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Part1:Touch It③

 翌朝。  夢であってくれと密かに祈りながら、カーペットに倒れたスマホを手に取り確認すると、そこには夢で見たはずの、俺を食事に誘う黒川健一郎とやらからのメッセージ。  更に俺の既読スルーに対して、「既読スルーはOKと捉える」という追加メッセージまで来ていた。  どんだけポジティブ野郎なんだ、こいつ…。  俺は何か返信するべきかしばらく思案して、しかしやっぱり面倒臭くなってやめた。  スマホをソファーベッドに放ると、バイトへ出掛ける支度をする為、風呂場へ逃げ込む。  昨日と違って少し早めに起きたことで、ゆっくりシャワーが浴びられて、熱めのお湯が脳みそを段々覚醒させていく。  身体を洗って浴室を出ると、ドライヤーで髪を乾かし、ワックスで気持ち程度に髪を弄る。  ぶっちゃけて言うとセットしてもしなくても、大して変わらない生粋の天然無造作ヘアーなのだが、少なくともちゃんとしている気分になれるし、こういうのは気持ちが大事なんだ。  そのあとは朝のニュースを流し見しながら、冷蔵庫から一昨日作っておいたチーズサンドを取り出し、食べても問題ないことを臭いで確認したら、それに齧り付く。  それでもまだ時間がありそうだから、今度はゆっくりコーヒーを淹れる。  こういう時、カフェに住み込みで働いてる有難みを実感する。  岳さん直伝の美味いコーヒーの淹れ方と、上等なコーヒー豆のおかげで、いつでも美味いコーヒーが飲めるわけだ。  上質なカフェインで完全に頭が冴えてきたところで、そろそろ出勤の時間なのを確認して、俺は家を出た。 「おはようございまーす」 「あっ、嶋さんおはざっす。昨日またあのチンピラ共シメたらしいっすね!」 「…」  久々に余裕のある出勤で、爽やかな朝の余韻に浸りながらバックヤードのドアを抜けると、第一声で残酷な現実へと引き戻してくれる優しい後輩、高名。 「あれは正当防衛なの。人聞きの悪いこと言うんじゃないよ」 「いや〜、俺も見たかったなあ、嶋さんの勇姿」 「え?聞こえてる?チャーハン?」  俺の弁明そっちのけで一人盛り上がる高名を後目に、ロッカーから制服を取り、さっと腕を通す。  シフト表を確認すると、今日は店長ではなく高名と夕方までのシフトに入っていた。 「…チャーハン、店長と会った?」 「はい。なんか昨夜のことでお巡りのおっさんと会ってくるって」  これで益々店長に頭が上がらなくなるな、と重いため息と共にバックヤードを出る。  早朝のシフトの人と交代して、高名と二人、忙しかったり暇だったり、気心の知れた後輩と働いているとあっという間に時間は過ぎていく。  時々何か忘れているような気がしながら、しかしそんな感覚すら忘れ、あと少しで上がりの時間という時。  ピンポーン。  店内に鳴り響くチャイムと共に現れたのは、日に焼けた小麦色の肌と、凛々しい眉に垂れ目が特徴の爽やかな好青年、黒川健一郎だった。  その姿を見た瞬間ぴしゃりと石像のように固まり、白目を剥く俺を見て、高名は不思議そうに目を瞬かせる。  やべー… すっかり忘れてた…。  面倒臭いことを後回しにして、後々しっぺ返しを食らうことになる。俺の悪い癖。 「あ、あ〜…確か黒川健一郎くん?」 「既読スルーはOKってことだよな?」 「いや、どっちかというと既読スルーはNO…」 「頼む、お礼くらいさせてくれ。じゃないと俺の気が済まない」 「おいコラ、てめえ何者なんだよ。嶋さん迷惑そうにしてんじゃねえか」  イエスと了承するまで諦めそうにない黒川健一郎に、デジャヴかな?と思いたくなるほどチンピラみたいに口の悪い高名が話に加わってきて、いよいよ収拾がつかなくなりそうな雰囲気に、俺はこめかみを押さえて、とうとう腹を括った。 