4 / 5

Part1:Touch It④

「おいーす」  次の日の朝。  寝覚めはもちろん最悪で。  洗面所の鏡に映った自分の酷い顔に、ため息を吐きながらも支度をして、バイト先へ向かうと、いつにも増してやる気のない挨拶をする俺に、店長と高名が揃ってこっちを見た。 「嶋くん、どうしたの。いつも以上に腑抜けてるね」 「もしかして昨日のガングロ野郎となんかあったんすか」  バックヤードに入るなり浴びせられた、容赦ない質問に白目を剥きそうになる。  二人の口撃に重いため息で返事をして、俺はロッカーへ向かった。  しかしそれきり二人からの追求はなく、普通に仕事をしていれば、昨日までのドラマのような出来事なんかまるで夢だったかのように、何もない時間が過ぎていく。  時々暇を持て余したり、ムカつく客の相手をしたり、俺は自分で選び取ったはずの日常を取り戻して、猛烈な虚無感に襲われていた。 「これでよかったんだよな」  言い聞かすように呟いてみて、乾いた笑いが溢れた。  そうだ。街中の喧騒から離れて、社会の落伍者として細々と地味に生きる俺なんかには、初めからドラマだの運命の恋だのはファンタジーの存在だったのだ。  そう。俺なんか社会のゴミクズとして、粛々と人目をはばかりながら生きていけばいいんだ…。  そこまで思って、このまま頭で考えていても際限なく卑屈になっていく気がして、俺は高名にちょっかいを出すことによって、なるべく黒川のことを考えないようにした。  こうやって少しずつ忘れていけばいいんだ。  あいつだって2、3日も経てばおれのことなんか忘れて、可愛い女の子とデートしてるだろうさ。  …と思い始めていたその日の夕方のこと。  そろそろ上がりだな、とぼんやり時計を見つめていた俺にまたもや青天の霹靂がやってきたのだ。 「よお」 「ぶっ!な、おまっ、黒川健一郎!」  ピンポーンと軽快なチャイムと共に入ってきた男を見て、俺は盛大に吹き出す。  白のタートルネックから小麦色のイケメンを生やして、気さくに話しかけて来たのはもう会うこともないだろうと思っていた、黒川健一郎だったからだ。  なんでまた現れたんだ?昨日あんなこっぴどく振られて、なんでそんな普通な感じなんだ?ていうか俺の顔なんか見たくないだろ、普通。そもそもなんでこいついつも俺の上がる時間にやってくるんだ?  想像してなかった展開に、俺の脳内にはあのマトリックスの有名なコーディング画面の如く、次々と疑問が噴出して雪崩込み、情報処理がおっつかない。  「おぉ黒野郎、また嶋さんのお迎えかよ」  フリーズしてる俺を横目に、空気の読めない高名は何も知らずに(言ってないから仕方ないけど)黒川に話し掛けてる。  黒川も普通に会話していて、次第に和気藹々とした空気が流れ始める。  俺は職場の後輩と昨日振ったばっかの男が仲良く話してるという普通じゃない状況に、どこかの並行世界にでも転生したのかと疑い始めるが、そんな訳ねえ!と心の中の自分が激しくツッコミを入れたので正気を取り戻した。 「いやお前、昨日の今日で何の用だよ。あ、もしかしてお釣り取りに来たのか」  これ以上高名と意気投合されると大変よろしくないことになりそうだと思い、意を決した俺は二人に割って入る。  丁度、昨日岳さんから渡された黒川のお釣りを思い出し、スボンのケツポケットから財布を取り出すと、予め自分のお金とは分けて入れておいたお釣りをカウンターに置き、黒川に突き出した。 「いや、お釣りはいらない。それより昨日の飯のお返しをしてくれ」 「は?!だってあれは俺がお前の命救ったお礼だろ?」 「ああ。でも奢りは奢りだ」  開いた口が塞がらないとはこの事で。  俺は黒川のあまりのとんでも理論に、返す言葉が見つからず、口元を引き攣らせた。  はぁー… どういう理屈だよ、そりゃ。  ちらっと黒川を見やると、至って真剣な顔つきでこっちを見ていて、冗談や言いがかりの類いで言っているわけでは無いことが分かる。  確かに元々あのチンピラたちと因縁があったのは俺で、実のところ命の恩人でもないのに、見知らぬイケメンに強引に飯(といってもシャンパンとチーズだけだけど)を奢られてしまったという事実と、それに対して若干の罪悪感があるのは認めるが、かといってそんな義理を果たす必要があるのか?  