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Part1:Touch It⑤

妙な寝苦しさに目を覚ますと、薄暗い視界の中、睫毛がシーツをしぱしぱと叩く感覚に、昨夜ベッドに正面から倒れ込んだまま、寝落ちてしまったのだと思い至る。  想像するにそれはさながらシューティングゲームで倒されたゾンビのような様だったろうと、一人暮らしであることに深く感謝しつつ、自分の不甲斐なさには辟易しながら、口の横の涎を拭いた。  スマホが入ったままのジーンズのポケットに違和感を感じ、すぐさま取り出すと、SNSの通知に表示される黒川健一郎の名前に、昨夜の出来事の一部始終が一気に脳に流れ込んできて、俺はこめかみを押える。 「まあ、夢オチのわけねえよな…」  メッセージには今度はいつ会えるかとあり、俺はひとまずけんちが飽きるまで、友人として付き合ってやることにして、適当に返事をした。  案の定、昼間、バイト中に「今日会えるか」というメッセージが来ていて、夜はLa Marにいることを伝えた。 「こんばんは、マスター」 「いらっしゃい、黒川くん」  けんちは余程ここを気に入ったのか週3くらいのペースで、岳さんのペペロンチーノを食べに来る。  俺たちに何があってこうなったのか、岳さんは詮索してこないが、全部お見通しなんだと思う。  それでも興味本位で突っ込まないでいてくれるのは、本当にありがたい。  何故なら俺にもこの関係がなんなのかはっきりせず、説明のしようがないから。  そしてこの関係に名前を付けるには、俺はあまりに恋愛というものを知らなかった。  けんちはそうやって店にやって来ては、食事をしながら俺やマスターとおしゃべりして、満足そうに帰っていく。  他にも買い物に付き合ったり、バーの仕事が休みの日は他のところに食べに行ったり、けんちは暇さえあれば俺を誘い出し、俺も特に予定なんかないからそれに付き合っていた。  だから俺は、このままこいつとダチとしてやっていくのもありか?なんて錯覚しては、時々熱のこもった瞳で俺を見ているけんちに気付いて、何を都合のいいことを、と我に返る。  そんなことをもう数週間も繰り返していた。 「久しぶりだな、伊織」 「お?おぉ、三春。マジで久しぶりだな」  雪が本格的に降り始めてきたある日。  客足の少ないバー。  暇を持て余した岳さんは弓型の出窓に腰掛け、ギターを弾きながら洋楽を口ずさんでいる。  けんちからのお誘いもなく、俺もぼんやりとグラスを磨いていると、カランコロンという音ともにやってきたのは、高そうな黒のロングコートに身を包んだ三春だった。  確かにこいつと会うのはあの仰天告白を聞いた時以来で、久しぶりに会う親友の顔は、あの夜の追い詰められしょぼくれた酔いどれのそれとは違い、どこか憑き物が落ちたようなすっきりとした顔をしていた。 「…なんかご機嫌?じゃないか?」 「ああ、坊やと付き合うことにした」  俺の前のカウンターに腰掛けた三春。  訝しげに尋ねる俺にけろりと放った三春の言葉を理解するまで、俺は間の抜けな顔をしてたことだろう。  開いた口が塞がらないってのはこのことだ。  確かにあの時適当にけしかけたのは俺だが、この歳まで操を守ってきたお堅い三春が、ふた周りも年の離れたお坊ちゃまとくっつくとは。  あんだけアルファを憎み嫌ってきた三春がその考えを変えてまで、交際に踏み切った中坊ってのはどんなやつだ? 「あ…てことはお前もしかして」 「お前の下世話な質問に答える気はないぞ。彼は成人するまで待つ気でいるらしい」 「そりゃひでえだろ!アルファの中坊なんか性欲有り余ってんじゃねえのか?」 「お前と一緒にするなよ。  …それに私だって本当に彼が成人するまで我慢させたいわけじゃないさ。でも彼の方がそう望んでいるんでな」  「私を大事にしたいらしい」と、思い出すように呟いて、ふっと笑いを零す三春。  長い間こいつの友人をやってきたが、そんな穏やかな顔をするんだと面食らってしまう。  その坊ちゃんは、確実に三春を変えてる。  俺は胸の奥でちりちりとするような感覚に、かぶりを振った。 「なんだ?気に入らなそうな顔だな。お前の言ってたことを参考にしてみたんだが」 「そうじゃねえよ。