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第1話
-shell-
オレはコンビニの袋をぶら下げて閉まりかけのエレベーターに駆けていくところだった。遅刻じゃないかもだけど、食べる時間はそんなにない。間に合わないかな?って思ったケド、エレベーターは開いてくれた。ラッキーだった。飛び乗ると、オレの3コ上の上司と1コ上の他部署 の先輩。でも他部署の先輩のほうが、3コ上の先輩より立場は上だから、この場合は上司の上司。直属の上司の鳳梨 さんと、他部署のほうは清野平 さん。清野平さんはエリート街道まっしぐらって感じで、見た目もめちゃくちゃイケメンだった。イケメンってなんか清野平さんに使うのは低俗な感じだ。ビセーネン、これ。鳳梨さんは、なんかいかにもヲタクっぽい……ってオレは思ったんだけど、後輩に言ったら、"ホンモノ"を知らないって言われたから、オレのヲタク像が間違ってるんだと思うけど、眼鏡で細くていつもカリカリしてて怒りっぽい。教育ママゴンみたいな感じ。男だけど。男版教育ママゴン。青白い顔してて、ライトグレーのスーツは最初おじさん臭いと思ったけど、実は一番似合ってるかも知れなかった。だって清野平さんは肩幅あってめちゃくちゃかっこよくてダークスーツなんかかちっと着こなしてて、2人並んじゃうと鳳梨さん可哀想だ。
なんて失礼なことを考えながら、オレはどっちが開いてくれたのか分からないから両方をきょろきょろしてお礼を言った。もしかしたら激論でも交わしてたのかなってくらい、2人はなんか気拙 そうで、でもなんか逆に誉め殺し大会でもしてたのかなってくらい、照れてるというか、顔赤かった。
オレがエレベーターを閉めたら、急に中は甘い変な匂いがして、もしかしてオレのカスタードりんごパンの袋が破けちゃったのかな?って思ってドキドキした。鳳梨さんもオレから離れていっちゃうし、悪いことしたな、って。走ってたのもあるし、エレベーターに持ち上げられていくのもあるし、カスタードこぼれておにぎりとかお茶にもついちゃってたら嫌だなって考えてたらもっとドキドキしちゃった。こいつ朝からそんな甘いもの食うのかよ男のクセに、ってデキる男の清野平さんに内心ナメられてるのかな、とか、朝飯くらい家で食え!って鳳梨さんなら言いそうだよな、とか。ドキドキしちゃった……ドキドキ、ドキドキ………
コホン、って清野平さんが咳払いをしてオレと鳳梨さんの部署がある階に着いた。
「お疲れ様です」
って一応目上だし、無言のまま出ていくのも癪 だから、降り際に清野平さんを振り返ったら、清野平さんはお腹痛いのか調子悪いのか、顔赤くて、顔赤いから腹痛いってのはなさそうだけど、お風呂でのぼせちゃったみたいだった。風邪気味なんかな。大丈夫かね。これはミヨちゃんに言っておいたほうがいいな。ミヨちゃんは清野平さんにホの字だからね。
『清野平さん体調大丈夫ですか?』
『君はなんて気の利くコなんだ。結婚しよう』
『キャー!』
みたいな。これは、勝ち。ミヨちゃんに言っとこ。それで恩を売って、ミヨちゃんにカワイイコを紹介してもらう。天才か?オレゎ……
先に降りてた鳳梨さんも顔赤くて、もしかして風邪うつった?あの短時間で?
「鳳梨さん、大丈夫ですか?顔赤いですけど……」
オフィスまであと数歩くらい。床はカーペットが敷いてあって歩くとふぁすふぁすいう。鳳梨さんがキーキー怒る以外は特に不満はない生活。意識も高くは持てないってわけ。
「大丈夫です。それよりも、君は早々に朝食を摂ることですね……」
やっぱり顔赤くて、目も潤んでるし、具合が悪そうだった。熱あるんじゃない?
