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3.1 一条新の事情(1)
服を着た後、仕上げにタオルでわしわしと髪を乾かしながら、旭は洗面所のドアをちらりと見た。アラタは一度入って出た後、外から律儀にもう一度鍵をかけたらしい。これまで使ったこともない鍵なので、外からコイン一捻りで開くことももちろん知らなかった。
何とはなしにドアを開けた瞬間、旭は思わず「ぎゃっ」と叫んでしまいそうになった。なぜならドアを開けてすぐの廊下に、 アラタがじっと立っていたからだ。
「何でそんなとこにいるんだよ」
「待ってた」
「廊下で? ずっと?」
「リビングと寝室どちらか迷って、一番確実なのがここだと思った」
彼は自信ありげに自分の行動原理を説明した。
「もう、ホント、お前ってマジでαなのか……? 頭弱いだろ」
そんなことをぼやきながら、旭は水分補給のためリビングへ通じるドアへと向かう。
「俺も、ずっと自分はβだと思っていた」
「検査ミス? たまに聞くけどそんなことホントにあり得るのか?」
旭はキッチンへ向かい、そこで一度冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した。
中学に上がる頃、子供たちは皆型検査によってα、β、Ωが診断される。それまで何の区別もなく一緒に遊んできた子供たちが、その日から三種類に分けられて新たな社会が形成されるのだ。
「だってαなら、発情中のΩと出くわせば一発だろ。検査にミスしても第二次性徴が終わる頃にはすぐ分かる。それとも何だ、まさかこれまで発情したΩに会ったことないとか言わないよな?」
ゴクゴクと水を喉に流し込んでいく旭をじっと見つめながら、アラタはおもむろに口を開いた。
「俺はΩのヒートを見てもラットに入らない」
Ωの発情をヒートと呼ぶのに対し、それに当てられた際のαの発情状態をラットと言う。旭は彼の言葉が信じられず、もう一度頭の中で言われた意味を考えた。
「えーっと、インポってこと?」
「いや、生殖機能的には問題ない。ただ、α特有の我を失うような発情状態というのを経験したことがないだけだ」
旭はまだ半信半疑のまま冷蔵庫をパタンと閉じた。
「それが……あんたがここに来た理由?」
キッチンカウンターの脇に立っていたアラタはこくりと頷いた。
「半年前、たまたまちょっとした怪我をして病院に行った時、βじゃなくてαだと判明した。しかしΩのヒートに今まで一度も影響を受けていないのはおかしい、と」
「それで怪我とは別件で捕まったわけか」
旭はアラタの横をすり抜けてリビングのソファへ向かう。すると、彼も大きな図体でのすのす後をついてきて、旭の隣におとなしく座った。
「まずは国立のABO型研究センターに送られた。そうだろ?」
「ああ。何度も検査を受けたが、結果はαだった」
「今まで学校の成績とかで気付かなかったのか?」
「成績は良かった。が、それは自分の努力によるものだと思っていた」
ちらりと横目で見えたアラタには、特に自慢気な様子もない。寡黙で努力家、と言われれば確かに彼はそんな性格な気がした。
「この研究所がどういうところかは分かってるな?」
「国立ABO型研究センターと共同研究をしている……確か白峰製薬という会社の研究施設だと聞いている」
「その通り。ここは単なる一企業の研究所のようでいて、国ともしっかり繋がりがある。信じられるか? こんな軟禁生活をさせるような施設を国が容認してるんだ」
ゆったり足を組んで座っていた旭は、ぼんやりと天井を見上げた。最後に地上階へ行ったのはいつのことだろうと思い出してみるが、残念ながら記憶の彼方だった。
「君の怒りはもっともだと思う」
隣から聞こえた悠長な声に、旭は思わず舌打ちした。
「俺だけじゃなくてさ、お前も閉じ込められてるんだぞ? そういえば自分から了承したって……なんでそんなこと」
「特別にフェロモンの強いΩがいる、そのΩの発情なら俺にも反応が起こるかもしれない、と言われた。それで俺の身体に何が起こっているのか手がかりを掴むことができると」
表情も変えず、何のしぐさも見せないアラタから、今の彼の心境を推し量ることは難しかった。
「分からないな。Ωの迷惑な発情行為に影響されないαなんて、そのままでいいじゃねーか。不都合ないどころかそっちの方が便利だ。お前がこんなところに来てまで原因を追究する必要あるか?」
「αがΩの発情に耐えるための薬を開発したいと言われた。Ωに妨害されずα同士で種を保存していくために不可欠な研究だ、と」
Ωはやはり社会の――αの害悪なのか。旭の腹の底がふつふつと沸き立った。
「それで、α様にお相手してもらえなくなったΩは自然と絶滅していくってことか」
嫌味っぽくそう言ったところで、ようやくアラタの鉄面皮にひびが入った。
「……そう、だろうか」
迷いを見せた彼に向かって、すかさず追い打ちをかける。
「何にせよ、お前はαをΩから守るための研究に協力することにした。Ωの俺を利用して」
わざとアラタの顔を下から覗き込むようにすると、彼の喉仏が一回ごくりと動いた。
「俺、は――」
彼はそれきり何も言わなくなってしまった。無言で何か考えているのかもしれない。待っていたら次に口を開くのがいつになるか分からないので、旭はさっさと話を進めることにした。
「で? 次の発情期、どうなれば都合がいいんだ?」
