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【最終話①】首輪が嫌いな君にRewardを。1
国近肇の父親は、国近に負けず劣らず穏やかな気性を持つ人間だった。国近は父に手を上げられたことも、声を荒げられたこともない。
けれど、ただ一度だけ、こっぴどく叱られたことがある。
それは、高校二年の冬。父の病が分かってすぐの頃だった。
たった一人の肉親の、もうきっと治らない病。
強くならなければと思った。早く大人になりたかった。
国近は父に何も言わずに進路希望を進学から就職に変えて、当時在籍していた剣道部に退部届を提出した。
中学から剣道をしていた。中学時代は成績が振るわなかったけれど、高校生になってから才能が開花した気がする。その年に出場した都大会で、国近はベスト16を記録した。全国総体を目指すには、次の年が最後のチャンスだった。
その情報が父の耳に入ったのは、それから数日後のことだった。心配をした担任が、父の元へと連絡を入れたらしい。
「ふざけるな。それで俺が喜ぶと本気で思っているのか」
学校から帰宅した後。テーブルで向き合った父にそう言われる。
語気はそんなに荒くなかったけれど、有無を言わせない力強さがあった。
温厚な顔の内側に静かな怒りが垣間見えて、国近は狼狽した。
なんで。と思った。
突然飲むことになった大量の薬。週一で通うことになった抗がん剤と緩和ケア。病魔は着々と父の身体を蝕んでいる。自分に見つからないように、痛みをこらえているのを知っている。
だって、仕方がないじゃないか。
自分が支えないで、誰があんたを支えてくれるのだ。
本当は居なくならないでほしい。父が居なくなったら、自分は今度こそ一人きりになってしまう。けれどそんな弱音を吐いたところで、きっと叶わないことは、なんとなく分かっていた。
だからせめて、父が安心できるように、安心して逝けるように、自分は大人にならなければならない。たとえ同級生と違う場所にいたとしても――。
「父さんはお前が進路を変えたり、部活を辞めたりしたことに対して怒っているんじゃない。お前がやりたいことを押し殺して、自分をないがしろにしていることに怒っているんだ」
今なら分かる。あのとき、父がどんな気持ちだったのか。父の指摘はもっともだった。
結局大人にならなければと背伸びをしているうちは、自分は子どもだったのだろう。
国近は少しの間黙っていた。
「ごめん」
絞り出すように言うと、強張った父の表情が緩む。
「できる、できないは別として、やりたいことをやりたいと口に出すのは、そんなに悪いことじゃない。父さんは昔、警察官になりたかったんだ。結局なれなかったけれど、その記憶はちゃんと活きているよ」
「一度しかない高校生活なんだから、自分のために時間を使いなさい」
そのあと、父が顧問に相談してくれて、国近は部活動をもう少し続けることになった。
進級時に行われた進路希望調査で、書き換えた調査票に再び大学進学と書いて提出した。
結局進学は出来なかったし、都大会は昨年度の成績―ベスト16を目前に控えて敗退、部活動を引退した。
けれど、精一杯取り組んだ記憶は、存外無駄にはならなかったと思う。
あの日父が言っていたように、できたことも、できなかったことも、全部今の自分の一部を形作っている。
*
懐かしい記憶から、意識が徐々に遠ざかっていく。
ボロボロの美斗の顔が、国近の頭に浮かんだ。
そういえば自分は、美斗が心から笑った顔を、まだ見たことがない。
まだ、死ねない。
生きるために、人並みの幸せを全て諦めてきた子だろう。
もう何も、諦めて欲しくない。
大切な人を亡くした、あの千切れるような苦しみを、国近は知っているのだ。
死は呪いだと思う。
どれだけ時が経っても、平気になるだけだ。
悲しみそのものが癒えることはない。
自分が死んだら、美斗に一生消えない傷を負わせてしまう。
ごめん、ごめんな。父さん。
まだ、そっちには行けない。
*
数日後。
国近肇の意識は緩やかに浮上した。ゆっくりと瞼を開ける。
見慣れない天井が広がっていた。
ピ、ピという電子音が耳元に響く。視界の先に、点滴が数本ぶら下がっていて、ここが病院であることに気が付く。自分はベッドに横たえられているらしい。
長い夢を見ていたような気分だ。ふわふわとする脳みそで、こうなった経緯を反芻する。
身体を起こそうと、指先に力を入れた時だった。
「まだ寝ていなさい」
ベッドサイドから飛んだ声が、国近を制止した。
「1L近く血を流したんだ。むやみに動けば、今度こそ死ぬぞ」
声に反応して、首をそちらに向ける。警視庁刑事部の上司・柏木が立っていた。
そういえば……。
自分には近い親族がもういない。捜査一課に異動した頃、何かあった時の身元引受人を柏木に頼んでいたっけ。と思い出した。
美斗は?