つーか、単純に振られた相手にお返しを求めるってどんだけメンタル強ぇんだよ、こいつ?!  最近の若いヤツは…という、いかにもジジ臭い思考が頭を巡る中、高名が「嶋さん、義理人情は果たさなきゃなんねっす」とか余計なことを言ってきて、黒川もそれに乗っかるように「丁度ここにお金もある、それで飯奢ってくれ」と、カウンターに置かれていたお釣りを突き返してきた。  アホらしい。こんなの茶番だ。  ぶっちゃけその通りで、そう言ってすげなく断ることも出来ただろう。  でも黒川はあんな風に振られても、また俺の前に現れた。  全然理解出来ないが、それほど俺は思われているらしいのと、これは神様仏様が、いつまでお前はみっともなく逃げ回るつもりなのかと咎めているようにも思えて、自分の中にあるわだかまりと決別する為にも、なによりここまで馬鹿正直に思いをぶつけてくる黒川の為にも、振るにしたってちゃんと事情を説明するべきだという考えに思い至る。 「分かった、分かった。もうすぐ上がるから待っとけ」 「…え、マジでいいのか?」 「早くどかないと気が変わるかも」 「分かった。雑誌のところで待ってるな」  おーおー、嬉しそうな顔しちゃって…。  改めて、なんで俺のことなんか好きなんだろう、と思ってしまう。  もしもっと早く黒川に出会っていたら、何か変わってたんだろうか?  そこまで考えてはっとすると、俺はないないと頭を振った。 「お疲れ、チャーハン」 「あいつと付き合うんすか、嶋さん」 「…馬鹿言え、あいついいヤツだろ。俺なんかじゃ可哀想じゃん」 「なんでっすか?嶋さんもめちゃくちゃいい人っすよ。上手くいくといいすね。お疲れっした」  私服に着替えて高名に声を掛けると、昨日岳さんに言われたようなことを言われて吃驚する。  返事に困っていると、元気よく挨拶をして高名は店を出ていった。  別に卑屈になってるわけじゃない。  でも36にもなって定職にも就かず、実家からは勘当同然に追い出され、好き勝手やってきた男なのは事実だ。  親しい人達がなんと言ってくれようと、世間的に見れば俺はろくでなし一発合格だろう。  正直、最初ほど黒川の好意も煩わしくない。  むしろ嬉しい気持ちの方が大きくなりつつある。  でもだからこそあいつを思えば、簡単に付き合うなんて言えないだろ。  いつかあいつが人生を振り返った時に、黒歴史だなんて思われたくないし。 「…お待たせ」 「おう。じゃあ行こう」  ファッション雑誌をパラパラと流し読みしていた黒川の後ろ姿に声を掛けると、平静を装うとしてるけど、嬉しさが隠し切れないって感じの顔で振り向かれて、良心が痛む。  あまり黒川の顔を見れずに、いそいそと店の自動ドアを抜けると、冷たい風が一気に流れ込んできて、Tシャツにパーカーだった俺は方を竦ませて、全身を震わせた。 「なんでそんな薄着なんだよ」 「まだ昼間あったけえから大丈夫かなって思ったんだよ」 「ほらこれ」 「いや、ちょっとくらい首冷やしたって死なねーって」 「いいから、巻いとけよ」  言って黒川は俺の前に立ち、でかいウールのマフラーを鞄から取り出すと、俺の頭に被せて、そのまま余りを首に巻いた。  黒川はカシミアのマフラーをしているし、わざわざ鞄から取り出したのを見ると、最初から用意していたと考えるのが自然で、とても居心地が悪い。  しかし拒絶する間もなくぐるぐる巻きにされ、本当を言うと死ぬほど寒かった俺は、ひとまず借りておくことにする。  インドのサリーみたいになってる俺を見て黒川は、ふっ顔を綻ばせると、満足したように俺の前を歩き始めた。 「おい、どこ行くんだよ」 「あんた今日バーの方は休みなんだろ?だから今日は俺の行きたいところ付き合ってくれよ」 「なんでそんなこと知ってんの、お前」 「昼にあそこのマスターに聞いた」  こいつなんで普通に La Mer に行ってんだ…。  ていうか岳さん。それは普通に個人情報流出です…。  そして時折何回も後ろを振り返っては俺を確認する黒川に、そんなに気にしなくたって逃げたりしねえって、と俺は心の中で独りごちた。 「ここだ」 「ここ…おー、ロブスターサンドか」  一しきり歩いて海の近くまで来ると、最近テレビとかでも見た気がする有名なサンドイッチの店があって、そこで黒川は足を止めた。  