「分かった分かった、付き合うよ。但し俺はこのあとも別の仕事があるんだよ。だからお前はそこに飯を食いに来る、俺もそこで飯を食う。それでチャラ。OK?」 「飯食いにって…」 「嶋さんはバーテンなんだよ。知らねえのか」  俺の意図を汲めない黒川が訝しげな表情をすると、何故か高名が自慢げに説明して、ドヤ顔まで見せる。  黒川はどこか当てでもあったのか一瞬渋そうな顔をしたが、納得して頷いたあと、俺が帰り支度を済ませるまで雑誌コーナーで待ってると言って移動した。  まだ逃げ出すんじゃないかと疑われてるのかも知れない。  夕方のシフトの人たちがやって来て引き継ぎをすると、俺と高名はバックヤードに下がり、帰宅の準備をする。  準備をしながら高名が「あの野郎、何者なんすか?」と聞いてきたから、渋々ながら昨日の顛末を話すと、「マジすか。今どきめちゃくちゃ良い奴ですね」という日本語としてとても怪しい言葉だけ残して、「お先っす!」とさっさと高名は帰ってしまった。  俺はこれからのことを考えると気が重くて、ふーっと長いため息を一つ吐いてから、ようやくバックヤードを出て雑誌コーナーへと向かった。 「おまっとさん」 「おう。それ私服か?」 「ん?まあ楽ちんなので。そっちはなんか昨日より気合い入った格好してるけどなんで?」  ジーパンによれっとしたパーカーの、洒落っ気一つ無い俺の格好にも何故だか嬉しそうな黒川。  黒川の方はと言うと、昨日のブランド物のパーカーより更に高そうなジャケットを着ていて、明らかにめかしこんでいることは分かるのに、俺は意地の悪い質問をする。  「別に」と頬を赤らめて、黒い肌を鉄錆みたいに染め上げるのを見て、俺はこれが俺の盛大な勘違いであってくれと、遠い目をしながら祈っていた。 「ほれ、ここ」 「へぇ、結構いい感じの店だな」 「ちなみに俺はここの二階に住んでる」 「えっ」  あ、しまった…。  言ってからそう思って振り返ってみると、やっぱり妙にそわそわしている黒川の姿があり、俺は心の中で悲鳴を上げた。  長年尻軽な男をやってきたせいで、最早無意識に隙を作ってしまう自分に自己嫌悪が止まらない。  しかも女の子の「家、そこだけど休んで行く?」ばりのベタベタのベタな台詞を、どうやって遠ざけようかと思ってる相手に言ってしまうなんて、俺のフ○○キンビッチ! 「家賃が安くってな!本当ここのオーナーにはお世話になりっぱなしなんだよ〜。あ、そこ段差気を付けろよー。とりあえずカウンターで待っといて、着替えてくっから」 「お、おお」  俺は内心ヒヤヒヤしつつ、取り繕うように営業スマイルと早口で捲し立てると、カウンターに黒川を案内して、忙しなく厨房に逃げ込んだ。 「岳さん、お疲れ様で」 「おい、誰だあのイケメン。あんな若いのに手出したの、お前」 「…岳さん」  悲しい哉、岳さんは帰ってきた俺より、俺が連れてきたイケメンが気になるようで、厨房に入ってきた俺に挨拶そっちのけで黒川のことを聞いてきた。 「そんなんじゃないすよ。昨日あいつがチンピラに絡まれてんの助けたら、なんか懐かれちゃって」 「なに、お前また喧嘩したの?あ、それで昨日機嫌よかったのか」 「違いますよ!とにかくお礼したいから食事でもっつってしつこくて」  質問攻めの岳さんに昨日のいきさつを説明しているとあわやチンピラたちを成敗したことを咎められそうになって、俺は慌てて否定した。  正直行き当たりばったりで考え無しに連れて来ちゃったから、黒川の存在も説明しづらい。  焦ってるのがバレたのか、そんな俺を見て岳さんは一瞬目をぱちくりさせたあと、ははーんとでも言いそうな嫌な表情をした。 「お前惚れられちゃってんじゃん」 「やっぱそうなんすかね?!どうしたらいいと思います?!」 「いや、知らねえよ。  