「でもなんか……いや、ちょっと失礼」
オレはエレベーターのある横っちょの壁に鳳梨さんを押し付けた。鳳梨さんは髪の毛を後ろ側に固めてるからでこ丸出しで、熱測るのは楽そうだった。
「幽石垣 くん……!」
鳳梨さんはやっぱりヲタクっぽいから人とあんまり関わったことないのかな。オレがちょっと近付いただけでそわそわしてた。顔はもっと赤くなって、目はうるうる。オレが鳳梨さんのでこっぱちに触ったら、シャラララ……って綺麗な音がした。
「ぅく………っふ、」
鳳梨さんがお口とお腹押さえて、やっぱり具合悪そうなんかな?めちゃくちゃ甘いいい匂いがして、鳳梨さんって歳の割りに女子高生みたいな柔軟剤使ってるんだな……実は裏ではオレのむちゃあざな後輩みたいに「ぼくちんカワイイでしょ?」ってタイプだったりして。
鳳梨さんは涙目でオレを見る。
「平気ですから……別に……」
休めない立場の人は大変だね。
「じゃあ、倒れそうだったら相談してくださいよ」
めちゃくちゃ顔真っ赤なのが気になる。涙目になるくらいって結構な高熱だと思うんだけど……
「分かりました……分かりましたから……離れてください……」
オレは鳳梨さんを壁に閉じ込めたままだった。上司をかつあげしてるみたいだった。上司をかつあげすな。
「すんません」
「もうそろそろ始業の時間ですよ。朝食を摂る時間はあるんですか」
「あ、やばっ。ではお先に失礼」
オレはすたこらオフィスに走った。鳳梨さんという人は口煩い学級委員みたいで、廊下走るとたまに怒るけど、こういう場合は許してくれる。
席についてコンビニの袋を開けてみたけど、カスタードりんごパンは別にこぼれたりしてなかった。でもエレベーターで甘い匂い嗅いじゃったあたりから、オレの口の中はしょっぱいものだった。たらこおにぎりのほうを開ける。おにぎりだと、たらことツナマヨがオレの大好物。美味しいなぁ、美味しいなぁと思って食べてたら、まだ時間じゃないのに鳳梨さんは自分のデスクからオレのこと見てた。なんだよ、なんだよ。でも目が合ったらあっち向いちゃった。
「幽石垣 くん、ほっぺにごはん粒ついてるよ」
隣の席の鈴鹿世 ちゃんが教えてくれた。だから鳳梨さん、オレのほう見てたんだ。神経質だからね、あの人。だらしがない!ってよく言われる。
始業のチャイムが鳴って、これがあるから大学生気分が抜けないのかな。大学生気分が抜けてない!ってまだ鳳梨さんに怒られるもん。
「鈴鹿世ちゃん、これあげるよ」
「わぁ、いいの?でも、お昼ごはんなんじゃないの?」
カスタードりんごパンをオレは隣の席の子に渡した。昼飯は社食にからあげ定食たべにいこ。
「うん。もういいんだ。だからあげるよ」
そしたら鳳梨さんから号令がかかって、朝礼が開かれた。
「鐘奏 !君は私と倉庫整理だ」
お、後輩くんが早速こき使われるらしい。でも鐘奏はすぐに鳳梨さんのところに行かなかった。オレのところに来て袖を引っ張る。最初鈴鹿世ちゃんかと思って、ちょっとキュンとして損した。
「じゃあ、幽石垣 先輩 も来てください」
「はぁ?」
鐘奏はリスみたいなやつで、目がデカい。めちゃくちゃオレに可愛こぶってくるんだけど、もしかして中身は女の子で、オレのこと好きなんかな?