問いかけようとして、人工呼吸器が付けられていることに気が付く。
おまけに喉は掠れて、声は出なかった。
柏木は国近の疑問を俊敏に感じ取ったようだ。
「一般病棟の方で入院している。命に別状はないが、精神的なショックが大きかったみたいでな。君の同期に、被害者支援室の奴がいるだろう。彼が宥めながら、少しずつ事情を聞いている」
と説明した。
ああ……。
総務部企画課被害者支援室の一ノ瀬真紘は、国近の同期で、同期の中では唯一第二性を持っている人物だった。国近の方が先に昇級したから、階級は一つ下の巡査部長だ。
そうか、彼が来ているのか。
彼の明け透けで裏表のない性格は、美斗とは相性がいいだろう。何よりも、思いやりのある奴だ。
しばらく任せても平気だろうと息を吐く。
正臣氏は?
唇だけを動かし、国近は追加の質問をした。柏木は読み取ってくれる。
「暴行と、傷害と、殺人未遂と……。まあ、諸々で現行犯逮捕」
柏木は、そこで一度言葉を区切ると神妙な様子で眉間に皺を寄せた。
「随分長いこと欲求不満状態が続いていたらしい。抑制剤と安定剤を投与されて、今はよく眠っているそうだ」
やはりそうか。
マンションで見た、彼の青白い肌を思い出し、国近は目を伏せる。あの時の彼はかなり冷静さを欠いていたし、彼らしくない行動だった。
「質の悪いマスコミが騒いでいるから、しばらくあの子は外に出さない方がいいぞ」
と柏木が追加する。
「ああ。それから……」
言いかけて、柏木は止まった。数秒国近の顔を見つめて、困ったように薄く息を吐く。
「……まあ、この辺はまた後日でもいいな。もう少し容態が安定したら集中治療室 から出られるそうだ。少し休んだらいい」
小さく頷いて、国近は頭を下げる。
麻酔が効いているのだろうか。視界がくらくらと揺らいだ。
終わったのか。これで全部。
ほっと息を吐いて。安心したように、国近はまた瞼を閉じた。
*
国近が一般病棟に移されたのは、それから約二十時間後のことだ。
一番はじめに病室に現れたのは、こげ茶色のクセッ毛を携えた細身の男だった。
一ノ瀬真紘。
それは、かつて同じ学び舎で学んだ同期の姿だった。
同じ庁舎で働いているけれど、部署が離れていることもあり、ここ最近はほとんど顔を合わせることがなかった。
一ノ瀬は落ち着いた様子でこちらに近づくと、ため息まじりに表情を緩めた。
「お前だったら、刃物を持った男一人ぐらい簡単に制圧できただろう」
挨拶もそこそこに、そんなことを言われる。
耳の痛い指摘だ。国近は苦笑した。振り下ろされるナイフを見たあの時、自分は咄嗟に、警察官としてではなく、美斗のパートナーとして動いてしまった。
『私情は持ち込みすぎると身を滅ぼすぞ』
そう言ったのは刑事部長だっただろうか。結局死にかけているんだから世話がない。
一ノ瀬は再びため息をつくと、
「地域課に異動したと聞いたときには何があったかと思ったが、まさかこんな大それたことになっていたとはな。おかげで今、庁内は大わらわだよ。第二性持ちってだけで末端の俺まで駆り出された」
と続けた。自分の異動は一ノ瀬の耳にも入っていたのか。
「まあ、一番大変なのは柏木さんだけどな。あちこち駆けずり回って頭下げて……。三日は寝てないんじゃないか?」
自分が負傷して抜けた分、柏木の仕事が増えているのだろう。申し訳ないことをした。
応援要請に取り調べ、各所への報告、マスコミ対応もだろうか。想像するとぞっとする。
退院したら、何か御礼をしなければならない。
そこで、ふと、国近は辺りを見回した。一ノ瀬と一緒だと聞いていたから、いると思ったのだけれど……。
美斗は、そう尋ねようとして気が付いた。
一ノ瀬が出入り口の方へと首を向けていた。
「……美斗さん」
うっすらと見えている人影に向かって、そう呼びかける。
影は、少しの間、躊躇っているかのようにそこを動かなかった。
一ノ瀬が再度呼んで、ようやくこちら側へと足を踏み入れる。
病衣姿の美斗が立っていた。大きな絆創膏を頬に貼り付けている。水色の病衣の隙間から見える腕は、殴られた跡と、点滴だろうか。注射針の跡が残っていた。
「よか……」
泣き出しそうな瞳が、国近の顔を見てほっと息を吐く。
