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1.2 出会い
それから数日もしないうちに、本当にこの居住区に新たな住人がやってきた。白衣を着たいつもの「主任」が連れてきたのは、背の高い不愛想な男。玄関で彼らを出迎えた旭は、男にわざと不躾な視線を投げつけた。
身長は旭より15cmほど高いため、おそらく185cmから190cmはあるだろう。歳はおよそ30歳前後。長すぎず短すぎない黒髪にダークグレーのスーツ姿。胸元のポケットには少し大きめのペンが挟んである。いかにも真面目そうなサラリーマンといった風だが、その彫りの深い整った顔があまりにも無表情で、どこかとっつきにくい印象だった。
視線に気付いたのか、男が不意に旭へと顔を向ける。目が合った瞬間、ずきりと身体の奥が疼いた。
「私の方からお互いの紹介をしてやらないといけないのか? 小学校の転校生でもあるまいし、大人同士きちんと挨拶してくれ」
見つめ合ったままの旭と新入りに向かって、白衣の男が呆れたように肩を竦める。
「まあいい。ここでの生活についてはこのΩに聞くように。それ以外については先程話した通りだ」
彼はそれだけ伝えると、黒いドアを押し開けて出て行ってしまった。
「篠原、旭……」
男が不意にぼそっと呟く。
「何、あいつらから俺のこと先に聞いてんの? 俺の方はあんたのことαだってこと以外なーんにも知らないんだけど」
旭は廊下の壁に凭れて腕を組むと、まだ靴も脱いでいない男をじろりと睨んだ。
「イチジョウ、アラタ」
彼はそれ以上何も言わず、黙って靴を脱いだ。
「名前だけ?」
イライラを隠さず責め立てると、彼は険しい顔で手に持ったボストンバッグを掲げる。
「……まずは荷物を置きたい」
何となく会話がうまく通じない。はあっと大きく溜め息をついた旭は、まず彼をリビングへと案内した。
「荷物、その辺にテキトーに置いとけば? っていうか何それ」
「服と日用品。それ以外は持ち込まないように言われた」
「あー、服だったら寝室のクローゼットに……って、ちょっと待てよ」
あることに気付いた旭は、壁際に取り付けられた小さなモニターに近付くと、隣の数字パネルをピピピッと手早く押した。
「なあ、さっき新しい同居人とかっての押し付けられたんだけどさ、よく考えたらこいつの部屋なんてないんだけど」
画面の向こうには、内線で呼び出された研究員の姿が見える。
「部屋?」
「だから、こいつの服を置くクローゼットとかベッドとかないだろって言ってんだよ」
旭はモニター脇の壁を指でせわしなくカツカツと叩いた。
「現在使われている寝室はダブルベッド、クローゼットの中身もガラガラなのは把握済みです。二人で生活するにあたって何も問題はないでしょう」
「なに、言って――」
旭の反論を待たずに、モニターはぷつんと暗転した。再度かけ直してみたが、今度は誰も出ようとしない。
「寝室は廊下の斜め奥にあった部屋か?」
何食わぬ顔でリビングを出て行こうとするアラタに、旭は開いた口が塞がらなかった。
「は? お前今の話聞いてたよな?」
「ベッドは大きく、クローゼットも開いているから問題ない、という話じゃなかったか?」
「あ……αって変な奴いるのは知ってたけど、お前マジでどっかおかしーんじゃねーの? 俺と一緒に寝るってことだぞ? お前本当にそれでいいのかよ」
「よくないと思ってもどうしようもないなら、無駄なあがきはしない」
彼はそう言うや否やリビングを後にした。通常とは異なるα――まだ詳しい話を聞かない内から、あのイチジョウアラタという男が普通でないことは明らかだ。
彼の後を追って旭が寝室に入った時、彼は開いたクローゼットの間でごそごそと服を仕舞っていた。スーツのジャケットをハンガーにかけると、彼は黙ってクローゼットを閉じる。