とりあえず店の方は今落ち着いてるから、お前の出番はありません。あの子の相手してやりなさい」 「ついでになんか作ってやったら?」と口角を上げて、愉快そうにしながら表へ戻っていく岳さんの背中を恨めしげに見つめたが、何が変わるわけでもなく、俺は厨房にぽつんと残された。  店のメニューのほとんどはドリンクと、チーズや生ハムなんかのおつまみで、岳さんは切って盛り付けるくらいのものしか作らず、俺がいない時は基本的にご飯ものはなし。  バータイムに晩メシを注文されても、岳さんはペペロンチーノか卵かけご飯くらいしか出せないから、俺がいる時だけ追加のメニュー表がテーブルに出されるようになってる。  冷蔵庫を開けると、野菜が少しと鶏モモ肉があったので、それらを小さく切ってフライパンで炒める。  そこにご飯を加えて、ケチャップで味付けし、それを薄目に焼いた卵で包む。  あとは葉物を何種類か刻んでサラダを作ったら、作り置きの牛テールスープをカップに注いでトレイに乗せる。  イケメンのお口に合うか分からないが、さっさと食って帰ってもらおうと簡単なオムライスを手早くと拵えると、トレイを持って厨房から出た。 「ほいよ。お待たせ」 「これ、あんたが作ったのか?」 「なんだよ高級フレンチでも出てくるかと思ったか?イヤなら別に食わなくても」 「そんなこと言ってないだろ。食べるよ。いただきます」  おぉ、意外と素直。  そしてなんとなく勘づいてはいたが、姿勢とか身のこなしの正しさを見るに、おそらくこいつはお坊ちゃまだろう。  まず今時手を合わせて「いただきます」なんて言うやつも珍しいし、お育ちがいいのは間違いない。  食べ方も綺麗で、金持ちかどうかとかはさておき、ちゃんとした教育を受けてきている感じがするし、正義感が強くてスレてないところからも家庭環境の良さが窺える。  多分アルファだろうなあ。  俺は嬉しそうにやっすいオムライスを頬張る黒川を観察しながら、思いを巡らせた。  ベータでもアルファの通うようなエリート学校に通うやつはいるが、かなりレアケースだし、そういうやつらは将来アルファと仕事をすることが決まっていたり、普段からアルファと縁があるやつだったりすることが多い。  それくらいアルファばかり通うような名門校と、俺が通っていたような共学の高校とでは学力の差があるからだ。 「そんな腹減ってたのかよ」 「オムライスなんて久しぶりなんだよ。  うちは母さんが料理得意じゃないし、ベジタリアンだから肉も卵も滅多にお目にかかれないんだ」 「へ〜、もしかして実家暮らしか」 「いや、俺は海辺のサーフショップをやってて、そこに住んでる。毎日晩メシを一緒に食べるのは一人暮らしする時の条件だったからだな」  日焼けしてるのはサーファー君だったかららしい。  ますます俺とは気が合いそうにない。  それにしても親御さんにはめちゃくちゃ愛されてるみたいだし、ベータのしかも男の恋人連れてきたりしたら卒倒されるんじゃなかろうか。  と、心の中で冗談みたく思ってみたが、自分の実家の悲惨さを思い出して、全然笑えなかった。 「あんたは食べないのか?」 「馬鹿言え、奢りなんだろ?岳さん、冷蔵庫の一番たっかいチーズとシャンパン持ってきて!」  静かにグラスを磨いていた岳さんは「はいはい」と言って厨房に入っていった。  黒川は少し驚いたような顔をした後、俺の顔を見て満足そうにふっと破顔した。  さすがイケメンとでも言うべきか、会話してみると黒川はなかなか面白いやつで、アルコールの力も相まってか、本来の思惑とは裏腹に俺はつい話に花を咲かせてしまった。 「お前さんはなんであんな正義感強いの?今時店員がチンピラに絡まれてるからって、止めに入るやつなんてそうそういないだろ」 「正義とかじゃないけど…母さんが弁護士だからかもな」 「ほえ〜」  なんてアホみたいな相槌を打ったが、今さらっとお母様は弁護士先生って言わなかったか?  