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2.1 共同生活の始まり(1)

 カチャリカチャリと食器の音だけが響く中、旭は無言で自作のチャーハンを口に運ぶ。ダイニングテーブルの正面に座った男がじっと自分を見ていようとも、旭は何も気にしないことにした。  ちょうどその時、ピンポーンという軽快な音が鳴る。そしてすぐに、据え付けられたスピーカーから雑音が入った。 「夕食一人分、置いておきましたのでー」  朗らかな声はすぐにぷつりと切れる。ちらりとアラタを見るが、彼は今の放送などまるで気にした様子もなく、じっと座っていた。 「おい、聞いてただろ。取りに行けよ」 「外に?」 「入る時見ただろ? ドアの向こうにもう一つドアがある。二重扉の間のあのスペースが外との物の受け渡し場所だ」 「厳重だな。まるで無菌室だ」  アラタが立ち上がると、椅子がギッと鈍い音を立てた。 「俺との接触を避けてやり取りするなら、あの構造が一番便利なんだろ」  アラタは相変わらず無表情で、理解しているのかどうかも怪しい。 「俺の特異体質、聞いてんだろ?」 「フェロモンの過剰分泌?」 「そう。もしあの二重扉がなかったら俺の発情期中は面倒なことになる。ドアを開けた瞬間にその辺の男は匂いに気付くだろうな。無菌室ってのはある意味合ってるんだよ。俺があの二重扉の間に入った後、空調設備が働いて俺のフェロモンを消してるはずだ」  そこまで説明してやってもアラタはノーコメントで、すたすたとリビングを出て行った。  一体あいつは何なんだ? 無口で無表情で、何考えてんだかさっぱりだ。  持っていたスプーンをぶらぶらと揺らしながら、旭はそんなことを考える。そうこうしている内に、アラタがトレイに乗せられた食事を持って帰って来た。 「今日の給食は何だった?」  揶揄を込めて尋ねると、アラタは律儀にトレイの上に視線を落とした。 「白米、味噌汁、鰤の煮付け……」 「あー、もういいから」  彼は言われた通り言葉を止める。向かいの席に腰を下ろした彼を、旭はこっそり観察した。食事の間くらいは多少表情も緩むかと思ったが、彼は美味しいのかも不味いのかも分からない仏頂面で、ただ黙々と食事を続けている。  旭は自分のチャーハンがほぼ全てなくなった頃、ぽつりと話しかけた。 「お前さ――」 「イチジョウアラタ」 「……イチジョウさんってさ、こんなとこに閉じ込められてんのに何とも思わないわけ?」  この閉鎖空間での生活に対し、彼が全く不満を見せないことが驚きだった。最初の頃の旭自身がそうだったように、もっと暴れたり喚いたりするものと思っていたからだ。 「事前に了承済みだ」 「了承? そろそろおま……イチジョウさんが何でここに来たのか教えてくんない?」  空になったチャーハンの皿を脇に避け、旭はテーブルに頬杖をついた。アラタは味噌汁をずずっと啜って、無言のまま食事を続ける。 「だんまりかよ。普通じゃないαだって聞いたけど?」  落ち着いた所作で和食を平らげていくアラタを、旭は辛抱強く待った。  無視かよ。Ωなんかに話してやる義務はありませんってか。  旭はそう言いたいのをぐっと堪えてアラタを睨んだ。やたらと綺麗な箸の使い方でさえ今は癇に障る。まるで「お上品なα」だという自己主張をされているような被害妄想が旭を襲った。 「食べ終わったこれは? 洗った方がいいか?」  優雅に食事を終えた男は、トレイを示してそう言い放つ。 「そのまんまドアの外に置いとけ。洗ってやる必要なんかない」  席を立ちトレイを運んでいく彼の背に向かって、旭は小さく舌打ちした。  何なんだよ。まるで俺ばっかりがあいつのこと知りたがってるみたいじゃないか。俺だってαなんかと話すのはごめんだ。できることなら会話もしたくない。  そう思い立つや否や、旭も自分の食器を持ってキッチンへ向かう。アラタが戻ってきている気配を感じても、気にしないようにして皿や中華鍋を洗い続けた。  洗い物を済ませてキッチンから出ると、ダイニングテーブルの脇に立ち尽くすアラタが目に入ったが、それを無視してリビングへ向かう。どかりと二人掛けのソファのど真ん中に座ってテレビをつけてみたものの、いくらチャンネルを回してもつまらないバラエティ番組しかやっていなかった。  それでも、旭は何となくテレビを消すのを躊躇った。