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1.1 ディストピアについての話
窓のない無機質なモノトーンの室内。ぎしりぎしりと軋むベッドの音に混じって、肌と肌がぶつかる乾いた音が響く。うつ伏せのまま背後から犯されながら、篠原旭は声も出せずにぐったりとしていた。
「はぁ……はっ……」
後ろの男はまるで犬のように息を荒げ、我を忘れて腰を振っている。普段どんなに知的で優秀なαであっても、発情したΩのフェロモンだけで、こんな動物に成り下がってしまう――なんとも皮肉なものだった。
腰を掴む男の手が力み、旭は一瞬眉を顰める。大きく数回突き上げられ、男が自分の中で果てるのを感じた。しかしΩの発情にあてられているαがそこで満足するはずもない。萎えることのない男のものは、まだ燻ったように旭の中を掻き回していた。
どうせなら俺のことも気持ちよくしてくれりゃいいのに。
旭は内心そうぼやいたが、放置された自分のものに触れようという気にはならなかった。発情期に入ってから二日目、何度も自分で擦ったせいで、もはや触れるだけで痛いからだ。上手なαであれば中から前立腺を擦って楽にしてくれるのだが、下手糞なαとの性交はただ苦痛なだけだった。
それでも、αにこうしてマウントを取られてしまえば、Ωに拒否権はない。男の陰茎の根元にある亀頭球は、今やしっかりと旭との結合をロックしてしまっていた。このまましばらくの間、男は旭の中でずるずると射精を続けるのだろう。
あと何分くらいだろうかと思い、旭はベッドに埋めていた顔をちらりと上げる。しかし、ベッドとサイドチェストしかないこの室内では、時間を知る術はない。ただセックスをするためだけに作られたような場所――ここは旭のために作られた隔離施設だった。
***
「早く出てった方がいいんじゃねーの? 俺、あとまだ二日はヒート終わんないから、すぐ次の波が来るぞ」
旭はベッドの上でシーツにくるまりながら、身支度を整える男を見た。生真面目な印象の、まだ三十歳手前の研究員だ。彼は冷徹な顔を顰め、旭を見下した。
「言われなくても分かっている。こんな役回りは二度とごめんだ」
「うん、あんた下手糞だから俺だって二度とやりたくないね。先月の人の方が良かったな」
研究員の男は小さく舌打ちをすると、白衣を羽織って部屋を出て行った。少ししてから、重い扉をガチャンと閉める音が聞こえる。それを合図に、旭はベッドからのそりと抜け出した。
寝室を出るとそこはフローリングの廊下になっており、リビングやバスルーム、トイレに繋がるドアが並んでいる。廊下の突き当りには玄関のような三和土があり、先程大きな音を立てた金属製の黒い扉が鎮座していた。
一見すると普通のマンションのようにも思えるが、玄関ドアにあたる黒い扉の先にはさらにもう一枚扉があり、それは内側からは開かない。なぜならここは、特殊なΩである旭を閉じ込めるための場所だからだ。
汗と体液で汚れた身体を一旦綺麗にするために、旭はバスルームへと向かった。元から全裸だったため洗面所で服を脱ぐ必要もないのだが、ふと鏡に映った自分の姿に足を止める。
普段から無造作にしているミルクティー色の髪は、いつにも増して滅茶苦茶に乱されている。今は少し発情が落ち着いているとはいえ、白い肌はうっすらと赤みがさし、薄茶色の瞳も熱に浮かされたように潤んでいた。
毎月毎月めんどくさい。早く抑制剤飲ませてくんねーかな。
旭は心の中だけで悪態をつき、バスルームの折れ戸をがらりと引いた。
一時的に身体を清め、大きなバスタオルを羽織った旭は、リビングルームのソファに腰を下ろす。壁掛け時計を確認してからテレビをつけてみると、ちょうど夜のドラマが放映されているところだった。地下に造られたこの居住区域には窓がないため、時々時間の感覚が狂いそうになる。
ドラマの内容は女性が好みそうな恋愛もの。αの男とβの女による身分違いの恋を描いているようだった。
