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第3話 ※前部

-mint-  秘書に用があって社員食堂に出向く。俺は未来の妻が作ってくれた弁当をいただいているから社員食堂は使わない。彼女は料理も上手い。  秘書は今朝会った人たちのいる部署所属の鐘奏(かなで)飛馬里(ひばり)という社員とよく昼食を摂っているらしい。秘書本人を探すよりも彼を探したほうが早かった。明るい茶髪がくるくるとしている少女然とした見た目で、トイプードルを思わせる。  秘書はそこで弁当を食べていた。昼飯時に仕事の話を持っていくのはあまり褒められたことではない。手軽く済むようにメモ用紙を渡した。それから帰ろうとして、展望席にいた人物が偶々目に入った。俺が鳳梨さんにしてしまったこと……赦されないことだ。ここで素通りすることはできない。  俺は一言でも挨拶をしたかった。しかし鳳梨さんは窓ガラスの反射で俺に気付いたのか、慌てた様子で席を立った。一緒にいるのは朝と同様、幽石垣(しらいしがき)夏生(なつき)という社員で、彼は鳳梨さんが急に駆け出したことに戸惑っている様子だった。傍のテーブル席にいた鐘奏くんも異変を察したようで、取り残された幽石垣くんのところに寄っていくと、バトンタッチでもするかのように幽石垣くんが鳳梨さんの後を追った。  俺の所為か?  俺も鳳梨さんを追う。彼はトイレに入っていく。謝らないといけない。彼は洗面台に手をついていた。鏡越しに幽石垣くんが俺に気付き、それで鳳梨さんも俺に気付く。顔が赤く、目が潤んでいた。 「鳳梨さん?」  幽石垣くんが鳳梨さんの背中を摩った。瞬間、鳳梨さんは痙攣を起こして膝から崩れ落ちる。幽石垣くんは彼を支える。俺も咄嗟に駆け寄っていた。 「だめ………だめですから………」  ふす……と空気の抜ける音がした。綺麗に清掃されたトイレのそう生々しくない匂いが急激に甘くなる。  幽石垣くんの腕の中で鳳梨さんは、またふす………ふす………と空気を漏らす。彼は便秘なのかも知れない。だがしかし、この甘い匂いの正体はなんなのか。幽石垣くんは至近距離で聞いていて、聞いていないふりをしているのか。左右に首を揺らすだけだ。 「吐きますか?手、突っ込みますよ」  幽石垣くんは俺に鳳梨さんを預けると、徐ろに手を洗いはじめた。 「だめっ………あっ、」  俺の手に渡った途端、鳳梨さんはまた震え出した。ぶ……ぶぶ、とそれはバイブレーターに似ていた。実際にバイブレーターだったのかも知れない。 「苦しいのはここですか」  赤らんだ鳳梨さんの顔を見ていると、俺も変な気を起こした。鳳梨さんの腹に触れ、撫で回す。手を洗ってきた幽石垣くんも顔を赤くして、まだ濡れている手を鳳梨さんの口に突っ込もうと構えている。 「鳳梨さん、指、突っ込みます」  鳳梨さんは首を振った。口の端から涎を垂らし、泣きそうだった。俺の支えなしにはもう立てないようで、俺の腕には彼の体重が加わっていた。 「押さないでくださ………押さないで………」  俺は恍惚としていた。片腕で鳳梨さんを支え、片腕も支えながら彼の下腹部を押した。この先に何かがある。俺はそういう気がしてならなかった。大事なときに反応を示さなかった俺の脚の間のものがむくりむくりと頭を(もた)げている。  ぶ……ぶぶ、と彼は、頬を染めて放屁したのだ。しかしそれは本当に放屁であったのか。何故なら放たれる匂いは花のようであったから。  濡れた目の中に俺の陰が映ったのを見てしまったとき、俺はもう我慢ができなかった。鳳梨さんを食べたくて仕方がない。口の中に収めてしまいたい。しかしそんなことは不可能だった。俺は鳳梨さんの唇を夢中で吸った。 「あ……っ」 「ちょ……っと、何して……」  鳳梨さんの中に俺が入りたくなったのだった。舌を突き入れたくて堪らなかった。ところが幽石垣くんが俺と鳳梨さんの間に入る。鳳梨さんを奪って、俺に背を向けて隠した。 「あ………あっ、」  鳳梨さんは震えている。 「大丈夫なのかい、鳳梨さんは……?」  