まあアルファ様とオメガ様なら案外歳なんか問題ねえんじゃねえの」 「棘のある言い方だな。話を聞いてやろうか?」 「うっせ!つい最近まで恋愛なんかしないって言ってたやつに聞いてほしい話なんかあるか!」  この間までアルファのガキに迫られて、酔っ払いながらカウンターに突っ伏して頭抱えてたやつが、今日は落ち着き払った余裕綽々といった感じの顔でそんなことを言ってくるから、俺は面食らってしまって、プチパニックで三春に食ってかかってしまう。   「マスターから、お前がアルファの男に出会って楽しそうにしてるけど、アホだからぐるぐる悩んでるって聞いてな」  岳さん、ひでえ!  どうやらこの店には個人情報保護という概念が存在しないらしい。 「アホはあいつなんだよ。  アルファのくせにベータのそれも男にのぼせ上がりやがって。あんなんはアレだ、アレ。一時の気の迷いってやつだ。どうせいつか俺がベータってことが許せなくなるに決まってんだから。  …そんなのまともに付き合うだけ無駄なんだよ」 「の割には辛そうな顔だな」 「そりゃあいつが、なんか…なんか俺みたいのが大事にされて、一丁前に愛されていいみたいな…価値があるみたいなよぉ」  自分で言ってて途中から恥ずかしくなってきて、言葉の最後は情けないほど小さく、消え入るようなボリュームになった。 「価値があるんだ。お前にはその価値がある」  俺が気持ち悪くごにょごにょしてると、宝石のようなアンバーの瞳に珍しく真剣さを滲ませて、俺を真っ直ぐ見つめながら三春が言った。  一回目は俺の言葉を受けて弾かれるように、まるでアホなことを言うなと言わんばかりの声色で、二度目は俺を納得させるように、いつも口を開けばジョークや皮肉を言い合ってきた三春とは思えないような重みを含ませた声で。 「お前の過去は関係ないし、それでお前自身の価値が変わるわけじゃない。  お前が自分を無価値なように言う度、そのお前を好きだという青年や、私さえ貶めてるということが分からないほど馬鹿だったのか?」  まさか三春がこんな風に思っていたとは…。  でもその言葉の切れ味たるや、さながらチェーンソーのように鋭く、俺のもはや意固地とも言うべき決意をバラバラにぶった斬った。  そこで岳さんやチャーハンに言われたことを思い出し、ようやく二人が言っていたことも三春の言葉と同じ意味だったんだと理解する。  俺は自虐的に卑下したり、相手のことを思いやってるつもりで言ってたことも、単に自分を好きでいてくれる人間を傷付けてるだけだったのか…。 「もしお前がその青年に好意を抱いてるなら、付き合ってみればいいじゃないか。  お前はもっと適当でいいんだよ」 「お前ね…」  ふっと皮肉っぽく笑う三春。  それはまさにこの間俺が三春に言った言葉で、そっくりそのまま返された俺は返す言葉が見つからず、がっくりと肩を落とした。 どうすればあなたは電話をくれる? そもそもなんでこんなに気にしてしまうんだろう あなたがそばにいない時も 頭はあなたでいっぱい あなたはここにはいないのにね 触れられていない時は どうやってあなたを感じればいい? 僕が欲しいって言ったくせに なぜ「もう来ない」なんて言うの? ベイビー、ここに来てよ  窓辺の岳さんが、英語の歌を歌っている。  俺はよく知らないけど、日本にも来たことがあるような有名な海外の歌姫らしい。  岳さんが一日中店のオーディオでそのアルバムを流すもんだから、一度そのアルバムを借りて部屋で聴いてみたことがある。  翻訳された歌詞カードを眺めながら、俺には縁遠いラブソングの世界に白目を剥いたのを思い出した。 僕が息を殺してる時 あなたはどうやって僕の呼吸を感じるの? 今夜だけ危険を冒してみようよ すぐ忘れてしまってもいい それでもいいから なんで距離を置くのか思い出させてくれ だってこんなの明らかにおかしい お互いを欲しがってるのは分かってるのに 二人でこの恋に落ちていきたい ベイビー、恋に落ちよう  スローテンポなギターアレンジで、岳さんのミドルボイスがバラードを切なく歌い上げる。  思い出した歌詞は俺とけんちのことを歌っているようで、俺は心臓が速まるのを感じた。 