この世界の人間はα、β、Ωの三種類に分けられる。人類のおよそ90%はβであり、彼らは至って平凡な男と女だ。βの男女の間に生まれた子供はほぼ確実にβとなる。はるか昔の人類は皆βだったという説もあるが、彼らが今もスタンダードであることは間違いない。
一方残った10%のうち、統計上7%がαであり、3%がΩであるとされる。
αは生まれつき高い能力を持っていることが多く、社会の中でも特に官僚や企業上層部、医者、研究職といった立場に立つ、いわばヒエラルキーの頂点に属する種だ。優秀なαの男女で子を作れば、その子供がαになる確率は上がる。だからこそ、このドラマのようにαとβの恋に障害が生じているのだ。
画面の中の男女は、αの親への説得を諦めて駆け落ちをしようとしている。しかしその準備のために二人が一度別れた後、αの男はふと足を止めた。彼はまるで何かに導かれるようにして路地裏へと入り、うずくまる一人の女を見つける。彼女はΩだった。
Ωというのはαとは対照的に、社会構造の底辺に追いやられている。その大きな理由はΩの持つ発情期だ。Ωには月に一度、ヒートと呼ばれる発情期がやってくる。その数日間は勉強や仕事などが手に付かないだけでなく、そのフェロモンによってαを引き寄せてしまう。発情中のΩとαが出会ってしまったが最後、本能の赴くままに彼らは性交に溺れることになる。
ドラマではαの男とΩの女がホテルで抱き合い、βの女は駆け落ちのための待ち合わせ場所で一人取り残されていた。おそらくこの後Ωの女は妊娠し、ドラマはまた一波乱あるのだろう。なぜなら、ヒート中のαとΩの受精率はほぼ100%だからだ。
αはその能力だけでなく、生殖器官も通常とは異なっている。αは女もペニスを持ち、βやΩの男女を犯すことがある。また、αのペニスの根元には亀頭球と呼ばれる瘤があり、Ωとの性交中に性器が抜けないよう働く。ノッティングと呼ばれるその状態で、αは通常時の十倍の精液を出すため、こうした高い受精率を叩き出しているのだ。
Ωは高潔なαを惑わし堕落させる魔性、生殖のためだけの種族――それが社会の風潮だ。涙を流すβの女をクローズアップしている画面も、まさにそう物語っている。
抑制剤を使えば発情をかなり抑えることはできるが、それでも薬を切らして不用意に街中で発情してしまえば、レイプされてもΩの自業自得だとされた。発情期というハンディを背負っていても、学校の勉強や会社での仕事でβ並に能力を発揮できることもある。だが、「いつ発情するか分からない」という社会の目だけはどうしてもなくならなかった。
ドラマのベッドシーンを見ていたら、旭の下腹部の辺りが再びむずむずと疼きだす。心では拒否していても、身体はαを欲して止まらない。このドラマのようにαを捕まえて種を搾り取りたいと身体の奥が叫んでいる。
それは単なる肉欲ではなく、繁殖を目的とした本能だ。なぜなら、Ωの男はメスとしての生殖機能も持っているからだ。Ωの男にもペニスはあるが、種側としての機能はほとんどない。男女関わらず、Ωは種を植え付けられる側だった。
***
発情期も終わって何日か経過した後、安全期と判断されれば隔離区域の警戒度も下げられる。黒い入り口ドアが開き、白衣の研究者数人が旭のリビングルームへとやってきた。
「はいはい、今月の発情期で何か新しい発見はありましたか? α様?」
ソファに座っていた旭はジーンズに包まれたスラリとした足を組み直し、挑発するようにそう言った。
「いや、何も。相変わらず体内のホルモン、体外のフェロモン共に通常の五倍で異常。妊娠結果については来月のヒート如何だ」
カルテのようなものを持った男が淡々と告げる。十六歳でこの研究施設に入れられてから既に六年以上経過しているが、毎月発情期が来るたびに同じことを繰り返してきた。
「もういい加減諦めろよ。六年半もこんな場所に拘束するなんてさ、いくらΩ相手でも人権問題じゃねーの?」
「拘束ではなく、これは保護だ。抑制剤が効きにくいΩに通常生活などできるはずがない」