俺はこの店のロブスターサンドがとにかく美味いというのは聞いていたが、来たのは初めてでちょっとテンションが上がる。 「しっかしここってイートインあんのか?」 「いや、テイクアウトして、違うところで食うんだ」 「違うとこってどこだよ?」 「いいとこ」  黒川がロブスターサンドに、海老のビスクや、グリーンサラダなんかを適当に頼んでいるのを横目に、俺は両腕を擦り、縮こまりながら店内の奥を覗くが、厨房が続いてるだけで客席は見えず、店先で商品を手渡すスタイルなことから、どこで食べるのか遠回しに聞くと、黒川は振り返って子供のような顔で笑ってわざとらしく誤魔化した。  こいつ、こんな顔もするのか…。  オムライス出してやった時の顔とも似てるが、どっちかと言うと悪戯なガキのような表情で、おもしれぇなあと感動していると、黒川が財布を取り出したから、俺は慌てて昨日のお釣りをカウンターに出した。 「これでチャラだぞ」 「分かった、分かった」  偉そうに言ったがこのお金だって元々黒川が置いていったお金だから、俺が奢ったとは言い難いが、黒川は納得したようにまたふっと笑って、商品の入った紙袋を受け取り、再び歩き出した。  それからもしばらく黒川について歩いていくと、とうとう初冬の風が吹き荒ぶ冬のビーチに出た。 「おい、まさかここでピクニックでもおっぱじめようってんじゃ…」 「もうちょっと先だ。ほらあれが俺の店」  歯の根が合わなくなってきて、さっきからずっと震えている俺に少し顔を近付けて、あれ、と黒川が指差した先には海沿いにぽつりと立ったサーフショップが一件見えた。  そこでやっと俺は、黒川がサーフショップをやっていたということを思い出した。  水色の外壁は所々潮風で傷んでいるが、逆にそれが味を出していて、建物の上の方には波と太陽を象った看板があり「WAVES」と記されている。  店はビーチへの入口に程よく近い所に立っていて、建物の2倍くらいあるテラスにはテーブルや椅子も並んでいた。 「夏には海の家とかもやってる」  俺が興味深げに辺りを見回していると、小さく笑いながら黒川が言って、俺はきょろきょろと無遠慮に物色していたことを謝罪した。 「悪ぃな、じろじろ見ちまって。しかしすげえな。儲かってんのか?」 「まあ、ぼちぼちって感じだ。そんなに簡単じゃねえよ。でも好きなんだ。一日中海を見て過ごせるしな」 「あ、まさかここで」  謝っといてすぐに不躾な質問をする俺にも、黒川はからっと笑う。  それから海の音に耳を澄ませるように目を瞑った黒川を見て、なんとなくぼんやりと幸せなんだな、と思った。  それと同時に嫌な予感がして、俺は冬将軍舐めんなと言わんばかりに黒川へ詰め寄る。  すると黒川はまたわんぱく少年の顔で、にっと口角を上げると「そのまさかだ」と言い放つ。  青ざめる俺を横に、黒川はフリンジの付いたチェック柄のマルチカバーが敷かれたデッキチェアを持ってきて、紳士がレディにするような仕草で俺を椅子にエスコートした。 「待ってろよ。今、ヒーター持ってくる」  とりあえず腰掛けた俺に、もっこもこの手触りのいいブランケットを被せると、これまた準備していたんだろう、店の鍵を開け、入ってすぐの所に用意されていたヒーターを持ってくると、手際良く起動させる。  頭にマフラーを被り、体にはブランケットを巻き、ケツにはシーツ、足元にはヒーターと至れり尽くせりで、しばらくすると冬の海辺ということは気にならないほど温かくなっていた。 「ほらスープ。熱めにしてもらったから、舌やけどしないようにな」 「…」  どんなスパダリだよ?!と思わずツッコミを入れたくなるスマート対応で、思わず自分の性別を疑いたくなるが、生憎俺はアラフォーベータのおっさんである。  何かこそばゆいものを感じずにいられなかったが、流されるわけにはいかない。 「あんた言ったよな。人にものを尋ねる時はまず自分からって」 「お?おー…そんなこと言ったか」 「言った。だからまずは俺のこと知ってもらおうと思ってさ」 「あー…だからな」 「いいんだ。それでダメなら俺も諦める」  なんで俺なんだよ。  頭に浮かんだ言葉が、喉元まで来てなかなか声にならない俺を見て、黒川は自分自身を納得させるように言った。  躊躇ってんのか? なんで…  本当は分かってる。  ずっと気付いてないふりしてるけど、黒川に出会って自分が久々にわくわくしているということ。  