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7.2 やすらぎのオアシス
カウンセリングルーム内の会話は、医師と患者だけのプライバシーが保たれる。いつも入り口に立って待っている引率の研究者も、この時ばかりは崎原が呼ぶまでどこかへ追いやられていた。
「新しく同居人が増えたそうですね」
デスクの奥にある椅子に座るなり崎原はそう言った。
「ああ、ここにも来たって言ってたな。コミュニケーション入門とかいう変な本、先生があいつに渡したんだろ?」
旭はデスクの手前にあった患者用の丸椅子に腰かける。
「はい、彼も色々とあなたのことで悩みがあったみたいなので」
「あの無表情に悩みなんかあんのかよ」
旭はケッと吐き捨てた。
「残念ながら一条さんの悩みについてお話しすることはできません。が……篠原君はどうですか? 彼の悩みが気になる?」
「別に。どうせあいつは分からないことだらけなんだ。悩みだけ聞いたって意味ないだろ」
旭は足を組んで興味ないという態度を取った。
「分からないことだらけ……何が分からないのですか?」
「あいつが何を考えてるのか」
端的な旭の回答は不十分だったようで、崎原は「具体的には?」と相槌を打った。
「何で自分からこんなところでの生活を受け入れたのか。何で子供みたいに俺の後をついて回るのか。何でわざわざここに来てまで仕事をするのか……まだ言うか?」
「分からないことがあるなら、吐き出して整理しましょう」
温和な崎原の言葉に乗せられて、旭はふと先程見た光景を思い出していた。
「女とヤッたことがないってのは本当なのか。本当なら、それは何でなのか。嘘なら、何でそんな嘘をついたのか。……あいつは、俺と発情期を過ごすことをどう思ってるのか」
言ってしまってからカッと顔が熱くなる。彼の性事情ばかり気にする自分を、あさましいΩの性として恥じた。
「篠原君はどう思っていますか? 発情期を彼と共に過ごす……どうなると思いますか? あるいは、どうなってほしいと思いますか?」
旭は無意識に膝の上の拳を握っていた。
「俺はあいつが嫌いだ。αだし、弁護士だし、一番憎むべき存在で……気ままな一人暮らしの邪魔者だ。だから、さっさと出て行ってもらうためにあいつを発情させて、フェロモンの感知が鈍ってただけなんだって証明させたい。原因が分かればすぐに調査は終わりだって聞いたから」
「篠原君は、一条さんが発情すると思っている」
「俺のフェロモン、βにまで効くから……あ、崎原先生には効かないけど。とにかく、αのあいつに効かないってことはないと思う」
どんなαも籠絡できるという点においては、旭は自分の能力を信じていた。αに犯されるのは不本意だが、αを狂わせる力を持っていると捉えると、少し優位に立ったような気になれる。
「発情期まであと一週間くらい、ですね。そこで一条さんが発情すれば、彼との生活もそこまで」
崎原の言葉はなぜか旭の胸にちくりと刺さった。あとたったの一週間。発情した彼は人が変わったようなセックスをして、旭の元から消えるのだろうか。そうして、あの女性の元へ帰るのだろうか。そんな想像が頭の中に湧き起こった。
「彼との生活で何か困っていることはありますか? あと一週間でも一応聞いておきましょう」
旭はぼんやりと彼と過ごしたこれまで一週間を振り返った。
「監視カメラでも見てると思うけど、あいつやたらとベタベタ俺にくっ付いて来るんだよな……。風呂入ってるといっつも何か理由付けて覗きに来るし、ソファに並んで座るのもやたら近いし、夜のベッドだって抱き枕にされるし……」
「篠原君はそれが嫌だ、と」
「当たり前だ。最初に言ったけど、あいつが何を考えてあんなことしてくるのか分からない」
「好意の表れだとは思いませんか? いやがらせや悪意を感じる?」
旭の心臓がぎくりと跳ねた。好意――あえて意識しないようにしていた彼の空気。
「悪意は感じないけど……好意なんて向けられても……困る」
旭はたどたどしくそう答えるので精一杯だった。しかし崎原は無慈悲にも「どうして?」と会話を続ける。
「俺はαも弁護士も嫌いだから」
「どんなに好意を向けられても好きにはなれない、ということですね」