こりゃいよいよお育ちのいいお坊ちゃま説が濃厚になってきたな。 「あんたは、なんであんなに強いんだよ?」 「一撃必殺ってやつだよ。前に空手やってるセフ…いや、友達に場所教わってな」 「だからってあんなに簡単にやっつけられるもんなのか?」 「普段いきり散らかして喧嘩に負けたことがないやつは、急所を守るって頭がないからな」  俺が人差し指でこめかみ辺りをとんとんとしながら言うと、「そんなもんなのか」と黒川は深く頷いて納得してるようだった。  それからも仕事のことや趣味、好きなもの嫌いなもの、まるでお見合いのような話題ばかりだったが黒川からの質問攻めは止まず、シャンパンとイケメンの話術で会話もそれなりに弾み、俺は完全に突き放すタイミングを失っていた。  こいつは俺がベータだと知ったら、がっかりするだろうか?  俺が振ったら傷付いたりするんだろうか?  第一なんで俺なんか好きになったりするんだ?  …そもそも素性の知れないおっさんに、助けられたからって好意を抱くものなのか?  そこまで考えて、これは本当に命を助けられた恩人に対するお礼だという可能性も、今更ながら大いに有り得る気がしてきて、その場合俺はとんだ自惚れ野郎ということで赤っ恥間違いなしなんだが、俺一人ちょっと恥ずかしいくらいなんの問題もない、むしろ全員ハッピーでピースフルなのでは、と真剣に思い始めた時だった。 「あんた下の名前は?」 「…は?」 「この間教えてくれなかっただろ?」 「それ知ってどうするんだよ?」  俺がこのまま核心に触れず、楽しく飲んで解散しようと思っていると、黒川に名前を聞かれて、俺は一瞬息を飲んだ。  別に減るもんじゃなし、勿体ぶるつもりなんてないが、今夜このまま楽しく食事をするだけなら、俺の名前なんか知る必要ないはずだ。  俺は黒川がこれ以上聞いてこないことを心の底で願いながら、少し突き放した言い方をした。 「あんたのこともっと知りたいんだ。今日だけじゃなくて、これからも俺と会って欲しい」 「…黒川」 「健一郎でいい」 「じゃあ健一郎。お前何歳だ?」  俺の目を真っ直ぐ見つめて黒川が言う。  俺が黒川と呼ぶと、食い気味に名前を呼ぶように催促してきて、名前で呼んでやると黒川は少し嬉しそうに顔を綻ばせたようにも見えた。  しかし俺が年齢を聞いたことで黒川の表情はさっと曇り、少し言いにくそうに「25」と呟いた。 「はは、若ぇ。昨日も言ったけどな俺は、36。お前アルファか?ベータ?オメガじゃないよな」 「俺はアルファだけど…」 「あっそ、俺はベータだ」  俺からベータという言葉を聞いて黒川は「え?」と小さな声を漏らし、丸くしたアンバーの瞳は驚きで揺れたように見えた。 「その顔、やっぱりお前俺のことオメガだと思ってたんだろ。  まあオメガ並みにチビだし、顔もガキに間違われるんだから仕方ないけど」  俺の身長は170センチ。平均身長より5センチ近く低いし、なんならオメガの三春や高名より低い。  運動もしないから筋肉もないし、その上童顔らしいからオメガには良く間違われる。  だからこいつも勘違いして… 「…そっか。勘違いして悪い」  やっぱりな。  まあでも勘違いさせたまま未来ある若者の気持ちを弄ぶことにならなくて良かった… 「ちょっと驚いたけど、でも関係ない。あんたが良ければ、もっとあんたのこと教えてくれよ」 「…は?」 「名前は?休みの日は何してるんだ?あ…彼女いたりするのか?」 「いやいや、ちょっと待て」 「なんだよ?」 「いや、なんだよ?じゃねえよ?!話聞いてたか?俺ベータ、お前アルファ、これ以上俺の何が知りてえってんだよ。  ていうか知ったところでどうなる?」 「あんたこそ聞いてなかったのか?