チャラい見た目と裏腹に、少しぶっきらぼうだけど正義感が強く、喋ってて気持ちのいいこの男に好意を寄せられ、俺は割りと満更でもなく、ともすれば恋の始まりに感じるようなむずむずした気持ちを抱いていたことは、岳さんにも見透かされていた通りで否定できない。 「俺、十代の頃は母さん達の期待がプレッシャーで、馬鹿ばっかりやってたんだけどな…」  俺がぐるぐると考え始めて、どこを見るともなくぼーっとしていると、黒川がゆっくり喋り出してはっとする。 「なんでか海に来てる時はそういうの全部忘れられたんだ」 「そういうの?」 「まあ、なんつうか…プレッシャーとか、それに反発するのに色んな人に迷惑掛けたり、アホなことしたりな。とにかくなんでも、全部。波の音聴いて、風に吹かれて、空を見る」  「そうするとその間、全部忘れられるんだ」と言って、夜空を見上げた黒川を見て、俺も釣られるように自然と上を見上げる。 「わ…」 「凄いだろ。街中と違って、空が限りないっつーか」  黒川の言う通り普段街中にいて、こんな風に星空に感動することはなかっただろう。  冬の痛いくらい澄み切った夜空は、水平線がなくなったみたいに夜の海に溶けて、視界を遮るものがないことも合わさって空がよりでかく感じる。  街の灯りに加工されることなく、星が自分自身で輝き放つのを見て、俺は言葉もなくただアホみたいな溜め息を漏らしていた。 「喜んで貰えたみたいだな」 「あ?お、おー…」 「良かった」  俺はしばらく夢中になって、空を眺めていたらしい。  黒川に声を掛けられ、慌てて我に返った俺はさぞかし間抜けな顔をしてたことだろう。  居心地悪そうに横目で黒川を見やると、とんでもなく嬉しそうな顔をしていて言葉が詰まった。 「食べようぜ。スープが冷める」  黒川は紙袋からロブスターサンドや海老のビスク、サラダやら何やらをテーブルに取り出したあと、またまた用意してたんだろう、電気ケトルと紙コップを持ってきて、コーヒーも淹れてくれた。  それからも黒川は、両親が二人ともお袋さんだってことや、ルークっていうオスのゴールデン・レトリーバーを飼ってること、今まで付き合ってきた人数は3人で、各々アルファ、ベータ、オメガの女の子だったが、どの子とも上手くいかなかったってこと、男を好きになったのはこれが初めてで、最初戸惑ったけど、そのおかげで自分がゲイだと気付いたってことなど、たくさんの話を聞かせてくれた。  サーフィンや海のことについて語る時は子供のような顔で熱く饒舌になり、家族や女性遍歴について話す時は少し喋りにくそうに、月が俺たちの上を通り過ぎようかって頃には、初め黒川に抱いた面倒なヤツだっていう気持ちはなくなっていた。  それよりどっちかっていうと…。 でも… 「なあ、お前は良いヤツだよ」 「…やっぱり、ダメなのか」 「お前がダメなんじゃなくて、俺が…俺がどうしようもない野郎だから」  黒川が一通り喋り終えたような、ぽつりと沈黙が訪れた時だった。  口火を切った俺の言葉は震えていたかもしれない。  ややあって、黒川がふ、と諦めたような笑いを零す。  黒川のおかげで全然寒くないはずなのに、頬を突き刺す凩が、頭のてっぺんから体温を急速に奪って行くようだった。 「…俺は親に内緒で勝手に大学行くのやめて、就職したはいいけど、それもすぐに辞めちまうようなクズ野郎でさ。家ぐちゃぐちゃにして、地元追い出されて、行き着いた先でも改心するどころか男とっかえひっかえ遊んで暮らすような最低な人間なんだよ」  耳が心臓になっちまったんじゃねえかってくらい、動悸がうるさい。  俺は口走りながら、この期に及んで黒川に嫌われる覚悟が出来てない自分に心底うんざりした。  俺を見つめる黒川の瞳に、明るいところで見たような琥珀色の光は見えず、今は夜の色に染まったその目から、真意を汲み取ることは難しかった。 「でも最近になってやっと、そんな自分の身勝手で人を傷付けるんじゃなくて、独りぼっちでも何とか生きていこうって思えるようになって…。  なのにそんな時にお前が現れて…」  確かに出会い方も、知り合い方もドラマチックだし、俺が漠然と憧れていた運命ってやつと錯覚するには充分だったが、黒川が冷静な状態だとは思えないし、自分を知られていくうち後になって幻滅されるなんて真っ平御免だ。 