「だって暇そうなんですもの。鈴鹿世先輩も、そう思いますよね」
鐘奏は鈴鹿世ちゃんにも振っておきながら、もう倉庫のほうに行こうとしてる鳳梨さんを見てた。
「オレは暇じゃないよ!」
「鐘奏!何をしているんですか」
ほら怒られた。早く行けよって思ったんだけど……
「鳳梨さん!幽石垣先輩も手伝ってくださるそうです!」
「えっ、ちょ……」
なんでオレ?鐘奏はにっこにこだった。鳳梨さんだって、2人で十分だ、とかいうでしょ。
「そうですか。では倉庫に行きますよ」
鳳梨さんはつんけんしてる。顔色も良くなってた。
「じゃあ行きましょう」
鐘奏はやっぱりにっこにこ。本当にあざとい。鳳梨さんもこいつには甘いし……女子も騙されてるよ。本当にかわいいのはオレなのにさ。
倉庫に移動して、最後に入ったオレは何の気なしにドアを閉めた。ちょっと埃っぽい。
「幽石垣くん」
「はい?」
「大丈夫ですか。君のほうの仕事は」
「大丈夫ですよ」
鳳梨さんは「ふーん」って感じだった。まぁ、大丈夫な分にはいいもんな。もしダメだったら皺寄せは上司にいくし。
「ありがとうございます」
「え、いや別に。鐘奏クンがどうしてもって言うので……」
オレは頼られるいい先輩アピールを欠かさない。
「それで、鳳梨さん。ぼくたちは、何をすればいいんですか?」
鐘奏の野郎はオレのいい先輩アピールを遮った。
「君たちには、ここにある資料を探し出してほしい」
鳳梨さんに注文表みたいな板っぺらを渡された。名簿みたいになってた。
「はぁい」
「承知しました」
それで鳳梨さんがなんとなく作業の範囲を決めた。なんか埃っぽいなぁって思ってたけど、鳳梨さんはクーラー点けてくれた。それはそれでまた別の臭さがあったけど……
オレは黙々と昔のファイルを探した。全部デジタル化しとけよ、とか思ったけど。
「幽石垣先輩!」
急に切羽詰まった声で鐘奏が呼んだ。見つかったんかな。
「鳳梨さんが大変です……!」
オレはびっくりして、急にエレベーター前でのことを思い出した。言わんこっちゃない。やっぱ無理してたんだ。
鳳梨さんのところに行くと、鳳梨さんはお腹痛そうだった。鐘奏が気持ち悪そうな鳳梨さんの肩に触ったとき、シャラララン……って砂時計を振ったときみたいな音が聞こえた。腐ったリンゴとか腐ったモモとか腐ったバナナみたいな甘い匂いがぶわわって広がって、ちょっとアルコールみたいな感じもあって、身体が熱くなる。頬っぺたがカァってなる。鳳梨さんだけじゃなくて鐘奏も調子悪いみたいで、くらくら~って立ち眩み起こしてた。もしかしてなんかヤバいガスみたいなのが換気扇とかクーラー通して入ってきてる?
「鳳梨さん……鐘奏………?」
オレもなんかくらくらした。甘い匂いの所為なのは間違いなかった。肌がひりひりする。腹の下辺りがむくむくしてきた。もしかして、生命の危機?それで、だから、つまり……おぽこちんがギンギンになってるのかな。
「ぅ………っん、あっ」
鳳梨さんは苦しそうで、なのにシャララン、シャラランって綺麗な音がする。吐気がしそうなほどの甘い匂いが強くなる。ぽこちんが張り詰めてツラい。シコシコしたかった。もう死ぬのかな。ぽこちんシコって精子撒き散らして、子孫遺そうとしてるのかな……
-mint-
高級ホテル、高級レストラン、夜景、広く柔らかいベッド。憂鬱だ。俺は病気なのだ。精力剤を飲む。シャワー室から湯の降る音がする。雨音のような風情はない。圧だった。止まない雨はないそうだ。あれは雨ではないけれど。コックを捻ればすぐに止む。さすがに高いホテルだけであって、水切りもいい。気の利いた比喩も成立する。止まない雨はない。あのシャワーは水漏れもなく、止むのだ。
浴室のドアが開いて、まず目に入るのは長い脚だった。細っそりとした足首と膝にかけてゆったりと内外非対称の膨らみを増していく。
一体俺の身体は何が不満だというのだろう。俺の審美眼は、俺のどこかで乖離しているというのか。美し過ぎることが、却って……?