あなたにハマってしまったんだ あなたが行きたいと言った場所も全部覚えてる 僕も連れてってくれ いつでもいいんだ 誰にも邪魔はさせないから あなたに会うと大人しくなれない 我慢することに疲れてしまったんだ だからペースをあげよう 僕を連れて行って いつだっていいから 誰も二人を冒すことはできない 「俺、ちょっと…」 「分かった分かった。マスターには私が言っておく」  俺はエプロンを脱いでカウンターの下に放ると、スマホを取り出し「会えるか?」とだけ打ち込んで、けんちに送信した。  光春に言いよどみながらも俺の体は先に動いていて、カウンターを抜け出す。  三春はそんな俺を見て、澄ました表情で頷きながら、ミネラルウォーターの注がれたグラスに口を付けつつ、横目で俺を促した。  返信も待たずに俺はLa Marを飛び出すと、年甲斐もなく息せき切ってただひたすらに走った。  大粒の雪が顔や手にくっついてはそこから体温を急激に奪っていく。  厚着もしないで、そもそも会えるのかさえ分からないのに、我ながら正気の沙汰じゃないと笑いが込み上げてくる。  全速力で走って胸が潰れそうだからか?  それともお前に会えるかもって思うから?  こんな風に胸が痛い気持ちを俺は今まで感じたことがないんだ。  お前ならその答えをくれるって言うのか?  あの空色のサーフショップが見える。  俺は明かりの中に見慣れた姿を見つけて、店に飛び込んだ。 「伊織?あんた、どうしたんだ?」  ドアを開けて店内に飛び込むと、真冬だってのに汗がどっと吹き出し、俺は膝に手を付きながら、乱れた呼吸を整えようと必死に酸素を求めた。  四十前のおっさんには全力ダッシュはキツい。  少し落ち着かせてからゆっくりと顔を上げると、今まさに俺からのメッセージを確認していたのか、スマホを片手に目を丸くして俺を見つめるけんちがいた。 「ちょっと待ってろ、今タオル」 「お前が好きだって言ったら迷惑か?」 「え…?」 「本当は多分…結構前からお前のこと好きだなんて、今更言われてもお前は迷惑か?」  俺の言葉を頭で反芻しているのか、しばらくぼっと俺を見つめていたけんちの瞳が、その言葉の意味を理解したのか、薄い膜に濡れて揺らめくのが分かる。  あ、やばい。俺も泣きそうだ…。 「なんで…迷惑なわけ」 「じゃあ付き合うか?」 「…いいのかよ」 「多分、楽しいことばっかじゃねえぞ。  お前は…俺たちは色んなもんを羨んだり、諦めたりしなきゃいけない」 「別に、そんなこと」 「いつか俺が男で、しかもベータだってことが許せなくなる日がくるかもしんねえ」  俺の言葉はちゃんとけんちに届いてるだろうか?  震える唇で、消え入りそうな声で絞り出した言葉は間違われることなく、けんちに伝わっただろうか?  自分の気持ちを誰かに預けるのがこんなに怖いなんて知らなかった。 「俺はいつか手放さきゃいけなくなるかもしれないなら、初めから受け入れない方がいいと思ったんだ」  だってきっとその方が楽で、色んなことに怯えなくて済むんだ。  性別、年の差、第二の性。  俺のどうしようもなく怠け者なところとか、本当は臆病で消極的なところも。  いつか来るかもしれないけんちの心変わりに怯えて、不確かな毎日を送るのは嫌だった。 「だけどお前が俺の横で笑う時…。  …これだ。本当はこれこそ俺が求めてたものなんだって、思っちまうから…だから」 「伊織…」 「どうせ傷付くなら、受け入れてみようって思ったんだ」  「俺と付き合ってくれるか?」。  ひゅっと短く息を吸って、生唾を呑み込んだあと、俺は出来るだけけんちから目線を逸らさないようにして言った。 「バカやろ…。なんであんたが言うんだよ」  言い切るのが早いか、けんちの体がゆらりと動いて、次の瞬間には俺は手を引かれ、けんちに抱き竦められていた。  けんちが俺の肩口に顔を寄せ、匂いを嗅ぐみたいに鼻を首筋に擦り付けるのがくすぐったくて、俺は身を捩りながら短く笑う。  気付くと唇や指先の震えは止まって、張り詰めていた何かが解けて、代わりにあったかいものが胸の辺りを満たすのを感じた。 「つまりオッケーてこと?」 「ああ…」  けんちは俺の肩に顔を沈めたまま言うと、素っ気ない返事の代わりとでも言うみたいに背中に回した手に力を込めた。  