13 / 66

7.1 弁護士と囚人

 旭の陣地に同居人が増えてから一週間が経過した。 「やば、今日の夕飯何も考えてなかった」 「米ならあった」 「米だけあったってどうしようもないだろ」  朝食を終えた後、リビングのソファで食料品のカタログを見ながらそんな言い合いをする。  アラタがチャーハンを消し炭にしたあの日以降、結局彼の食事は全部旭がついでに作ってやっている。外から食事を持ってこさせても良かったのだが、「旭の作った食事が食べたい」という彼の無言の雰囲気に流されたようなものだ。  ハムや玉ねぎくらいならあったはずだからオムライスか何かにしようかと考えていると、室内にピンポンとチャイムが鳴り響いた。 「ああ、ほら、迎えが来た。早く着替えろよ」  旭の隣に座るアラタはVネックのカットソーにスキニーデニムという格好だ。彼は少し名残惜しそうに旭とカタログを交互に見てから、渋々といった様子で立ち上がった。スリムな服装と高身長の相乗効果で、スタスタとリビングを出て行く彼のシルエットは綺麗だった。  あの服は彼の職業を知る前に旭が勝手に注文したものだ。彼からすると少しラフすぎるかと思ったが、アラタ本人は旭の選んだものに満足しているようだ。もっとも、アラタの表情は相変わらず固いので、これは旭の勝手な解釈かもしれない。  すぐにアラタは白のシャツとスラックスという仕事に行くような服装に着替えて戻って来た。というより、彼は本当にこれから仕事をするのだ。  それが決まったのは二日前。外で誰かと話をして戻って来たアラタが、唐突にそんな話題を持ち出した。 「は!? 仕事? 弁護士の?」 「外出はできないが、パソコンだけなら使っていいと言われた。あのエレベータの近くにある研究者の共同部屋を使っていいらしい。あそこならネットが繋がるし、個別のブースに仕切られていてプライパシーが保たれる。もっとも、メールの通信内容には検閲が入るそうだが」 「だってここにいるだけで金もらえんだろ。何でわざわざ元の仕事までするんだよ。そっちは休んでここに来たんだろ?」  問い詰めてみても、アラタは無言だった。 「あーあー、まあ何かすっぱり休めない事情? があるわけだな? 仕事したことない俺には分からない話ですよ」  たまの面会以外では外部との通信が完全にシャットアウトされている旭に対し、αのアラタにはネットの繋がるパソコンまで供給される。旭が不貞腐れるのも当然だった。  そういうわけで、現在アラタは平日の朝から夕方くらいまで別の部屋に働きに行く。主に電話やメール、調べもの程度の内容だそうで、早ければ昼、遅くとも夕方には戻って来た。外にいた頃は朝八時始業、翌午前四時終業というような生活だったらしいので、彼にとっては仕事と呼ぶほどでもないのかもしれない。  玄関から勝手に入って来た研究員がリビングに顔を出し、アラタに「まだか」と問いかける。 「とっとと行けよ、なんでパソコン使いに行くだけなのにネクタイなんか締めようとしてんだコラ」  旭はノロノロとネクタイをいじるアラタを急かした。 「気持ちの問題だ。旭、ちょっと……」  見かねた旭は思わずソファから立ち上がってアラタのネクタイを掴みに行く。 「お前、ここに来る前は一人でやってたんだろ? 何で毎日俺がやってやらないとならないんだよ。俺だってこんなもん中学の制服ん時以来だっつの」  自分の視点ではなく向かい合わせで結ぶのはかなりやりにくいが、アラタに任せっきりにするよりは早い。できあがった結び目を正してやってから顔を上げると、じっと見下ろすアラタの視線とぶつかった。 「ありがとう。……いってきます」  彼は丁寧にそう言ってから研究員の男と共に玄関を出て行った。 「おはよう」「おやすみ」「いってきます」「ただいま」  彼はやたらと挨拶をする。挨拶はコミュニケーションの基本だと、例の本で学んだらしい。しかし旭はいつもそれにうまく返すことができなかった。何年も一人で過ごすことに慣れてしまって、そんな習慣は全部忘れてしまったようだ。  ソファに戻ってカタログのページを繰り、食料類を注文する。静かになった部屋に一人取り残されると、仕事のあるアラタと何もない自分を比較してしまい、なぜだか虚しい気持ちになった。  そんな旭をチャイムが呼び出したのは、午後になってからのことだ。 ***  二人の研究員によって玄関の外に連れ出された旭は、両手をロープで縛られていた。