崎原の言葉に旭は小さく首肯した。
「ずっと憎んで生きてきたんだ。今更αだの弁護士だのに心を許すのは……負けな気がする」
「負け、というのは、誰と何の勝負に?」
「さあ? 俺自身とのプライドの勝負、かな」
旭は頭の後ろで手を組もうとしたが、手首の痛みに顔を顰めた。
「ああ、それ……皮が剥けてますね。血も出てる?」
崎原はそう言って立ち上がると、隅にあった洗面台で旭の傷口を洗った。旭は部屋の脇にあったベッドに座り、棚から救急箱を持ってくる崎原を見上げた。
「本当は外科の先生に診せた方がいいんでしょうが」
「いいよ、このくらいの傷。それに俺、崎原先生が一番好き」
至近距離で真っ直ぐ目を見てそう言うと、彼は少し照れたように笑った。
「それは私がβで、しかも君のフェロモンが効かないからでしょう。要は無害で安全な存在だということです」
「それもあるけど、それだけじゃない。崎原先生だけは、俺のこと人間扱いしてくれるから」
この研究所の者は皆、旭を籠の中の実験動物か、さもなければ奴隷のように扱った。そんな中、旭の待遇について声を上げてくれたのはいつも崎原だった。
「来島先生のこと、前からたまに相談を受けていたのに、あそこまでエスカレートするのを止められなかった。私がβでなければもう少し違ったんでしょうが」
彼は適当な大きさに切った薄いシートを旭の擦り傷に貼りつけた。
「崎原先生がいつαの連中に苛められるかの方が俺は心配」
「βである以前に私はまだまだ若い下っ端なので、色々言われても当たり前です。まだ若いから怒られるんだと思うことにして、相変わらず好き勝手言ってますよ」
崎原は型による差別を年齢の話にすり替える。彼のポジティブさにつられて、旭も少し笑った。
「崎原先生、いくつだっけ?」
「二十九、ですね」
「あ、アラタと一緒」
思わず言ってしまってから、旭はハッと口を噤む。シートをハサミで切っていた崎原は、そんな旭を見て満足気な笑みを浮かべた。
「せ、先生、何その顔」
「いえ、別に。一条さんのこと、すぐ思い浮かべるんだなと」
「そんなんじゃないし」
楽しそうにふふっと顔を綻ばせる崎原を、旭は俯きつつチラチラと観察した。アラタと崎原は同じ歳で、アラタも崎原もβとしてαの世界に挑んだ。結果的にアラタはαだったわけだが、育った境遇としては近いものがあるだろう。それなのに、彼らは剛と柔でまるで正反対だ。そして、旭が彼らに抱く感情も緊張と安らぎという真逆のものになっている。
「そうそう、明後日ですが、篠原君の伯父様が面会にいらっしゃるそうですよ」
「……ああ、父さんたちの命日も近いからな」
その後、この前うっかりニュースを見てしまったことや、両親の夢の話などを細々と報告し、今日の診察という名の雑談は終了となった。
旭が部屋を出るところまで、崎原はいつも見送りに来てくれる。彼と並んでドアを開けた瞬間、旭は「ゲッ」と声を上げそうになった。
「旭」
真っ先に名前を呼んできたのは仏頂面のアラタだった。
「もうすぐ終わると聞いたから一緒に帰ろうと思って」
「一緒に帰って何の意味があるんだよ。小学生の下校時間じゃあるまいし」
アラタを無視してさっさと歩き出そうとした時、崎原が声をかけてきた。
「篠原君、それ、液が漏れてきたりかぶれるようなことがあったりしたら取り替えてくださいね。お風呂の時がおすすめです」
彼はそう言って、替えのシートが入った袋を渡してくれた。
「それと、もうロープはやめましょう」
崎原の言葉に、傍にいた研究員が目を逸らす。首を傾げたアラタが研究員らの名札をじっと見て「ロープ?」と呟くと、白衣の男たちはビクビク震えた。
「先生、ありがと」
別れ際に礼を言うと、彼は「またね」と手を振った。
「何してる、行くぞ」
旭が歩き出してからすぐ、背後から研究員のそんな声が聞こえてきた。振り返ると、アラタが立ち尽くしてじっと崎原を見ていた。
「あの本、役に立ちましたか?」
アラタの向ける剣呑な空気を柳のように躱し、崎原はにこりと笑っている。
「役に立ったのかどうか、よく分からない」
アラタはそれだけ言ってから、ツカツカと旭たちの方へ歩き出した。
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