アルファとかベータとか関係ねえよ。あんたをもっと知りたい。嫌じゃなければ付き合ってほしい」  こ、こいつ、言いやがった…。  付き合ってほしい?しかも関係ないだと?  じゃあ何か?俺は36年間、どうでもいいようなことに囚われながらずっと生きてたっていうのか?  お互いを強く求め合うように作られた、アルファとオメガみたいな繋がりを求めて暮らしてきた日々も、でもそんなものはベータの俺には縁遠いものだって分かって、やっとそんなものなくても強く生きていこうって思えるようにまでなったことも、何もかもどうでもいいようなことだって言いたいのかよ、こいつは。 「…何が関係ねえ、だ。じゃあお前、今までベータの男と付き合ったことあんのか?」 「いや、でもベータの女の子とは…」 「男と女じゃ全っ然違ぇんだよ!じゃあなんでその子とは別れた?」 「それは、別に…単に上手く行かなくなって」 「なんで上手く行かないかなんて、お前も分かるだろ。アルファとベータだからだよ。  アルファとオメガ以上に強い結び付きなんかない。お前らアルファは第二次性徴期迎えたら、番になるオメガを探すように出来てんだよ」  こんな自分が惨めになるようなことを言うつもりじゃなかったのに、今まで口にしてこなかった言葉が口をついて止まらない。 「最初っから上手く行くわけないって分かってんのに、お前の勘違いに付き合って俺になんの得があるってんだよ」  暴言にも似た言葉が堰を切ったように溢れてきて、そこまで言い終えるととうとう黒川は何も言わなくなった。  気まずい沈黙が流れて、店内にはこの空気に似つかわしくないジャズの音色だけが響く。  カッとなって弾かれるように語気を荒らげてしまったが、徐々に頭から血が引いていくような気がした。  ついこの間までの俺だったら、ラッキーとでも思って大して何も考えずに、こいつと寝ていただろう。  そして結局満たされず、最後は自分勝手に相手を傷つけるんだ。  こいつがもっと軽くて軟派なヤツだったら、もしかすると流されていたのかも知れないが、まだ指先さえ触れてないのに、俺を見つめる真剣な眼差しと、今時珍しくイイ奴なところを考えたら、そんなボロ雑巾みたいな扱いをしていい男じゃないことは俺にも分かった。 「…まあ、なんつーか気の迷い?みたいな。若いし、なんかとち狂って俺みたいな」 「俺をガキだと思うのはあんたの勝手だ。でも俺の気持ちまで勝手に決めつけんな」 「なっ…そりゃ悪かったな!じゃあお前の気持ちなんか関係なく、子供の相手なんか真っ平御免なんだよ!これで満足か?!」 「ああ、分かった。困らせて悪かったな。ごちそうさまでした」  「お釣りは良いです」そう言って一万円札をカウンターに置くと岳さんに頭を下げて、黒川は店を出て行った。  怒っててもちゃんと「ごちそうさま」は言うのかよ!  そんなちゃんとしたイイ奴が俺みたいな不良中年に捕まっちゃいけねえんだよ。  いい歳して珍しく声を荒らげてしまったせいか、酷く喉が渇いているのに気付いて、俺はグラスに注がれた黄金色の液体を一気に飲み干した。 「あ〜っ、胸糞悪ぃ」 「そりゃ振るって決めた時点で、どうしたって相手を傷付けるんだから、気持ちのいいもんじゃないだろうな。…でも良かったのか?」  俺は空になったグラスをテーブルに置き、グラスの底に出来た結露をなんとはなしにじっと睨み付けながら、喉につかえていたものを吐き出すように、愚痴をこぼした。  すると岳さんは黒川の食べ終わった食器を片付けながら、なにやら面白そうに俺に聞いてくる。 「…」 「やっぱり迷ってるんだな。自分の出した答えが正解だったのか自信がないんだろ」  ここで聞き返したり否定しても、岳さんにはからかわれるだけだと踏んで、黙り込んでみたが、結果は同じだった。  