旭には通常のΩと異なる点が二つあった。その一つが、発情期に発するフェロモンが異常に多く、発情抑制剤が効きにくいことだ。
「そんなこと言ったって、発情期なんて一ヶ月の内のたかだか何日かだぞ? その間だけ『保護』していただければそれでいいんですけど」
「ヒートサイクルが乱れる可能性もある。万全を期すなら外に出る必要はない」
「大丈夫だって。周期見誤って街中でαに襲われたって、どーせ妊娠なんてしねーんだしさ」
旭が他のΩと異なるもう一つの点が、ヒート中にαと性交しても妊娠しないことだった。受精率100%と言われる中、何度やっても結果は変わっていない。毎月発情期になると人柱となるαが送り込まれてくるが、誰とやっても同じだった。
「Ωである君が良くても、惑わされ自我を失うαが出るという被害は変わらない。ましてや君の異常なフェロモン量では、αだけでなくβの男も狂わせる。社会の秩序というものを考えろ」
ソファの旭を見下ろす彼の細い目は、まるで下等生物を見るかのようだ。この施設の研究者はほとんどがα、あるいは努力した優秀なβばかりで、Ωに対する風当たりは強かった。
彼の少し後ろに立っている男をふと見ると、彼は慌てて視線を外す。あの男は確か、つい何日か前に送り込まれてきた今月の人柱――精子提供者だ。あの時は獣のように好き放題したくせに、「あれはΩのせいでおかしくなっただけだ」と言わんばかりに今はスカしている。全ての「悪」をΩに押し付けようとするαと社会に対し、旭は吐き気にも似た嫌悪感を抱いていた。
「その社会の秩序ってやつを守るために、もっと強力な抑制剤を開発するのがお前らの仕事だろ? 治験とか言って最近やっとそれっぽい成果は見えてきたけど、進捗遅すぎだろ。お前ら無能なんじゃねーの?」
「そう思っているならなおさら、君はこの研究所にいてもらわなければ困る。より強力な抑制剤の開発のためにも、より効率的な避妊メカニズムの解明のためにも、君のフェロモン異常と不妊現象には価値があるんだからな」
「だから、六年も待ってやってるのに遅いっつってんだよ、クソαが」
「新薬の開発には時間がかかるものだ。顔は綺麗なのに、その口の汚さは何とかならないのか」
手元のファイルをぱたんと閉じ、白衣の男は大きな溜め息をついた。
「はっ……お前も俺のことそういう目で見てるわけ? 鳥肌立ったんだけど、どーしてくれんだよ」
四十代くらいのこの男は、いつも主任と呼ばれているが、今まで一度も発情中の旭に直接接触してきたことはなかった。鋭く吊り上がった彼の細い目を見ていると、まるで氷柱を首元に当てがわれているような寒気を覚える。
「勘違いするな。綺麗ってのはな、男を誑かすためのΩらしい顔だってことだ。発情中ならその口の方もΩらしくなるのにな」
男が口元を歪めて嗤う。この居住区域にはいたるところに監視カメラが仕掛けられている。つまり、発情中にあのベッドの上で行われていることも、そこでαに「欲しい」とねだっている姿も、彼らには全て見通されていた。
「クソッ、報告が済んだならさっさと出てけよ。αと同じ空気吸ってると吐き気がする。もう来月のヒートまで入ってくんなよ」
ソファの上であぐらをかき、旭は研究者たちをシッシッと追い払おうとする。
「残念ながら次のヒートが来る前に、ここには君の同居人が来ることになっている」
「同居って……」
「吐き気がするのはつらいだろうが、同居人はαだ。彼も通常とは異なるαでね。被験者同士仲良くしてやってくれ」
衝撃的な一言を残し、彼らはそのまま部屋を出て行った。
何でよりにもよってαなんかと。それ以前にαがなんで被験者側に? 通常とは異なるってどこがどう違うっていうんだ? 発情期が来るのに同居なんてしてたらどうなる?
いくつもの疑問が頭の中をぐるぐると回る。旭は昼食を作るのも忘れ、しばらくその場で放心していた。
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