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2.2 共同生活の始まり(2)

 彼に後をつけられる前に大慌てで隣にある洗面所に入り、叩き付けるようにドアを閉じる。  本当に断ってよかったんだろうか。  頭を振ってそんな迷いを断ち切る。さっさとシャワーと熱い風呂で忘れてしまおうと服を脱ぎ始めた。Tシャツをぽいっと脱ぎ捨て、ジーンズを足から抜く。そして最後に下着に手をかけたその時、廊下に通じるドアが急に開いた。 「……は!?」  ドアの隙間から顔を覗かせたのは、他の誰でもないアラタだった。 「おま、なんで……覗き? ほんとキモい」 「やっぱり、どうしても話しておくべきだと思う」 「だからって風呂まで入ってくるかフツー!?」  そこでアラタは旭の身体をじろじろ見つめた。  外出もせず必要以上の運動もしない、白くて貧相な身体――旭にとってそれはコンプレックスだった。発情期中にやってくるαの大半が、旭の身体を見て「綺麗だよ」と言う。しかし旭にとってそれは褒め言葉ではなく、むしろΩへの性的なハラスメントにさえ聞こえていた。  目の前のアラタの視線が旭の急所を隠しているボクサーパンツに向けられ、慌てて傍にあったバスタオルで全身を隠した。 「へ、変態α! エロα!」 「男同士なのに何をそんなに気にするんだ?」  まるで自意識過剰だと言われたような気がして、旭の顔が赤くなる。 「な……男同士以前に俺はΩだ。お前みたいなαに散々好き放題されてきたんだから、警戒して当たり前だろ」 「俺はそんなことはしない」 「どーだか! αなんてどいつもこいつも、俺の発情期にあてられて豹変したんだからな」 「俺がここに来た理由を説明すれば分かってもらえるはずだ。だから話がしたい」  旭ばかりが焦っていて、アラタの方は全く動じることなく話を進めようとする。調子が狂う。 「さっきは俺のこと無視したくせに……!」  無視されたから無視し返す――子供じみた反抗心。言ってしまってからただでさえ赤くなっていた顔が茹蛸のようになり、羞恥で目尻に涙が滲んだ。 「無視……?」 「食事中!」  もうどうにでもなれと責めると、アラタは少し考えてから口を開いた。 「あれは無視したわけではなく、君に話すべきかどうかを考えていただけで……」 「だからって無言はないだろ」  一歩詰め寄ると、彼はやっと少しだけ困ったように眉尻を下げた。 「すまない、ここに来てから少し緊張しているみたいだ」 「緊張? なんで? っつーかさ、ずっと無表情で緊張どころか堂々としてんじゃん」 「それは……」  彼がその先を言わないせいで、洗面所の狭い脱衣スペースが沈黙に支配される。 「で、いつまでここにいるつもり? 俺、風呂入りたいんだけど」 「話を――」 「分かったから、風呂の後で!」  このままだとアラタはいつまでもここに居座りそうな気がして、旭も意地を張るのをやめ妥協することにした。そうすればアラタもここは一度引き下がってくれると思ったのだが、彼はまだじっとバスタオルにくるまれた旭を見つめている。 「……何? 一緒に風呂でも入りたいわけ? 言っとくけど俺、発情期外はそういうことしないから」 「え、いや、そういうわけでは……」  今まで無表情だったアラタが、ふいに初心な反応を見せる。ちょっとした冗談のつもりだったのに、旭の方まで恥ずかしくなってしまった。 「いいから外で待ってろ!」  大きなアラタの身体を無理矢理押し出し、旭は洗面所のドアに鍵をかけた。今まではずっと一人で暮らしてきたため、まさかこの鍵を使う日が来るとは思ってもいなかった。しかし鍵を閉めた後もまだ、彼がひょっこり顔を出すのではないかと思ってしまう。少しだけ警戒しながら、旭は今度こそ下着を脱いだ。  旭にとって風呂場とは、この住処の中で一番安心できる場所だった。トイレにも洗面所にもバスルームにも、ここでは至るところに監視カメラが付けられている。