ゆっくりとベッドサイドに近づくと、遠慮がちにシーツの一部を掴んだ。
ふっと、一ノ瀬が薄く笑う。
「大変だったんだぜ。泣いて、泣いて」
そうなのか。と国近は美斗の顔を伺う。出会ったばかりの人間の前で泣くなんて、普段の美斗なら絶対に嫌がることだろう。きゅっと唇を噛んだ浅黄色は一ノ瀬の言葉を否定も肯定もしなかった。
「んじゃまあ、俺は一旦庁舎に戻るわ。お前、食事ってもう普通にして大丈夫なんだっけ? フルーツを買ってきてやったから、落ち着いたら二人でお食べ」
ひらひらと手のひらを振りながら、一ノ瀬は病室から出ていった。
沈黙が、その場に広がっていく。
美斗、と呼びかけようとすると、美斗の唇が小さく動いた。
「ずっと、そばにいるって言っただろ」
唇を震わせながら、捨てられた子どものように俯いてしまう。
「俺のDomでいるって、約束しただろ」
「ちゃんと……帰ってくるって言ったくせに……」
「美斗」
そこで、たまらずに国近は彼を呼びかける。
そっと頬を撫でて、こちら側へと顔を向かせる。クマの浮いた目元が露になった。
「酷い顔だな。眠れていなかったのか?」
「……誰のせいだと思ってるんだ」
「少し休んだ方がいい。俺よりもずっと具合が悪そうだ」
「……」
「もう大丈夫だから」
少しの間、美斗はそこから動かなかった。やがて、観念したように指先をシーツから離す。
「……おれ、」
と何かを言いかける。
「……?」
小首を傾げて、国近は次の言葉を待った。
「おれ、ちゃんと命令きいた……」
不満げな声が続いた。む、と軽く頬を膨らませる。
「まだ、褒めてもらってねぇぞ」
一瞬だけ目を丸くして。薄く、国近は笑う。
コマンドを向けられることも、それを聞いて褒められることも、初めて会ったときには随分怖がっていたのに――。
「悪かった」
美斗を正臣氏から守る時。確かに幾分か強引なコマンドを使った。きっと苦しかったことだろう。セーフワードを言われたらどうしようかと思ったのだ。傷つけたくはなかったから。
国近は上体をベッドから離して、美斗にベッドサイドの椅子に座るようにと促した。
言われた通りに腰を下ろした身体を、そっと抱き寄せる。
唇を耳元に寄せた。
「美斗。“good boy”」
強張った肉体が徐々に弛緩したのが分かった。
ほっと一回だけ息を吐いて、コテンと、国近に頭を預ける。
それから、穏やかな寝息を立てはじめた。
*
二週間後。
取調室にいたのは、凛とした雰囲気を持つ一人の男だった。
「名前を」
テーブルを通して向かい合い、国近が問いかける。
「桐野……貴久と申します」
落ち着いた声が続いた。
国近は順を追い、状況を説明した。しばらくそれを聞いて、桐野は薄く息を吐いた。
そして……。
「全て美斗さんの証言の通りです」
と言った。
「え」
それは予想もしていなかった反応だった。国近を含めてその場には三人の捜査官がいたけれど、その全員が同じように呆気に取られた。桐野は正臣氏の腹心だ。こんなにあっさりと話してくれるとは思ってもみなかったのだ。
流暢な口調で、桐野が続ける。
「旦那様の指示で、美斗さんを連れて来たのは私です。旦那様は元より美斗さんを正臣様の道具にするおつもりで引き取ったようでした。正臣様は美斗さんをいたく気に入ったようで、別邸に閉じ込めてご自分のものとして扱っておられました。具体的な日時について正確には申し上げられませんが、ここに記されているような行為はあったと記憶しております。とくに、首輪を美斗さんご自身で絞めさせるという行為でしたら私も正臣様にお力添えをいたしました。そのための首輪の鍵は、いつも私が持ち歩いておりました。正臣様の指示で、逃げ出した美斗さんを探し出し、連れ戻すのも私の役割でした」
「……止めようとは思いませんでしたか?」
一回だけ薄くため息を吐いて、国近は問いかける。怒りが湧いてこなかったのは、冷静な桐野の口調に微かだが憐憫と反省の色が浮かんでいたからだった。
「ええ。それが私の仕事でしたから」
「それは、人ひとりの人生を潰してもやらなければならない仕事でしたか?」
「美斗さんよりも優先すべきものがありました」
「……では、なぜ話す気に?」
