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8.1 偽りの嫉妬?(1)
ガチャリという重い音を立てて、外部と通じる白い扉が封印される。研究員らは旭とアラタを黒いドアの向こうに閉じ込めると、すぐに部屋を去っていった。
「ただいま」
アラタがぽつりとそう言ったのを無視してさっさと靴を脱ぐ。先に部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、追いついてきたアラタが背後から腕を掴んだ。
「旭、さっき何を貰ったんだ?」
彼の視線は旭の持つ小さな紙袋に注がれていた。
「これ? なんか傷に貼るやつ」
掴まれていない方の手を上げて手首を見せてやる。
「傷?」
「大したことない」
旭は腕を下ろしたが、アラタはガッシリと旭の両肩を掴んで壁に押し付けた。
「βのあいつに何かされたのか?」
「は!? 違う、あの研究員たちだよ。ロープでしょっ引かれたら傷になったんだ。崎原先生はむしろ助けてくれたんだって。大体、あの先生がそんなことするわけないだろ」
旭がもがいても、αの圧倒的な腕力に敵うわけもなかった。
「旭は、やっぱりあのβの男が好きなのか?」
間近で見るアラタの目は、目の前の獲物を逃がすまいと照準を定めている。
「お前が言ってる好きの意味が分からないんだけどさ、俺は普通の意味で崎原先生が好きだよ」
「じゃあ、俺とあの男のどっちの方が好きなんだ?」
アラタは旭の身体をぎゅうっと抱き締め、旭の髪に顔を埋めた。
「あのなあ、会って一週間のお前と、もう二年? いや三年? くらいお世話になってる先生と、二人比べてどっちが好きかなんて分かりきってるだろ?」
「分からない」
「とにかく、夕飯作るから離れろって」
アラタは完全に拗ねてしまったようで、欲しい答えが得られるまでは梃子でも動かないといった様子だ。
好意の表れ――ふと崎原が言っていたことを思い出す。おそらくこれは嫉妬なのだろうということは、旭にも分かっていた。それに気付かないほど鈍感ではないからだ。ただし、そもそもなぜこの短期間でここまで好かれているのかは分からない。
旭は子供をあやすようにアラタの背中をぽんぽんと叩いてから、こっそり溜め息をついた。
「夕飯いらないんなら作らないぞ。一ついいこと教えとくとな、俺は崎原先生に何か料理を作ったことなんてないからな。分かったか?」
その言葉に、アラタは現金にもぴくりと反応を見せた。
「カレーも? 麻婆豆腐も? パスタも? ハンバーグも? シチューも?」
「はいはい、全部」
アラタが並べ立てたのは、この一週間で食べたことのあるメニューだ。
「今日はオムライスな。分かったら離して、とっとと着替えてこい」
アラタのネクタイの結び目を緩めてやると、彼はやっと旭を開放した。
***
食後の休憩としてソファで野菜ジュースのパックにストローを差すと、すぐアラタが隣に座ってきた。
「ごちそうさま」
旭は何も言えずに、ちゅーっとジュースを吸い上げた。
「旭の料理はいつもおいしい。が、オムライスは特においしかった」
液体が鼻に来て思わず咳込んでしまう。
「男のテキトー料理に何言ってんだ」
「真っ黒にならないだけすごい。あの料理はどうやって習得したんだ?」
旭は意味もなくジュースのパックを撫でまわした。
「しゅ、習得って……。料理本買って覚えただけだって。ここネット使えないから面倒だったな。包丁欲しいってのも最初は却下されたし」
「却下?」
「武器になるからじゃねーの? 研究員に包丁向けたり? あと……自殺したり? 料理に使うだけだって何度も言ってやっと注文できたんだ。暇だからリビングの棚でもDIYしようとした時だってさ、工具セットの購入許可が下りるまで大変だったんだからな。ハンマーで壁に穴を開けるかもしれないって……監視カメラで見てるんだから途中で止められるだろっつーの」
旭は遠い目で昔を懐かしんでからチビチビとジュースを飲んだ。
「あ、何かテレビ見る?」
リモコンをちらつかせると、アラタの肩が小さく震えた。
「ああ、心配すんなって。テレビ付ける時はまず時間を見る。今の時間はバラエティかドラマ。で、ニュースの多いチャンネルは時間に関わらず見ない。これでいつも大丈夫だから」
リモコンで電源ボタンを押すと、予想通りそこではオフィスもののドラマが放送されていた。男女の社員のコミカルなやりとりを見ながら、旭はふと今日見たアラタと女のツーショットを思い浮かべた。
「お前、そういえば明日も仕事?」
「ああ。どうして? 寂しい?」
「んなわけねーだろ」
旭は空に近いジュースを思いっきりへこませながら、アラタに肘鉄を入れた。
「そんなに仕事があるんなら、発情期の時だけここに来ればよかったのにって思ったんだ。ほら、いつも俺のところに来るαどもみたいにさ。発情期以外をこうやって一緒に生活する意味なんてないだろ。研究者にそう命令されたのか?」
「いや。発情期よりも先に旭に会っておきたいと、俺の方から頼んだ」
旭は紙パックを吸うのをぴたりと止めた。
「なんで?」
ドラマの内容など二人とももう全く気にしていなかった。アラタはリモコンでテレビの電源を落とすと、かなり長いこと逡巡してからゆっくりと口を開いた。
「その、初めての相手だから……赤の他人ではなく、それなりに親密になっておきたかった」
咥えていたジュースのパックが、旭の口からぽろりと落ちる。
「だ、だからって……俺との共同生活を自分から申し込んだのか?」
深々と頷いたアラタに、何と声をかけていいか躊躇った。
「何て言うか……ロマンチストな童貞、なんだな……。そもそも、お前ホントに童貞なのかよ」
今日の昼間見たのと同じように、アラタは顔を赤らめた。旭の中で、あの時感じたムカムカしたものが蘇る。
「弁護士様なんだろ? 金目当ての女にホイホイ誑かされて既成事実作られたりしてたんじゃねーの?」
「そんな暇はなかった。弁護士になるまではβだから頑張ろうと勉強に必死で、弁護士になってからは休む暇もなく仕事があった」
「一晩遊ぶくらいはあっただろ」
旭はゴミ箱に向かって紙パックをシュートした。弧を描いたパックは、どこにぶつかることもなく綺麗にゴミ箱に吸い込まれる。
「あっても俺はそういうことはしなかった」
旭を真っ直ぐ捉えるアラタの目に嘘の色はなかった。
「あっそ。そんな身持ちの堅いαがこんな実験でΩ相手にヤッちゃっていいわけ?」
「だからせめて、その前にお互いを知っておこうと思った」
アラタはやはりどこか言葉を選んでいるようで、今一つ完全に信じることができない。
つまり、こいつが俺に懐いてるのは純粋な好意じゃなくて、初体験に至るまでの恋人ごっこみたいなものをしようとしてるのか?
彼の露骨でつたない愛情表現を思い出すと、子供のままごと遊びというのもどこか納得できる。しかしこれまで散々彼に振り回された割には、その行動原理があまりにも単純で、どこか虚しさを覚えたのも事実だ。
俺のこと本気で好きってわけじゃないのか。実験で初体験を捧げる相手だから、仕方なく……って感じか?
「旭は、まだ信じられない?」
その言葉に現実に引き戻される。
「え、いや。もう分かったよ。お前が純情童貞なんだってことがな」
「どことなく、馬鹿にされたような気がする……」
アラタの声色はあからさまに不本意だと言っていた。
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