バスローブの大きく割れた裾から垣間見える脚はやはり艶 かしかった。俺の身体は彼女の何が不満なのだろう。
「難しい顔をなさいますのね」
しっとりとした綺麗な声だ。俺はワインを一気に呷る。彼女は――星楓寺 明希奈 。俺の婚約者は、濡れた髪をタオルで叩いている。この流れはもしかすると、今日はこのまま、俺の不安が可視化されることもなく、早送りみたいにして明日を迎えるのかも知れない。
化粧をした彼女は豹を彷彿とさせる凛々しさと気の強さであるけれど、化粧を落とした彼女は透明感のある楚々とした美しさがある。
「今夜はお酒を飲み交わして、そうしたら寝ましょう。最近お疲れのようですわ」
深読みをしてしまう。彼女は俺に気を遣っているのではあるまいかと……聡い女性だ。その可能性は十分にある。隠し通したつもりだが、何故分かるのだろう。時折思う。男というものの哀しき単純さを。会社でもそうだ。女性社員の気の利きぶりといったらない。
「蒼真 さま……?」
「ああ、すまない。そうだな……そうしよう。ありがとう」
「わたくしは、蒼真さまとこうして共に居るだけで十分でございます。とても充実した時間を過ごせましたわ」
容貌、所作、言葉遣い、センス、すべてが美しく研ぎ澄まされている彼女の何が不満なのだろう。何が……
俺は病気だったのだ。だから昨夜、薬を飲んだ。けれども結局は必要のないことで、それが今になって効いている。
我が社は地下にカフェテリアや社員食堂、購買部を設けている。地下といっても、そもそもエントランスのある1階が2階のようなもので、テラス席を設けて開放感のあるなかなか瀟洒 な造りだ。
俺はそこでわずかばかり歳上ながら、立場としては部下にあたる鳳梨 令和 さんに会った。彼とはこの前も社員食堂で会った。まだカフェテリアの開いていない時間だ。この時間にコーヒーを飲むのなら、わずかばかり味は落ちるが安価な社員食堂がある。彼もそのくちなのだろう。
鳳梨さんは実力のある人物だが几帳面で神経質の潔癖症だという噂をよく聞いた。
「おはようございます」
威圧的な銀の細いフレームの眼鏡と、眉間に皺を寄せているのが特徴的だ。
「おはようございます、鳳梨さん」
俺は外面のいい男だ。誰にも彼にも好い顔をする。コネクションで昇級しているコンプレックスと後ろめたさというやつか。いずれは化けの皮が剥がれるに違いない。そのときに横柄に振る舞っていたことを悔いるのは、誰だというのか。
目を合わせた途端、鳳梨さんは顔を赤くした。立ち眩みを起こしたようで、コーヒーの入った紙コップが床を転がる。
「大丈夫ですか」
俺は今にも倒れそうな鳳梨さんの身体に駆け寄った。その肩を支える。これという運動も、これというトレーニングもしていないが筋肉のついてしまいがちな俺の身体とは大きく違って、鳳梨さんの身体は細く硬かった。女性の柔らかさとも違う筋張った華奢さだ。
「あ……も、申し訳ございません……あの、スーツを汚してしまいましたか」
「そんなことはいいんです。医務室に行きますか」
俺は社員食堂の椅子を引いて、鳳梨さんをそこに座らせた。瞬間、ふす、と空気の抜ける音がして、突然、コーヒーの香りを甘い匂いが掻き消した。どこかで嗅いだ覚えもある気がする、脳髄を揺さぶるような香りで、一瞬、俺も後ろへ立ち眩みかける。そして……俺のここ最近の悩みの種が、まったく意図していないタイミングで解消されたのだった。俺の脚の間のものに血潮が滾ったのだ。まだ朝で、ここは会社で、この場に婚約者はいないというのに。
俺は清掃員を呼んでコーヒーを片付けてもらった。それから医務室を嫌がる鳳梨さんに付き添った。彼はトイレに行きたがった。まだ気持ちが悪そうで、吐きたいのかも知れない。開放された男子トイレのドアを閉めたとき、また、ぷす、と嚏 をし損じたときのような音がして、鼻を殴るような甘過ぎる匂いに襲われた。頭の中が真っ白くなって、暫く俺を不安の底に沈めていたものが、その期間を埋め合わせるがごとく反応する。気付けば俺は、体調不良の鳳梨さんを洗面台に押し倒そうとしていた。
俺は病気なのだ。勃起不全であったはずなのだ。ストレスはないつもりで、食生活も生活習慣も悪くなかったはずなのだ。
「清野平 さん……」
眼鏡の奥で鳳梨さんは泣いているようだった。目が潤んでいる。熱があるのだ。早急に医務室に連れていくべきなのだ。ところが俺のしたことというのは、彼の泣く姿を望み、またどうすればそうなるのかを頭が組み立て、そして制御も利かぬまま実行していた。俺は鳳梨さんの冷淡な感じのする薄い唇にむしゃぶりついていたのだ。婚約者にも抱かなかった、異様な欲求……俺は病気なのだ。もうどこが悪いのかも分からなかった。勃起不全は肉体の問題ではなかったのだ。精神を冒されていたに違いない。