そう話しかけてやると、彼は旭に焦点を合わせて思考の世界から戻ってきた。
「俺がもし君の強力なフェロモンに反応を見せたら、それはフェロモンの受容体が鈍くなっていたということだ。その場合、俺はここから解放されて、白峰製薬は俺の受容体システムを徹底調査、新薬開発を行うと聞いている。しかし、君の発情にすら反応を見せない場合は、何らかの手がかりが得られるまであの手この手で実験が継続されるらしい」
「つまり……だ。お前をさっさと追い出したいなら、次の発情期でお前を発情させればいいんだな?」
「そういうことだ」
「それで、その後の新薬開発がうまくいけば、αの身体はΩのフェロモンを弾けるようになる。フェロモン攻撃のできないΩは滅亡。まさにハッピーエンド」
旭の言葉に、アラタはまた俯いてしまう。
αのお前がなんでそんな顔してんだよ。
旭には彼の考えが全く理解できなかった。
「Ωなんていなくなった方がいい。αのためだけじゃない。こんな扱いを受ける不幸なΩがもういなくなるなら、それはΩのためにもなる」
最初からΩなどという種がいなければ平和だったのに。旭の脳裏に一瞬両親の顔が思い浮かぶ。思い出したくない記憶に引きずられそうになったその時、アラタが声を発した。
「不幸なΩはいなくなって然るべきだ。が、そのためにΩ自体を消す必要もない。生物の進化上、多様性というのも大事だ」
「……! 今更綺麗ごと言うなよ? お前が協力してるのはな、過激なΩ絶滅運動論者と何も変わらない」
あからさまにΩを見下すαより、淡々とした今のアラタの言葉の方が苛ついた。悪を自覚している者よりも、無自覚な偽善者の方が性質が悪い。
怒りに震えた旭がぎゅっと唇を噛むと、不意に旭の手が温かいものに包まれた。
「俺がもし好きになった人がΩだったら、俺はきっとそのΩと一緒になる。発情を抑える薬があろうが、なかろうが」
アラタの手が旭の硬く握られた拳をやさしく包み込んでいる。あまりの驚きに、旭はそれをふりほどくのも忘れてしまった。
「生殖本能を抑える薬ができれば、心で相手を選ぶことができる。発情やフェロモンがなくとも、人間性の優れたΩは誰かに選ばれて子をなす。αの発情が薬で抑制されればΩが絶滅するなんていうのは、君の幻想に過ぎない」
旭は思い切り頭を振って否定した。
「Ωは生殖のためだけの生き物で、いい子孫を残したいαにとっては邪魔者だ――そう扱ってきたのは他でもないお前たちだ。今更人間性だの心だの、それこそ何も知らないαの幻想だ。口ではそんなこと言ったって、どうせαは理性でαを選ぶ」
優秀な子供を残そうと思えば、心も本能も無視して理性的に振舞うのが一番だ。αはそんな合理性や論理的思考が大好きだから、きっとそうするだろう。旭にはそうとしか思えなかった。
アラタを睨もうと顔を上げたら、彼もしっかりと旭を見つめていた。目が合って身体が熱く硬直する。
「ならやっぱり確かめよう。俺がこの研究に寄与して新薬が開発された後、Ωがどうなるか」
ヒートしたΩを見ても発情して襲ってこないα。
Ωを社会の恥として忌み嫌わないα。
運命の番となるα。
そんなものいるわけがない。
旭は無我夢中で彼の手を振りほどき立ち上がった。このままだと深みに嵌ってしまうような気がしたからだ。
「どうせ俺はずっとここで幽閉生活だから、外でΩがどうなろうと関係ないけどな。次の発情期が楽しみだ。とっとと追い出してやる」
挑発するようにそう言ったが、アラタはもう無表情に戻っていて、何も反応しなかった。
「そうそう、パジャマ忘れたって? 部屋着に着替えなかった時点で怪しいと思ってたんだよな」
旭はリビングの棚に入っていた衣料品のカタログを取り出すと、そこから彼に欲しいものを選ばせた。
「これを四着」
「何で同じもの四つも? せめて色変えるとかするだろ。もしかしてクローゼットに同じ服いくつも持ってるタイプかよ。大体このいかにもパジャマって感じのがおっさんくさい」
旭が言いたい放題していると、アラタはジロジロと旭の着ている部屋着を観察した。ゆったりとしたクルーネックのラグランシャツと、膝下丈のハーフパンツ。先ほどシャワーを浴びた後に着替えたこれが、旭のパジャマ代わりだった。
「何見てんだよ」
「それと同じのを着れば文句はないのか?」
「ガキじゃないんだから、俺の真似したり俺の後くっ付いてきたりしなくていいんだよ!」
相変わらずそんなやり取りをしながらアラタが選んだのは、微妙に色の違ういかにもなパジャマ四着だ。
そのままアラタをバスルームへと追いやってから、旭は勝手に彼のための私服を選ぶことにした。いつもあんなサラリーマンじみた格好で生活されるとやりにくくて仕方ない。しかし出会ったばかりの彼がどんな服を好むのかも分からず、旭は無駄にウンウン唸りながらカタログのモデルと睨めっこをした。良さそうな服を見つけては、頭の中で彼にそれを着せてみる。
いや、待てよ? 何であんな奴のためにここまで悩んでやらないとならないんだ?
我に返った旭は誰も見ていないのに急に恥ずかしくなった。わざとオヤジくさい服でも選んでやろうかと思いつつ、結局薄手のニットやリネンのシャツにいくつかのボトムスを合わせてやることにした。
暦の上では三月のはずだが、空調の効いたこの監獄では季節などないに等しい。サイズさえ合えば彼は文句を言わないだろう。
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