鼻を啜るような音と、首に掛かる湿った吐息で、けんちがなんで顔を見せないようにしてるのか理解すると、俺も熱いものが込み上げてきて、けんちの鎖骨の辺りに額を付ける。  体格差からすっぽりとけんちの胸に収まってしまうのが気に食わなかったが、そんなことを考えられるようになるしばらくの間まで、俺たちはただそうしていた。 「あのな、しつこいようだけど言っとくぞ」 「おい、やめろ。今、いいところだろ」  ロマンチックな曲とかによくある、この瞬間が永遠に感じられるとかはなく、俺は思い出したように話しを始める。  水を差すなと言わんばかりに、不満げな声のけんちなんか知ったことではない。  だってそうだろ。  付き合うとは言ったけど、俺がベータのおっさんで、意外と傷つきやすいというめんどくさい事実は変わらないんだから。 「お前がどんな恋愛してきたかよく知んねえけど、多分きついことの方が多いぞ」 「望むところだ」 「お前はいつだって俺を捨てていいんだ。というかそうしてくれ。お前を不幸にさせてんじゃないか、とか考える方が俺にはしんどい。  …でもそん時はお前も精一杯、俺の傷が最小で済むように努力してくれ」 「…分かった」 「なんだよ、その心底不満って顔は」  体を離してけんちの顔を覗き込むと、見たことない苦虫を噛み潰したような顔をしていて、言葉とは裏腹に、声色は全く納得していないという感じ満載だ。 「あんたが色々抱えてんのは理解した。だからその条件は死ぬほど嫌だけど呑むことにする」 「お、おー…」 「でもな。俺の気持ちを勝手に決めつけんなよ。馬鹿みたいな先読みもすんな。  俺があんたのことだけ考えてる時に、そんなくだらねえことばっかり考えられたらたまんねえんだよ」  こいつは覚えてるんだろうか。  お前が初めて俺に告白してくれて、俺がお前を振った夜のことを。  あの時と同じ言葉に、こいつの気持ちがあの時から全く変わってないのを感じて、俺は先回りして色々ごちゃごちゃと考えてしまうのをやめることにした。 「それよりあんたこそ覚悟しろよ。俺は結構重たいんだぜ」 「…はー、もう好きにしてくれ」  「なら、キスしてもいいか?」とわざわざ聞いてくるけんちに、そういやこいつ見た目の割に真面目なヤツだったな、と思い返しながら、OKの意味を込めて唇に少し触れるだけのキスをした。  すると続けてけんちの唇が降りてきて、さっきよりも長く口付けられる。  鼻息が荒っぽいけんちに、呼吸が苦しくなってきた俺が背中をタップすると、感無量って感じの顔のけんちと目が会い、また唐突に抱きしめられたかと思うと、さっきと同じく俺の頭に顎を乗せたけんちは表情を悟られないようにした。 「泣くほど嬉しいかよ、サーファー君」 「うるせえ…」  むず痒いような感情が胸に溢れて、俺はたまらず笑い声をあげた。  これって「愛おしい」ってやつか?  俺は今まで感じたことのなかった穏やかな気持ちに、背中に回した腕に力を込めることで、けんちに応えた。  この初めて抱く感情や、この年下の恋人がくれる優しい言葉一つ一つを大事にしていこう。  いつか別れが来るかもしれない。  それでもそれまでの時間を大切にしながら、ちゃんとこいつの気持ちに応えていこう。  最初か、最後かそれは分からないけど、これが最後でもいいって思えるくらい、全力でけんちに飛び込んでいこう。  けんちに抱きしめられている間、俺はそんなことを考えながら、けんちに身を委ねていた。 Part1:Touch It おしまい 「そういや俺、店飛び出してきたんだった…」 「マジか。じゃあ俺も店じまいして、La Marに行くか。腹も減ったし」  しばらくして俺は、岳さんに何も言わず飛び出して来たことを思い出し、けんちの腕の中で青ざめる。  けんちの提案に、けんちを連れて行けば少しは岳さんも手加減してくれるか?という俺の甘い考えは、店に着き、出迎えてくれた岳さんの氷のような笑顔に打ち砕かれ、その後けんち共々、岳さんの豊富なボキャブラリーから繰り出されるマシンガンのようなお叱りを受けることになるんだが、それはまた別の話。

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