「お前と流されるのもいいと思う。お前はいいやつだし…それにイケてるしな。洒落た店も持ってるし」  俺が冗談ぽく言うのに合わせて、何を考えているのか伺い知れなかった黒川がようやく渇いた笑いをふっと零す。  本当はそれでやめておきたかった。  でも俺は震える口先を一度強く噛むと、改めて黒川を拒絶した。 「…でもお前と出会ってから、俺は劣等感でいっぱいだよ。ぶっちゃけ自分を恥じてる。自分を嫌いなのに、誰かを好きになれるか?多分結局またいつかお前を傷付けて、めちゃくちゃにするよ…でもそれはしたくない。お前だから余計に」  黒川は何も言わない。  俺はさっきまで気持ちよかったはずの波と風の音が急に恐ろしく感じて、さしずめ処刑台に立つ罪人の気分で、黒川の言葉を待った。 「分かった。諦める」  黒川の言葉に一度どっ、と心臓が跳ね上がったあと、その言葉を頭の中で反芻し理解していく内、体の芯からすーっと熱が冷めていくような感覚がした。  黒川の横顔を見ていられなくて、俺は所在なげにブランケットの模様に目を落とし、俯く。 「…でも、だったら友達になってくれよ。あんたみたいな面白い大人、初めて会ったんだ。あの店にもまた行きたいし。いいだろ?」 「は…はは、なんだそりゃ、お前。友達って、ガキかよ」 「なんだよ。いいだろ、それくらい」  黒川がまたとんでもな提案をしやがるから、俺はその時感じた気持ちについて深く考えるのをやめ、盛大に吹き出した。  それにしても今まさに振られた相手に友達になろうとか、やっぱりジェネレーションギャップってやつか?  俺には全く理解出来ないけど、どこか少しほっとしている自分もいて、ほとほと自分の身勝手さに辟易する。 「じゃあ、ま…友達としてよろしくな、黒川」 「名前で呼べよ」 「長ぇんだもんよ、健一郎って。そうだなー…じゃあけんちってことで。ダメ?」 「…別にいいけど」  我ながらナイスな呼び名だと思ってけんちを見やると、別にと言う割に嬉しそうにしてて、俺はぎくしゃくする。  たった今、友達としてって言ったくせに、そんなことではにかまれてはとても気まずい。  それか友達いねえのか、こいつ。 「つーかあんたは?名前、いい加減教えろよ」 「お?おー、別に勿体ぶってたわけじゃないけどな。俺は伊藤の伊に、機織りの織で伊織。嶋 伊織さん」 「伊織」  何か確かめるように俺の名前を呟いて、けんちは納得したように満足げに笑った。  …これって本当に友達なのか? 「そ、そろそろ帰るわ」  いたたまれなくなって立ち上がる俺に、けんちは店からジャケットを持って来て手渡した。  どう見ても新品というか、店の商品なのは明らかで、俺は全力で遠慮したが、けんちに無理矢理着せられてしまう。  さらに家まで送ると言って聞かないから、結局家までの道のりをまた二人で歩きながら帰ることになり、他愛ない話をしながら店の前まで来た。  寄っていくかと尋ねるとけんちは「胸がいっぱいだから、今日はやめとく」とかまた訳分からんことを言って、俺が店の中に消えるまで、ずっと切なそうな笑顔でこっちを見つめていた。 「…は━━━━━━っ」  部屋に入って、閉めたドアに凭れ掛かると、今まで胸の辺りに溜まっていた何かが溢れ出したみたいに、クソデカため息が漏れ出た。 「…なんだこれ…胸が痛え」  むず痒いような、切ないような、くすぐったいような、苦しいような…とにかく色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、胸の辺りに重くつっかえてるような息苦しさに、俺の頭は今にもクラッシュ寸前で。  けんちの友達だと言って、そのくせ普通の友人のようにはさせないような雰囲気には胸が詰まるし。  そりゃ、急に態度を変えろって言われて変えられるもんでもないとは思うが。  結局俺は、きっぱりとけんちを振ってやることも出来ず、かといって交際を受け入れてやることも出来ず、中途半端な宙ぶらりんの関係でいることを選んでしまって、出口のない迷路にいるような行き場のない気持ちに、頭を掻き乱してはベッドに突っ伏した。 「また面倒事を後回しにしちまった…」  眠りに落ちていく中、俺は自分の悪癖につくづく嫌気が差したが、それはすぐにまた現実でも襲ってくることになる。

ともだちにシェアしよう!