自分で自分の声を聞いて、俺は驚いてしまった。間延びした鼻声は媚びているみたいで急に恥ずかしくなる。 「医務室に連れていきます……さっきも倒れかけてたんで、もう見過ごせませんよ」  幽石垣くんの声も上擦って、なんだか聞いてはいけないものを聞いてしまった気分だった。彼の恋人くらいだろう……そんな声を聞いていいのは。 「医務室か。それなら私が……」  俺は医務室にあるベッドを想像して、自分を一度殴らつけたくなった。ベッドがあるからなんだというのだ。淫らな考えが止まらない。思い描いてしまった光景はそもそも、俺の好みじゃないはずだ。 「大丈夫です。オ……ボクが連れていきます」  幽石垣くんは、まったく鳳梨さんの甘い放屁に気付いてないようだった。身を震わせて、それは女の絶頂みたいな仕草で、品の無い音を出している。ところがそこに負の感情を抱けない。生々しさのない嗅覚情報と妙な聴覚情報の誤差であろうか。 「しかし……」  俺は食い下がった。何故、俺は食い下がったのか。鳳梨さんのことならば、部下に任せたほうがいい。医務室、そしてベッド……俺はまたもや(やま)しい妄想をする。肌が爛れたというほど大袈裟ではないが、妙にぴりぴりとして、下腹部に血が集まっていくのが分かる。 「大丈夫です」  こうなると、俺はもう人払いがしたくなる。鳳梨さんといてはならない。おかしな気を起こす前に、幽石垣くんに任せてしまったほうがいい。早く……出してしまいたい。ここは職場だ。我慢しなければならない。しかし……体内で暴れ回っている。体内といわず、もう下着の中で。このまま仕事には戻れない。ところが鳳梨さんが連れていかれると、俺の完全に勃ち上がっていたものはたちどころに萎えていく。ここまできたなら出さなければならないはずが、やはり俺は病気なのだ。医者に診せよう。このままでは、かわいい婚約者に気を遣わせ、傷付けるだけなのだ。君に魅力がないわけじゃない。仕事に疲れているわけでもない。それなのに、俺のアソコは病気なのだ。もう、そういう気分ではなくなっていた。ベッドに鳳梨さんを転がして、裸に剥く妄想が、今では忌まわしくて仕方がない。  手だけ洗って、俺は社員食堂に戻るつもりでいた。まったくばかげている。俺は病気なのだ。常に人に羨まれてきた人生だったが、これほどまでに俺が人を羨んだことがあっただろうか。大きいから何だというのだ。太いから。長いから。勃たなければ意味はない。  洗面台の鏡に、社員食堂で見た可憐な男性職員の鐘奏飛馬里くんが入ってきた。左見右見(とみこうみ)、辺りを見回している。 「鳳梨さんを探しているのかい」  声をかけると鐘奏くんは少し警戒しているふうだった。 「……そうですが」  誰も彼もが自分を知っていると、俺は驕り昂ぶっていた。彼はきっと俺を知らなくて、知らない人間が会社の中にいる。そうなのだろう。社員証を見せるが、やはり鐘奏くんの態度は変わらない。 「幽石垣くんと医務室に行ったようだよ」  鐘奏くんは、履歴書に貼り付けてあった写真とは違うから、おそらく加工している巻き毛を触って、俺の顔を見もしない。面接のときと態度も違う。この会社に慣れたということか。 「そうですか」  秘書から聞いた話とは随分と違う。気さくで可愛らしいと聞いたが。 「それなら私も行ってみます。ありがとうございます」  社員食堂で見た姿とも違った。俺はまだ警戒されている?来期には副社長になるのだ。やはり俺には荷が重いのか。俺は病気なのだ。いいのか、病気の俺が、副社長に就任しても……やはり医者に相談したほうがいい。恥ずかしいが、これは俺だけの問題じゃない。  俺は社員食堂に戻った。鐘奏くんももう社員食堂にいた。女性社員と話すときは愛想が良い。俺に対して緊張していたのか。少し寂しさがある。大役を任される。ありがたいことだが、本来なら、俺はまだ役職もない平社員。同年代の社員と関わりを持っていたかったけれども……俺の病気の原因はこれか?だとしたら俺は、自分が思っているほどタフじゃない。立場を受け入れたのなら孤独を尊ぶべきだ。