しかしこのバスルームの監視カメラは、なんと間抜けなことに曇り止めの機能を持っていなかった。  ――俺の風呂なんて監視したってサービスシーンでも何でもないだろ。  以前αの研究員にそんな嫌味を言ったことがある。その時に返って来たのは「すぐレンズが曇るから何も見ていない」という言葉だった。実際バスタブの縁に立って天井付近のカメラをじっくり見たところ、少しシャワーを浴びただけで、レンズ部分はきれいに曇ってしまっていた。  シャワーを浴びて頭と身体を洗ってから、ちゃぷんと湯船に浸かる。普段は足を伸ばしてゆったり寛ぐのだが、今日の旭は膝を抱えてバスタブの隅に丸まっていた。  あの男が来てから落ち着かない。旭は彼と目が合うたびに身体の芯が震えるような何かを感じていた。  運命の番。  その言葉が頭を過ぎった瞬間、前髪から落ちた雫が水面にゆらゆらと波紋を作った。  αとΩには番と呼ばれる繋がりがある。αがΩのうなじを噛むと番の契約が成立し、それ以降Ωが発情した際のフェロモンは番のαにしか効果がなくなるのだそうだ。そしてその番の契約は、基本的に互いが死ぬまで有効になる。αの方から無理矢理番を解除することも可能らしいが、その場合Ωにかかるショックや負担は相当なものになるとされていた。あまり詳しいことは知られていないが、少なくともフェロモンの効力が失せた以上、発情期に相手をしてくれる者はいなくなってしまうのだから、Ωにとっては死活問題だ。  どこかのαが番にでもなってくれれば、俺のこの迷惑なフェロモン体質の被害も減るだろうに。  旭はこれまで何度となくそんなことを考えてきた。しかし当然のことながら、実験のためにやってくるαたちがわざわざ旭の番になるはずもない。ここに実験動物として閉じ込められている限り、番などというシステムとは無縁だった。  ましてや「運命の番」という都市伝説など、まともに考えたことすらなかった。生まれた時から番になるべく宿命づけられたαとΩ――どこかのロマンチストが考えた夢物語のようなそれによると、運命の番は出会った瞬間にお互い何かを感じるという。  何を考えているのか分からないアラタの深い瞳に、旭は言いようのない何かを覚えていた。単に彼の思考が読めない不安でもなく、αに対する恐怖や嫌悪感でもなく、身体の内側が僅かにピリピリと痺れるような、不思議な感覚だ。  運命の番なんてもんはただの噂だ。これはきっと風邪か何かを引いてるだけに違いない。あんな男が俺の運命だなんて、馬鹿な想像はやめておけ。  ばしゃりと両手で掬った湯で顔を洗う。この後風呂を出て、彼からいったいどんな話を聞かされるというのだろう。  旭がそんなことを考えた瞬間、擦りガラスのドアがガラッと開いた。 「寝間着を持ってくるのを忘れたんだが、どうすれば――」 「な、ななな……っ」  旭はバスタブの隅で自らの身体を抱き締め縮こまる。開いたドアを見上げれば、湯気の向こうでアラタが平然と顔を覗かせていた。 「か、鍵、閉めた、のに……」 「あんなものコインで簡単に開けられる。家庭内の鍵なんてそんなものだろう。こうやって緊急事態で開ける必要性もあるわけだからな」 「お前がパジャマ忘れた話のどこが緊急事態なんだよ……っ! ヘンタイ! 出てけ!」  アラタめがけてパシャッと湯をひっかけると、彼は素早くドアを閉めて回避した。そのままいなくなるかと思いきや、擦りガラスの向こうの人影は動かない。 「確かカタログか何かで頼めば何でも持ってきてくれると言っていたが――」 「後で説明するから、とにかく外で待ってろ!」  既に閉まっているドアに向かってもう一度勢いよく湯をかける。それでやっと彼は洗面所から出て行った。  何なんだ、何なんだアイツ! ストーカー! 覗き魔!  あまりにも興奮しすぎて頭がくらりとする。大して長い間湯に浸かっていたわけでもないのに、旭は半分のぼせ気味になっていた。

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