまったが、帝は呼びかけに気づいてくださった。畏れ多くも帝の真名を呼んだ真意にも。 「そうだよ、私はこれから帝という位を捨て、ただの敦成として君とともに生きていくんだ。それでも愛しいと、そう言ってくれるのだね」  外はいまだ騒がしく、おそらく左大臣様はじめ公卿の皆様から地下(じげ)の者(昇殿を許されていない者)たちまでが総出で怪異の謎を究明しようとしているはずだ。そして、帝、否、敦成様の処遇を検討しているに違いない。これほどに聡明で臣からの信頼も厚く、誰よりも優れたお方であるにもかかわらず、今回の騒動で敦成様が帝の位を降りることは必至であろう。彼を捕らえるため、今この瞬間、武士たちが押し入ってくる可能性すらあるのだ。  それでも私はただ敦成様の胸元に身体を寄せ、二人の時間を味わうことにした。敦成様が私をかき抱くそのお姿に応えたいと思ったから。 (許してください、桐壺様……)  思い起こすのは、最後に見たこうべだけの優しい人。あの柔らかな死に顔は、私と敦成様の行く末を許してくださったからだと思っても良いだろうか。それは都合が良すぎるというものだろうか。 「康仁、私の腕の中にいながら、私以外のことを考えているのかい?」  嫉妬に焼かれる敦成様の声に、ふと我に返る。「……いいえ」  たとえ許されなかったとしても、いまさらこの方のもとを離れることはできない。ならば、考えても意味がない。  桐壺様のことを頭からのぞいて、私は今度こそ敦成様のお身体にしがみついた。  二人で幸せになるために。

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