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第9話

 夕方、透は身体がある程度落ち着いた頃に、仲の良かった先輩に連絡をして助けを求めた。そしてそのまま、配達員のバイトを辞めることも告げる。  先輩は透の心配をしてくれ、通報しようと言ってくれたけれど、男が性犯罪に巻き込まれたと思われることが嫌で、黙っていてくれと頼んだ。  しかし川上の行動は看過できるものではないので、会社としても何か対応をしないと、と先輩は上司に報告してくれた。上司も、透の気持ちを汲んでくれて、真実を知るのは最低限の人数にする、と約束してくれる。  会社で先輩と別れたあと、そう言えば伸也と話をするんだった、と気が重くなった。  夏の蒸し蒸しした気温がまとわりついて、先程の川上の手を連想してしまい、身震いする。  あんな気持ち悪い行為を、透は伸也にしたいと思っているなんて、考えたくない。何より透も伸也も男だ、恋愛感情なんて──持ってはいけない。  はぁ、と透はため息をつく。まだ身体が疼くような気がするけれど、気力も体力ももう限界だった。  ◇◇  透が家に着くと、伸也が珍しく怒った顔で待ち構えていた。透はやましさもあり、伸也の顔が見られずリビングの入口に立ち尽くす。 「座って」  有無を言わせない伸也の声。透はおずおずとダイニングテーブルの椅子に座った。  重苦しい空気がただよう。 「今日はあそこで何してたの?」 「……」 「……大学は?」 「……」  透が無言でいると、伸也はため息をついた。それに思わずビクつくと、教えて、と幾分か柔らかくなった声で尋ねられる。 「…………辞めた」  伸也が息を飲むのが気配で分かった。もう、元には戻れない関係に、透は今こそちゃんと離れる覚悟をするべきだと悟る。  透は笑顔を作った。 「オレ、何の取り柄もないからさ。早めに社会に出ないと、同世代から取り残されるって思ったんだよね」  いつか自立しなきゃと思っていたから、丁度いい機会だと思って、と言うと、なぜか伸也は苦しそうな顔をする。 「だからって大学辞めなくても……」  僕はゆっくりで良いからって言ったよね? と伸也はこちらを真っ直ぐ見て言った。 「大学出ていれば、多少選択肢が広がるのに……」 「取り柄がないのに選択肢が広がっても、オレには持て余すだけだよ」  目線を合わせられずにまた笑うと、ますます伸也の表情が苦々しくなっていく。  大体進学したのも、就職に有利だと思っていたのは本当だし、親が世間体を気にしただけのこと。特にやりたいこともなかったし、自立は早い方が良いと思っての行動だったのに、伸也がどうしてそんな表情をするのか、分からない。 「大丈夫だって。あれからハグもキスもしなくて済んでるだろ?」 「……透……確かに僕から自律しろと言ったけど、無理しろとは言ってないよ……」  伸也の苦々しい表情は、そんなことを思っていたかららしい。五感がハッキリしなくなったのは、そのせいか、と透は思う。  しかしそれを聞いて、透はさらに笑顔を作るのだ。ここでまた伸也に甘えたら、一生離れられなくなる。 「無理? してないよ?」 「ほらそれ。あんなに甘えただった透が、急に聞き分け良くなるなんて……心配以外に何がある?」  大学も勝手に辞めてまで、何をしているのかと思えばバイトだし、と伸也は言う。 「ちゃんと将来を考えて自立しようと思っているなら、普通大学は出ておこうってならない? バイトじゃなくて、正社員になろうって思わない?」 「……」  目先のことだけを考えて、あわよくば伸也に褒めてもらおうなんて思っていた透。その甘い考えまでお見通しで、ぐうの音も出なかった。しかし、何をやっても長続きできない透が、正社員なんて務まるだろうか?  そう思っていたら、また川上のことを思い出してしまった。 「……寝る」 「透!」  伸也の制止も聞かず、透は自室へと引っ込む。そして布団に潜り、絡まれやすい自分を呪った。  伸也の言うことが正しいのは分かっている。自分は精神的に幼くて、不安定で、伸也に頼りきりなのも分かっていた。今まで伸也もそれを容認してくれていたから、透は透でいられたのだ。  それが今、崩れかけている。必死で割れたガラスを繋いで支えていたのに、ポロポロと破片が落ちて支えられなくなっている。  それでも、もう伸也に慰めてもらうことはできないのだ。砕かれようが割れようが、自分で修復して支えなければならない。  胸がぎゅっと苦しくなった。震える呼吸をそろそろと吐き出すと、そのまま胃の中身が出てきそうになったので、慌てて口を押さえて飲み込む。  もう、誰にも頼ることができないのだ、明日から新しい昼間の仕事を探さなければ。  そうじゃなければ、本当に、誰にも必要とされなくなってしまう。  ──そうなれば、自分は完全に壊れてしまう。  布団と教科書と小さなチェストがあるだけの部屋で、透は頭まで布団をかぶり、原因不明の胸の痛みと吐き気に、一晩中耐えていた。

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