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4.1 小・中学校の思い出

 小学生の頃までは、男の子と女の子という分け方が世界の全てだった。旭も例外なく男友達とつるみ、校庭でサッカーをしたり誰かの家でゲームをしたりして過ごしていた。彼らは皆、「男」という性別を分かち合う一つの集団だった。 「俺もサッカー入っていい?」 「いいけど、庸太郎は弱いからこっちのチーム来んなよー。ただでさえあっちには旭がいるのに」  クラスメイトらがそんな会話をしているのを聞きつけると、旭は蹴っていたサッカーボールをひょいと手に持って彼らの元へ駆け寄った。 「じゃー庸太郎は俺のチームな。庸太郎がいるくらいがハンデになってちょうどいいし」 「う……今日は頑張る。旭、ありがとう」  運動のできる旭は、クラスの中でも人気者で、皆を仕切る上の立場だった。運動だけではない。クォーター故の人形のような顔を持ち、勉強もできて、絵を描くのすら上手かった旭は、悔しい思いをしたことがほとんどなかった。  小学四年生の頃、旭は隣の席になった麻里という女の子にちょっかいをかけた。頭の低い位置で左右に髪を結んだ、旭より少し背の高い女の子だった。 「デカ女! マリモ!」  そう言って結ばれた髪を引っ張っては、彼女を怒らせて逃げ回っていた。それは子供特有の、気になる子ほどいじめたくなるという心理だった。恋愛などという大それたものではなく、ただ男の子としてごく自然に女の子の気を引こうとしていただけの、つたない子供心。  少年漫画には大抵ヒロインの女の子キャラクターがいて、ある時は主人公がヒロインに必死のアピールをし、ある時はヒロインの方が主人公への恋愛感情を露骨に示していた。自分もいずれ大人になれば、誰かと恋愛をするのだろう――旭がそこでぼんやり思い描いた相手はやはり、女の子だった。  しかしそんな曖昧な認識が崩れ始めたのは、小学六年生の半ばだった。運動が得意な旭はいつも体育の授業を楽しみにしていたが、その時間はたまに退屈な保健の授業へと早変わりしてしまう。  その日の保健の授業の題材は、第二次性徴と子供の作り方だった。いつもは居眠りをしたり落書きをしたりして過ごしているクラスメイトたちだったが、その日の授業は皆どこかソワソワしながら先生の話を聞いた。  教科書には男の子と女の子の裸のイラストが描かれていて、第二次性徴を迎えるとそれぞれどんな変化が現れるのかが図示されていた。その少し下を見ると、小さく「Ω男子とα女子の体」というコーナーがあった。Ω男子は身長もアレも小さく、α女子にはなぜかアレが付いている。  さらに旭を混乱させたのは、隣のページにある性別分類表だった。そこは男と女という二つの区分ではなく、さらにそれぞれにα、β、Ωという見慣れない記号が付けられて、全部で六種類の性別に分けられていたからだ。 「人間の内、45%がβ男性、45%がβ女性で、皆さんもほとんどがβだと思います」  担任の先生は確かにそう言った。だから旭も自分はきっとβなのだろうと想像した。 「一応言っておくと、4%がα男性、3%がα女性、2%がΩ女性、1%がΩ男性になります。このクラス三十人中の三人くらいは、この中のどれかになるかもしれませんね」  もし仮にその三人になったとしても、男ならαという方になるんだろうなと朧げに考えた。その後は赤ちゃんの作り方という話に移り、旭はそんな人口比率に関する話を放り出して授業を聞いた。 「えーっと、男性のペニスから出た精子と、女性の中にある卵子が受精すると、赤ちゃんができます」 「せんせー、どうやって精子を女の中に入れるんですか?」  そんな質問の後に、くすくすと誰かが笑う気配がした。性的知識に疎い旭は、その笑い声が意味するところが分からない。 「それは……ペニスを女性の膣というところに入れて射精します」  若い女の先生はちょっと言いにくそうに説明してから、他の質問が来る前に再び口を開いた。 「ですが、この図を見てください。α女性は子宮もペニスもあるので、子宮を持った人に精子を入れることも、逆に精子を入れられることもできます」 「すげーっ! 便利じゃん!」 「じゃあ、このΩ男性もそうなんですかー?」  生徒から質問が上がる。図の中では確かに、Ω男性も女性の子宮とは全く別の経路で特別な器官を持っていた。 「Ω男性の精子はとても弱いので、子宮を持った人に入れても赤ちゃんができません。なので、Ω男性は精子を入れられる側にしかなりません」 「えーっ、男なのに変なのー」 「太一君、Ω男子だったりして!」 「うっせー、ブス! お前だってそのうち女のクセにチンコ生えてくんじゃねーの」 「俺Ωなんてぜってーやだ! そんなの女じゃん! チンコ付いてる意味ねーもん」 「そんな心配しなくても、地味な庸太郎はどうせβだろー?」  あちこちで私語が広がり、ざわりざわりとクラスが盛り上がる。