別に俺は孤独ではないが。背中を追える父がいて、支えてくれる母がいて、素敵な婚約者がいる。何が不満なのだ。身体の問題だと思っていたが、問題は心にあるのか。  時計をみるともうすぐ昼の時間が終わる。少し早めに鐘奏くんは席を立って、エレベーターのほうにいった。これから医務室に行くのかもしれない。  社員食堂を闊歩していると、気の強そうな女性社員たちに囲まれてしまった。今度飲み会があるらしい。しかしその日は婚約者とのデートがある。俺に約束した相手がいることは黙っておくよう周りにからも言われているから、俺は適当な理由をつけて断った。俺のそういう話は、社員のやる気に関わるそうだ。それが未だにどういう意味なのか分からない俺はまだまだ未熟なのだろう。この頃、自信を無くしてばかりだ。  きらきら輝いた社員食堂は俺のいる場ではない。  見てしまった以上は、一応、部下ということになり、おそらく俺同様に、俺同様というには俺と違って実力で上がってくることになる鳳梨くんを労っておこうと、俺も医務室に向かった。何故俺は、大切な社員相手に、あんな淫らで愚かな妄想をしてしまったのだろう。まったく上司失格だ。コネクション で昇級なんてすべきではなかったんだ。  エレベーターに乗り、医務室のある階に着く。医務室は俺もあまり行ったことがない。カウンセラールームみたいなものだろうか。それとも小中学によくある保健室みたいなものだろうか。場所も曖昧だった。誰かに訊ければよかったのだが、生憎ここは人気(ひとけ)のない階だ。俺の遠く前方のドアが開く。そうだった、エレベーターを降りてまっすぐ、一番端の部屋が医務室ではなかったか。俺の足が出るのと同時に、医務室から鳳梨さんが飛び出してきた。彼は身を翻して壁に背をつけると、そのまま屈み込む。具合が悪いのに無理をしているらしい。 -lemon-  すぐ傍で飯食ってた鳳梨さんがまた体調不良起こしたみたいで、幽石垣先輩は食器片付けるのか鳳梨さん追うのか迷ってたから、ぼくが請け負うことにした。ぼくは食器を片付けて、ぼくは、っていうか、一緒にごはん食べてたコたちも手伝ってくれたんだけど、なんかやっぱり気になっちゃってトイレ見に行ったら、そこに鳳梨さんも幽石垣先輩もいなかった。けれど清野平(きよのひら)執行役員がいて、医務室行ったとかなんとか。秘書さんに用があったっぽくて、さっき会ったばかりだった。美人秘書。ぼくのこと弟みたいだって可愛がってくれる。いいな、美人秘書。ぼく好きだよ、そういうの。職場で秘書喰っちゃうやつとかね。人妻も好き。だからこう、オトナの女のやつが好きなんだよ。低身長系とかロリ系のは好きじゃないってこと。男なんてのは好きじゃなくても女が脱いでおけば勃つってわけでもなくて、少なくともぼくは、低身長売りにしてるやつと、ロリ系のはダメだね。反応しないもの。ロリ人妻もダメだな、やっぱり。こう、精神的に成熟してないと。なんて、職場で考えることじゃないよね。高身長、好男子、高給取りの3K揃ってる上司を前にすると、コンプレックスが湧いてくる。届かなすぎて、かえって本当にコンプレックス?って問いたくなるような。ああ、ぼく、秘書、人妻だけじゃなくて、女将さんモノもいいな。  ぼくは昼休みが終わるちょっと前くらいに医務室に行って、鳳梨さんの様子を見てこようと思った。だってなんか薄情じゃない。それから鳳梨さんに午後の仕事で優先しなきゃならないこととかあったら大変だし。しらばっくれたほうが楽かも知れないけど、まぁ、いいか。恩は売っといたほうがいいし、ぼくは鳳梨さんが医務室行ってたの知ってただろって後から責められるのも嫌だし、間に合わなかったりして鳳梨さんが頭下げてるところ見るのも胸糞悪いし。  医務室のある階は静かで、他の階と同じ構造なのに違う場所に見えた。他の部署の倉庫とかある。備品管理室とかも。静かだから医務室があるのか。  ぼくはノックした。

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