「どうせ外になんか出ないんだから、もっと楽な服にすりゃいいのに」
旭の服装はTシャツとゆるいジーンズだ。ジャケットを脱いだとはいえ、アラタのパリッとした白いシャツと黒のスラックスは、部屋で寛ぐには不向きに思えた。
「着慣れているからこれでいい」
「まあ、αサマならそれが私服なんだろうな」
あんな服装で仕事をしたことのないΩには分からない感覚だ。旭の嫌味にも反応せず、アラタは室内を見回した。と言っても、この部屋にあるのは大きめのダブルベッドが一つと、引き出しの付いたサイドチェストが一つだけだ。見る場所が少なければ、自ずとアラタが興味を持つ場所も限られる。
彼がベッドをぐるりと回ってサイドチェストへ向かおうとしたのを、旭はサッと遮った。
「言っとくけど、あれ中身入ってるから。あんたの荷物はクローゼット」
引き出しを目で示し、旭は牽制する。アラタは特に何も言わずに「分かった」とだけ返した。
「ほら、ここ以外も簡単に説明してやるから」
とにかくこの寝室から気を逸らしたくて、旭はアラタの背中を押しながら部屋を出た。
「寝室の左隣のドアが洗面所とバスルーム、その隣の玄関に近い方のドアがトイレな。で、向かいに一個だけあるドアがさっきのリビングとダイニングとキッチンに繋がってる」
案内すると言っても、本当にそれだけの住処だった。
廊下の途中でくるりと振り返ると、真後ろをついてきていたアラタと思わずぶつかりそうになる。それほどの至近距離で並ぶと、改めて彼の背の高さを実感した。身体つき自体は比較的細身なのに、見下ろされると威圧感がある。
αというのは頭脳だけでなく、身体的な部分も恵まれているものだ。小柄なタイプが多いΩの中でも、旭はかろうじてβ並の身長を持っていたが、こうしてαと並んでしまうと敗北感を覚えた。
旭はぷいっと前を向くと、何事もなかったかのようにリビングへ向かう。すると、彼がすぐ後ろにぴったりついてきている気配を感じた。
まるで大きなヒヨコか何かだな。鴨の子供?
そう思うと彼への恐怖がいくらか和らいだ。
「もうすぐ夕食の時間だけど、お前どうする?」
「君はどうするんだ?」
アラタの声を背後に聞きながら、旭はキッチンへ向かった。
「俺は自分で作る。外から食事持ってきてもらうんだったら、あそこの内線電話使えば? 番号はメモ貼ってあるから」
先程使った壁のモニターを指差すと、アラタは怪訝な顔をした。
「外から食事をもらえるならそっちの方が便利じゃないか。どうしてわざわざ自分で作るんだ?」
旭は冷蔵庫を乱暴にバタンと閉めた。
「あいつらの用意した飯なんて何が入ってるか分かんないからな。大体、俺はあんな奴らに餌与えられて暮らすような家畜じゃねーっつの」
例外的に発情期中だけは彼らの用意した食事をとっている。しかしトレイに乗せられた栄養管理万全の食事は、どこか病院食のようで、生理的に受け付け難い何かがあった。
「ま、この食材だってあいつらに用意させたもんだから、考えだしたらどうにもならないけどな。そうそう、服でも食材でも、欲しいもんは全部変なカタログがあるからそれで注文しろよ。物にもよるけど、だいたい翌日には玄関先に届くからさ」
旭はハムと卵をまな板の上に置き、冷蔵庫の野菜室をほじくり返した。
「ちなみに君は今日何を作るんだ?」
「チャーハン」
リビングに突っ立ったままのアラタに向かって、旭は野菜室から発掘したネギを掲げて見せた。
「言っとくけど、お前の分はないからな。一人分しか飯炊いてないし、お前だってどうせΩの作ったもんなんか食いたくないだろ」
自嘲気味にそう言うと、アラタは黙って壁のモニターへと向かっていった。
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