そこで、桐野は唇を噤んだ。
視線を国近から外し、どこか遠くを見つめる。何を思い出したのか、悲し気に目を伏せた。
しばらくして、国近に向き直るとこう言った。
「……美斗さんのためでは、ありませんよ」
*
数時間後。
国近肇は俊敏な動作で庁舎の廊下を歩いていた。
とある部屋の前で止まり、ドアノブに手をかける。そこは、桐野がいる部屋とはまた別のフロアにある取調室だった。
扉を開ける。視界に細身のシルエットが現れた。灰色のスウェットに身を包んだ彼は、マンションで対峙したときよりもずっと幼く見えた。
衰えることを知らない美貌が、こちらに気づいて目を向ける。
「もう復帰しているのか」
彼――須藤正臣はそう言って、驚嘆の声を上げた。
近づいて、国近は目の前のパイプ椅子へと腰を下ろす。
「君は中々しぶといな。結構深く刺さっていただろう」
「気分はどうですか? 貴方も随分長く入院されていたと聞きました」
問われて、正臣氏は深く背もたれへと腰を預けた。気だるそうにこちらに目線を向けた。
「最悪だな。頭痛はするし、吐き気も酷い。薬でだいぶマシになったが……」
そう答える彼の顔色は、確かに健康的とは言い難い色をしていた。
「……そうですか」
彼の体調不良は、欲求が解消できないことによるものだ。この場所にいる以上解消する術はないから、薬で上手く折り合いをつけるしかない。
これから先も長く、苦しむことになるだろう。
いたたまれなくなって、国近は目を伏せた。
「では」
本題に入ろうと唇を開く。
「国近警部補」
彼の声がそれを制止した、
ピアニストのように長く、透き通った指先を自身の左耳へと当てる。
「まだ聞こえないんだ。悪いけれど、もう少し右側で話してくれないか」
「ああ……」
国近が浴びせた一撃は、左耳のすぐ近くを直撃していた。
そのときの衝撃で、左耳の鼓膜が破れたと聞いていた。
国近は言われた通り、テーブルのちょうど中央にあったパイプ椅子を、数センチ自分の左側に移動させた。この位置で大丈夫かと確認を取り、彼が頷いたのを見て佇まいを直す。
そして、こう切り出した。
「忠臣さんが、亡くなったそうです」
はっ。嘲笑が彼の顔に浮かんだ。
「『延命をやめた』の間違いだろう」
と苦々しげに吐き捨てた。
彼の父親・須藤忠臣氏は、もう随分前から助かる見込みがないと言われていたという。件のパーティーの後には、いよいよ生死の境を彷徨うようになった。
それを根気強く延命させていたのは、他でもない彼だったらしい。
「このタイミング……同意書にサインしたのは叔父だな。責任を追及される前に消えてもらおうって魂胆か。よほど会社の存続が大事だと見える」
「まあ、僕も他人のことは言えないが……」
そう言って。今度は自虐気味に笑った。
この男の中には修羅がある。それが、国近には苦しかった。
ここ数日間、国近の同僚は彼の近辺の人間に話を聞いていた。
役員たちは口を噤んでいたけれど、管理職や社員は口を揃えて言っていたそうだ。
その名に相応しいほど、公正な人だと。
現場を常に気にかけ、必要なものがあればすぐに投資をしてくれる人。
学歴も社歴も関係ない。実力のある人間に、それに見合うだけの地位とチャンスをくれる人。
彼の忠実な部下・桐野貴久は、彼自身が能力を見出し、会社に引き入れた人間の一人だと聞いた。かつて家の事情で困窮していた桐野に居場所を与え、高等教育を受けられるように支援した。
それは、彼が美斗にしてきた仕打ちとは、正反対で、あまりにも矛盾している。
それが出来るならどうして、
どうして、美斗に同じことが出来なかったのだろう。
「抑制剤を、飲んでいなかったと聞きました。本能との向き合い方を、あなたは知らなかったのではないですか」
テーブルの前で手のひらを組み、国近は問いかける。
「適切に自分の欲求と向き合えば、今よりもずっと生きやすくなるはずです」
「……馬鹿馬鹿しい」
形のいい唇がそんな言葉を吐露する。彼と話していると不思議な気分に襲われた。国近よりもずっと年上の人間と話しているように感じられる時もあれば、小さな子どもと話しているかのように錯覚しそうになる時がある。不安定で覚束なくて、本心が分からない。