テレビを見ているという態度とタレントの笑い声で、見えない防御を張る。  しかしそんなバリアなど無視して、旭の視界の端でアラタが動いた。彼はすたすたと旭のいるソファへ歩み寄ると、無言で隣に座った。  身体と身体がぴったりと密着するほど近い。文句を言おうとしたが、自分がソファの真ん中に座っているせいだということに気付き、旭は怒りの矛先を失った。  何でこいつと寄り添って面白くもないテレビなんか見ないといけないんだ。  旭は素早くリモコンでテレビを消すと、すっくと立ち上がった。すぐにこの場を離れようと一歩踏み出したその時、座ったままのアラタに腕を掴まれる。 「……な」  驚きのあまり声を出してしまったが、彼は無言でじっと旭を見上げるだけだった。  そんな目で見られたって、何が言いたいのかさっぱりだっつーの。  そう言いたいのを我慢して、ぐっと一度唇を噛む。 「離せよ」 「……どこに行くんだ?」 「風呂の準備!」  ぶんっと勢いよく手を振って拘束から逃れる。大慌てでリビングを出る旭を、彼はもう追っては来なかった。  バスタブに湯を張る準備をした後、リビングには何となく戻りづらくなり、旭は寝室へ向かった。ぱたんとドアを閉めると、随分久しぶりに一人になれたような気がする。  サイドチェストの一番上の引き出しから文庫本を取り出すと、そのままベッドに仰向けにダイブした。風呂の準備が終わるまで読書でもしようと、栞の挟まったページを開く。  しかし文字を追おうとしても、あの男のことが気になった。リビングに取り残された彼は、テレビも消えた部屋でぽつんとソファに座っているのだろうか――そんな滑稽な姿を考えて首を振る。きっと勝手に自分の見たい番組でも見ているに違いないと考え直した。  しかしそんな予想をわざと裏切るかのように、寝室のドアがかちゃりと開く。がばりと身を起こすと、ドアの隙間から室内を窺うアラタが目に入った。 「ノックくらいしろ!」  思わず怒鳴ると、彼は開けっ放しのドアをコンコンコンコンと叩いた。 「今更うるさい。っつーかなんでずっと黙ってるわけ? ストーカーじみててキモいんだけど」  厳しい言葉を投げかけると、表情は変わらないくせに彼の周りの空気がどんより曇った気がした。 「戻ってこないからどうしたのかと思って」 「お前のところに戻る義務なんかないだろ」 「リビング……テレビがあるからまた見にくるかと」 「見ないから消したんだ。お前、αのくせに頭足りてないんじゃねーの?」 「見たところ、ここにはテレビ以外の娯楽が見当たらない。つまり、暇を潰すにはテレビしかない、と思った」  推論の根拠を淡々と述べるアラタに向かって、旭は持っていた文庫を見せつけた。 「本もゲームも何でも言えば持ってきてもらえるからな。たまに検査や栄養剤の投与があって、運動不足解消のためにエクササイズルームなんかも用意されて、あとはダラダラ過ごして毎日タダ飯。電気も空調も外からぜーんぶ管理してもらえる。ユートピアみたいだろ? ま、全部監視されてっけどな」  角の天井に取り付けられたカメラをちらりと見ると、アラタも真似してそこに顔を向けた。外見は二十代後半から三十代前半、おそらく旭よりも年上のはずのその男は、まるで母親について回る子供のようだ。 「とにかくそういうわけだから、お前はテレビでも見てたら?」  αではなくただの子供を相手にするように話しかける。ところが、男はむしろ寝室に入ってドアを後ろ手に閉めた。 「お前、この部屋にいてもすることないだろ」  本を読む間ずっと隣に黙って座られたらたまったものではない。しかし旭の威嚇も虚しく、彼はひるむことなく傍まで来てベッドの縁に腰を下ろした。 「何でそこに座るんだよ! だったら俺がリビングに――」 「俺がここに来た理由を話す」  ベッドから降りようとしていた旭は、そこでぴたりと動きを止めた。  さっきは無視したくせにどうして急に話す気になった?  この男の秘密が知りたい。  いや、俺はこんな男の話聞きたくない。  葛藤の末、旭は意を決してベッドを降りた。 「お、俺は、お前なんかに興味ないから」  せかせかとクローゼットを開けて着替えを取り出すと、旭はあえてアラタを見ないようにして部屋を飛び出した。

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