しかしその間、旭は無言で教科書の親の性別と生まれる子供の性別の確率を睨んでいた。  果たして自分はどこの確率で生まれたのだろうと考えた時、旭は両親の型を知らなかったことに気が付いた。しかし非常に重要な情報として、旭の両親はどちらも男だった。  両方男ってことは、どっちかがΩじゃないと男同士で赤ちゃんはできないんだ。そうすると、父さんたちはβとΩか、αとΩ……?  旭の視線の先、教科書にはこう書かれている。  β×Ω=β(90%) Ω(10%)  α×Ω=α(40%) β(20%) Ω(40%)  旭はそこに書かれた数字を見て目を白黒させた。先程先生の言っていた人口比ではα男性が4%でΩ男性は1%なのに、両親の性別とこの掛け合わせ表から考えると、旭がαやΩである確率はもっとずっと高いことになってしまう。  うーん、確率ってよく分からないな。でもまさか俺が1%のΩなわけないし、大丈夫だよな。  旭はそうやって自分を納得させた。しかし帰宅後にその話を両親にすると、旭は衝撃的な事実を聞くことになる。 「旭、ごめん、父さんたち二人とも……Ωなんだ」  それは、教科書によると子供ができないとされる未知の組み合わせだった。  旭がΩであると診断されたのは、それからさらに半年後の中学入学時だった。人口の内たった1%しか存在しないはずのΩ男性――両親が二人ともそれだっただけでなく、そこから生まれた旭もまたΩの宿命を負っていた。生まれてから約十二年――ずっと男として生きてきた旭にとって、それはアイデンティティの大きな崩壊だった。  旭の同級生約百人の内、Ωは男女合わせて旭以外誰もおらず、αは八人だったという。 「今年の新入生はΩが少なくて安心しましたな」  偉そうな先生がちらりとそんな話をしていたのをよく覚えている。  皆口々に自分の診断結果を教え合っているので、旭も友人たちに結果を教えないわけにはいかない。旭がΩであると知った時、今まで同じ「男」としてつるんできた彼らは、旭を異質な存在として見るようになった。 「なあ、太一、今日サッカーするだろ?」  昼休み、旭はいつも通り仲間に声をかけたが、彼らの反応は鈍かった。 「え、校庭先輩たちが使ってるから、中一の俺たちだとな……」 「昨日はサッカーやってただろ。俺、見たし」  旭に声をかけることなく、昨日彼らは校庭で遊んでいた。 「そうだけどさ……」  居心地の悪い空気になった時、教室のドアを開けて庸太郎という幼馴染の友人が近付いて来た。彼はこの前の診断でαだと分かったらしい。 「なあなあ、体育館空いてるから隣のクラスの奴らとバスケの対戦しよーぜ」  彼は旭ではなく、旭と向かい合っている太一だけに声をかけた。 「じゃあ、俺も」 「あ……バスケの人数ぴったり集まったから」  旭の言葉はすげなく却下され、彼らは教室を出て行った。厳密な人数のルールなどこれまでもほとんど無視してきたのに、庸太郎は誰よりも露骨に旭を避けるようになっていた。 「庸太郎君、最近背伸びたよね」  教室の隅で数人の女子がそんな会話を始める。その中には、小学生の頃旭がいじめていた麻里も入っていた。 「だってαなんでしょ? 多分これからもっと伸びるよ」  小学生の頃は庸太郎より旭の方が背が高かったのに、彼はこの半年ほどで旭の背を軽く抜き去っていた。 「ねえ……バスケ、見に行こっか」  彼女たちは少し恥じらうように顔を見合わせてから席を立った。  庸太郎なんて、小学生の頃は全然目立たなかったじゃん。サッカーも弱くて、いつも俺の金魚の糞でさ。バレンタインだってクラスの中で一番チョコ貰ってたのは俺だし、庸太郎なんて誰からも貰えてなかったし。αだからって何だよ、急に。  旭は心の中でそっと文句を言った。小学生の頃はどんなにいじめても女の子から構ってもらえなくなることなどなかったのに、中学に上がった途端、女子だけでなく男子でさえ昼休みの旭に声をかける者はいなくなった。 「Ωはいつか発情が始まって、その間は特別学級に行くらしい」 「αはΩに近寄らない方がいいらしい」  ヒソヒソとどこかでそんな噂が立てられている。中には、不躾な質問をぶつけてくる者もいた。 「なあ、まだハツジョーキ、ならないの?」  旭はカッと顔が熱くなるのを感じた。 「なってねーよ!」  発情期もまだ来なければ、身長もクラスの中の平均を保っており、旭はまだ自分がΩであるということを認められずにいた。今までずっと同じ男だったはずなのに、なぜ自分だけが切り離されなければならないのか、納得がいかなかった。  何がΩだ。そんな性別なくなってしまえばいいのに。  学校の真ん中でそう叫びたくなった。何度も、何度も。  しかし旭は全てを飲み込んで、せめて男らしくあろうと努力した。女々しく泣くまいと決めたあの日から、たとえ大きな瞳に涙が滲むことがあっても、決してそれを零すことはなかった。

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