国近は困ったように眉を下げた。
「美斗のパートナーとして、貴方のことを赦すことはできませんが……。同じDomとして、貴方の気持ちが、全く分からないというわけでもありませんよ」
「は……」
再び、嘲笑が零れる。けれどもう、彼の口角は上がっていなかった。
「誰にも、分からないよ。僕の気持ちなんて」
目線が、机上に落ちる。黒髪の隙間から垣間見える表情は、広い大海原を流れる氷山のように孤独で、酷く寂しげだった。
「……Subは人間ではないと言われて育てられた。それは、裏を返せばSubに寄りかかるDom も人間ではないということだ。圧倒的にSubを支配できなければ足元をすくわれる。僕がいたのはそういう場所だ。…………強くならなければと思った。そうしなければ会社も、父も、自分も守れなかったから……」
「……あの子を痛めつけているときだけ、息が出来た」
そこで彼は止まる。深く、息を吐いた。
再び向き合った瞳は、毒素が抜けたように柔らかな色をしていた。
「……正しく生きられたらよかったな。君みたいに」
「国近!」
出入り口の方から誰かが呼んだ。国近は軽く返事をすると、パイプ椅子から立ちあがった。
同席していた部下にあとのことを任せ、光の射す方へと向かう。
背中を彼に向けたとき。
「国近警部補」
短い声が自分を呼んだ。
そっと、踵を返す。
「桐野に伝えてくれ。帰りは待たなくていいと」
許諾を示し、軽く頷く。
「……警察官として、心から、貴方の更生を願っています」
*
入院は美斗が一週間、国近が二週間だった。
入院生活のほとんどを、美斗は国近の病室で過ごした。自身の入院を終えても、国近と帰るため、付き添いとして彼の部屋に泊まった。しかし、退院した国近を待っていたのは、膨大な量の事後処理だったらしい。
国近は病み上がりだったけれど、彼の生真面目な性格は、それを放置して休むことを許さなかった。結局泊まり込みで仕事をすることになり、美斗はしばらくの間ホテル暮らしを余儀なくされた。
一人で502号室に帰ることも出来たけれど、あんなことがあった後で、一人で過ごす度胸は美斗にはなかった。それは国近も同じだったのだろう。ビジネスホテルなど泊まったこともない美斗の代わりに手早く宿の手配をしてくれた。
それからしばらくの間。ほとんど音沙汰はなくて。二週間後、警視庁で待ち合わせた彼はすっかりやつれた顔をしていた。
警視庁を出て、遊歩道を二人並んで歩く。
いつの間にか、秋はすっかり深くなっていた。
街路樹から落ちた紅葉が歩道に散らばり、路面を紅く染め上げる。
朱色の葉は一歩踏み出す度にかさかさと音を立てて、進行方向に舞い上がった。
家までの道を、歩こうと言ったのは国近だった。もしかしたら、彼はこの景色を自分に見せたかったのかもしれない。あのマンションで暮らすようになってから約一年半。美斗はほとんど外に出られない不自由な生活を強いられた。事情聴取のために少しずつ外に出るようにはなったけれど、あの時は景色を楽しむ余裕なんてなかった。
でもそうか。これからはきっと、こういう日々も増えるのだろうか。
「荷物を置いたら買い物に行こう。冷蔵庫の食材、きっと駄目になってる」
横で国近が笑う。「何か食べたいものはあるか?」と問いかけられた。
病院で味のしない食事を食んでいたときにはたくさん思いついたけれど、いざ自由になると何も思い浮かばなかった。結局自分は、彼が作ってくれるものならば何でもいいのだ。
もっとも、そんなことは口が裂けても言えやしないけれど……。
「お前、しばらく休んでないんだろう。簡単なものでいいよ」
と答える。それからふと思い立って、
「俺も手伝う。教えてくれよ」
と追加した。これからきっと、必要になるだろうと思った。自然と未来のことを考えている自分が可笑しかった。
「ああ」
視界の先に、クリーム色の外壁が見える。
眩しいほどの陽の光を浴びて、キラキラと輝いていた。
「ああ……」
薄く、美斗は呟いた。
「懐かしいな」
たった二ヶ月しか過ごしていないけれど、ここが自分の帰る場所だ。
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