「ぅ………んっ、ふ、」
唇を合わせただけでは満足せずに突き入れた舌が鳳梨さんの口腔で暴れた。身体を擦り付けて、抱き締めてしまう。頭の中が沸騰しそうだった。俺は自分でも、彼に対して何がしたいのだか分からない。
「う………く、ん………」
唾液の混ざる音と、舌の絡む感触が、復活を遂げた俺の器官に響く。鳳梨さんは匂いも味も甘かった。深いキスでは物足りず、俺は会社で、しかも人前で自涜をはじめかねなかった。
「ぁ……っ、ふ、」
キスをやめろ。俺は自分の身体にそう命じた。しかしやめられない。俺の下腹に生えた器官は手を使わずに久々の解放を求めている。いけないことだ。いけないことなのだ。イけない。イきたい。
俺はこのときに、ドアの外で足音を聞いた気がした。ほんの少し、冷静さを取り戻す。慌てて鳳梨さんをトイレの個室に引っ張った。そしてドアを閉め、カギを掛けたところで、何故そんなことをしたのかと自分を問い糺 す羽目になる。
「す、すみませんでした、鳳梨さん……」
俺は謝ったが、まず謝る前に、カギを開けるべきなのだ。甘い匂いが充満して、ちりちりと皮膚を焼く。有毒ガスではあるまいか。そんなものが何故……
「い、いいえ……」
涙ぐんだ目が泳いで、留まったところといえば、鳳梨さんの腕を掴んだままの俺の手だった。抗いがたい激しい興味によって、俺は首を竦めて怯える彼の頬に触れてしまった。そのときに聞こえた俺自身の荒れた息遣い!俺は病気なのだ。野獣だったのだ。
「あぁっ」
鳳梨さんは俺の掌を嫌がった。静電気が起きたみたいに……
だがやめられない。俺はもうおかしい。自分の異変に気付いていながら、次から次へとくる興味を抑えこめない。頬を触り、首を撫でる。真っ赤な耳がかわいかった。
「ぁ……ッ清野平さん………っ、!」
俺はまたその唇を塞ごうとしたときだった。トイレのドアが開いた。
『それでよ、そのとき幽石垣 の野郎がさぁ……――』
『マジで?あいつもミヨちゃん狙ってるん?ヤバ。ミヨちゃん、子供っぽいの好きって言ってたからな~』
『だから幽石垣の"がき"はクソガキの"ガキ"なんだよ』
俺は自分と鳳梨さんの口に手を当てていた。こんなところを見られるのはまずい。俺には婚約者がいて、鳳梨さんは有望株だ。朝から職場のトイレでこんなことをしていては……
『ンでもミヨちゃんは清野平さん狙いだって言ってたの、あいつだぜ?』
『そら女子社員みんなあの人に憧れるだろうよ。それはアイドル的なものであって、これとはまた違うだろ』
会話が遠去かっていく。俺は少しずつ冷静になる。まだ甘い匂いにくらくらするけれど……
トイレの個室。これには魔が潜んでいるのだ。怪談にしろ、猥談にしろ。俺は個室から出た。平生 は異臭だとすら思わせた芳香剤の匂いにわずかばかり安堵する。
「すみませんでした。鳳梨さん。なんと謝ったらいいか……」
「い、いえ、いいえ……とんでもないです。私のほうこそ、ご迷惑をおかけして………」
俺は気が狂ったのだ。裁判にかけられて、矯正されるべきなのだ。俺は頭がおかしくなったに違いない。
「体調は、どうですか」
苦し紛れに訊いてみるが、こんなことをして良くなるはずもない。即刻、産業医に診せるべきだ。そして俺も然るべき機関に……
「随分と良くなりました。大変なご迷惑を……スーツを汚されたりは、していませんか」
「はい。この後はどうされます?オフィスまで付き添います」
そうして俺は鳳梨さんと一緒にエレベーターに乗り込んだ。途中で幽石垣 夏生 という社員が乗り込む。彼は俺の一学年下の他部署の社員で、鳳梨さんのところの部下だった。トイレで噂をされていた。剽軽で軟派そうなところがいまどきの感じがして、俺と1つしか変わらないはずだが、楽しそうでよい。愛嬌のある柴犬を思わせる。
鳳梨さんはいち早く彼を見つけたが、何か話すでもなく、彼が乗り込んだ途端に隅に移動してしまった。
幽石垣くんは、上司に俺が破廉恥極まりないことをしただなんて想像もしないのだろう。鳳梨さんの唇を奪って、舌を絡めて……淫らな妄想が止まらなかった。甘い匂いの呪縛はまだ続いていて、まだ眩暈がする。
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