岳さんはくっくと口元で笑いながら、見透かすような口ぶりで更に畳み掛けてくる。 「だってあいつはイイ奴だし、まだ若ぇし。俺みたいなのに引っかかって、時間無駄にさせたらかわいそうじゃないっすか」 「お前だってイイ奴だし、まだなにもかも諦めるような歳じゃないよ。かわいそうなんて、それこそさっき振られた時のあの子の顔の方がよっぽど捨てられた仔犬みたいでかわいそうだったけどな」  岳さんの言葉に、さっきの酷く傷付いたような顔の黒川が浮かんできて、またどうしようもない罪悪感がちりちりと胸の辺りでざわめく。 「だって俺、決めたんですよ。運命の恋なんか出来なくても一人でだって生きていくって」 「ふーん。まあ、お前の好きにすればいいけど。運命の恋なんて、最初から分かって恋愛してるヤツ一人もいないと思うぞ」  俺がため息混じりに言うと、やっぱり岳さんは面白がってるような口調でそう言い残して、レジの方へと向かった。  アンティークかと思うほどレトロなレジを鍵盤を弾くみたいな手馴れた手つきで操作すると、子気味いい音を立ててドロワーが開き、岳さんはそこに黒川が置いていった一万円札をしまった。 「どっちにしろ、これ、貰いすぎだから。お前が返しといてくれ」  戻ってきた岳さんはまたお金を手にしていて、それを俺の前に置くと、またもやにっとひと笑いして言った。 「えっ、イヤっすよ!貰っときゃいいじゃないですか!お釣りはいいですって言ってましたよ!」 「バカ、お前、オムライスとチーズとシャンパンだけでこんなに貰えるわけないでしょ」 「つってももう会うことないですから!これ、俺が貰っちゃいますよ!」 「まあ、それならそれでいいよ」  抵抗を続ける俺に岳さんは言い聞かすどころか、急に飽きたような、興味を無くしたような声音で、俺の前にお釣りを置いたまま、仕事に戻ってしまった。  放っておかれたら逆に余計罪悪感を感じてしまい、目の前のお釣りを手に取るも、懐にしまうのは躊躇われた。  もしかしたらそれさえ岳さんの思惑通りだったのかも知れない…。解せぬ。  俺が残ったシャンパンをグラスに注ぎ、もやもやした気持ちをアルコールと一緒に流し込もうとすると、岳さんにボトルごと取り上げられ、「お前はこれから仕事」と忘れかけていた現実を思い出さされる。  俺は少し賑わい始めた店内を一瞥したあと、ぶんむくれつつも、渋々厨房に戻った。  それからは週末ということもあって、店内はめちゃくちゃ忙しくなり、もやっとした思いを抱えながらも、そんなこと考える余裕もないほど、時間はあっという間に過ぎていく。  時刻は0時を回り、客足も落ち着いてきた頃、岳さんが上がっていいと言ってくれたので、俺はそれに甘えて自分の部屋へと戻った。  部屋に入ると着替えもせずにソファに倒れ込み、もう何も考えたくないくらいくたくただっていうのに、頭では黒川のことばかり考えてしまう。 「初めてだったんだよなあ…」  譫言のように呟いてから、なんでこんなにあいつのことを考えてしまうのか思考を巡らすと、自分が36年生きてきて、一度も真剣に想いを伝えられたことがなかったということに思い至る。  深い関係になることにビビって、そういう話を避けてきたっていうのもあるが、まず始まり方が体のお付き合いっていう時点で関係は簡単な物になる。  だからあんな熱視線に見つめられて、真剣に交際を申し込まれるなんてのは初めてだった。  きっとそのせいでこんなにも揺さぶられて、もやもやしてしまうんだろう。  神様は残酷だ…なんて思おうとしたが、そもそもこれは俺が散々好き勝手やってきたツケが回って来ただけかもしれないな。  その夜、俺は黒川の酷く傷付いたような顔が頭から離れず、あまり眠れなかった。

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