この前来島という医者にハサミを向けた一件を受け、警備が厳重にされてしまったからだ。紐などという細いものではなく、しっかりとした本格的な縄だ。しかもそれをかなりきつく手首に巻きつけられているため、歩く際に擦れるだけで痛みを感じた。たったこれだけの変化で、まるで看守に連れられて歩く囚人のような卑屈な気持ちになる。  検査衣への着替えがなかったことと、歩いていく方向から併せて考えると、今日の行き先はおそらくカウンセリングルームだろう。唯一人間的な扱いを受けられる検診内容であり、βのカウンセラーである崎原は旭が信頼できる数少ない医師だ。  そんなことを考えながら手首の痛みに耐えて歩いていると、アラタがいるはずの共同研究室が見えてきた。自室のない研究員や外部からの派遣の人間が自由に使えるフリースペースだと聞いたことがある。  少し先から早足で別の研究員が歩いて来て、「崎原先生がまた来ていない」などという会話が始まった。「上階にいるはずだ」とその研究員が傍にあったエレベータに乗り込み、旭と引率の研究員はしばらく廊下の隅にある柱の陰で待つことにした。  しばらくしてエレベータが降りてきたが、そこに乗っていたのは研究員でも崎原でもなく、背の高い美女だった。タイトなスーツに身を包んだ彼女は、いかにも有能なαのビジネスウーマンといった出で立ちだ。おそらく身長は旭より高い。ストレートの黒髪は明かりを反射して天使の輪を作っている。  彼女は柱の陰にいる旭らに気付くことなく、一緒に乗っていたスーツの男性に導かれて、すぐ傍の共同研究室へ入っていった。  明らかにこの研究室の関係者ではない女性と、彼女の入っていった場所から、旭は何となく嫌な想像をしてしまった。  廊下の壁際に凭れかかっていた旭は、さり気なく態勢を変えるフリをしつつ、二、三歩移動した。そこからなら共同研究室のガラス張りのドアが視界に入るからだ。そしてそこから見えたものに、「ああ、やっぱり」と納得した。  ドアを入ってすぐのところで彼女を迎えていたのはアラタだった。女性の方は背を向けていて分からないが、アラタの表情ははっきりと見ることができる。彼らは何かをずっと話していたかと思ったら、女性の方が持っていた布の包みを差し出した。アラタはそれを受け取ってから女性に何か言われたらしく、明らかに顔を赤らめて俯いた。  何だ、あいつやっぱりモテるんじゃん。っていうか、あの見た目で優秀な弁護士ってんなら、童貞とか言ってたのも絶対嘘だ。  私情を排して客観的に見ても、アラタの長身と顔は上等な部類だった。それに加えて弁護士というなら、どんなに喋りがおかしくても女性が寄ってくる。彼が意識的にそれらを断っていない限り、女性経験がゼロというのはあり得ない話だ。  旭はガラスの向こうの男女をじっと睨む。175センチはあるだろうかというスラリとしたモデルのような女性は、アラタと並んでもバランスが取れている。まだ紅潮した顔で何か会話を続けるアラタから、旭は静かに視線を逸らした。その結果目に入ったのは、惨めにもロープに拘束された自身の赤い手首だった。  しばらくすると女性が部屋から出てきた。外部の人間に見せたくないのか、研究員は旭のロープを引いて壁の柱の陰に引き込む。彼女が呼んだエレベータから、ちょうど入れ替わりに崎原医師が出てきた。女性を乗せたエレベータのドアが閉まってから、研究員と旭は彼らの元へ向かった。 「先生、お待ちしてました」 「すみませんね、来客があったもので」  二十代後半の眼鏡と天然パーマが似合う崎原医師は、いつも通りふんわり微笑む。彼はそこで旭を拘束するロープに目を止めた。 「ああ、これはほら、この前来島医師が襲われた事件があったでしょう? それで今はこうしているわけです」  聞かれるより先に研究員が説明する。 「しかしあれは、来島先生の方に行き過ぎた点があったと聞きました。被験者と実験者の間の上下関係が行き過ぎるのは、篠原君だけでなくあなたたちの心理的にもよくないですよ。スタンフォード監獄実験の話、研究者なら一度は聞いたことがあるでしょう」  崎原はそう言いながら、旭の手首の戒めを解いてくれた。 「さあさあ、診察室の鍵を開けるから行きましょう」  彼は軽やかにそう言ってから旭と研究員を促した。共同研究室の前を通り過ぎる際、ふとガラスのドアを見たが、入り口付近にはもうアラタの姿は見えなかった。

ともだちにシェアしよう!