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6.2 旭を動かす力

「もう七年も前のことだ。今更、だろ」 「でも旭はまだ忘れていない。旭は……納得していない」  無言で近寄るなという空気を醸し出しているつもりなのに、アラタは何も気にせずソファの前までやって来た。 「納得? 納得しないとならないのか? どうして? お前たち弁護士の正当化のためか?」  あの事件の犯人は心神喪失で無罪となっていた。弁護士による主張はおおむねこうだ。彼はαだったが、αの妻がΩの女に寝取られて精神を病み、清掃員にまで身をやつしていた。犯行当時も彼は精神的病と薬の副作用により心神喪失状態にあったという。  そしてまた、遺族の一部が故人の人権侵害としてマスコミに損害賠償を求めたが、それもやはりマスコミと弁護士の主張する公益性が認められていた。  あの事件の後約九ヶ月で旭はこの研究所に閉じ込められることになり、精神的な理由でニュースや新聞を見ることもできなくなってしまったため、これらの公判結果は全て面会でたまに会える伯父から聞いた話だ。  もし犠牲になっていたのがαだったら、きっとこんな判決にはならなかった。旭はそう信じたし、世間でも同じことを言う人は多かったそうだ。 「納得しなくてもいい。同じ気持ちの人は他に何人もいる」  アラタの声色は優しかったが、旭は顔も上げずに鼻で笑った。 「どうだか。皆いくら同情したところで、本気でΩの力になろうと動いた人なんていなかった。それどころか、決まりかけてたΩのための補助制度は、あの事件を受けてなぜか白紙に戻されたくらいだ。あの事件の被害者がαだったら、真っ先にαを保護する動きがあるだろうにな」 「旭がニュースを見ないから気付いていないだけで、あれから社会はΩのために変わりつつある。雇用機会の均等化や、発情期の休暇制度、それに――」 「俺には関係ない。俺はここに閉じ込められて、発情期のたびに犯されて生きていくだけだ。トイレだろうが何だろうが、俺は何でもかんでも監視されて、αはそれを見て優越感に浸る」  アラタの手が近付いてきたため、旭はそれを素早く叩き落とした。 「俺はαが嫌いだ。弁護士が嫌いだ。頼むから、放っておいてくれ」  あの事件の日、旭の中に占めていた両親のスペースがぽっかり空き、代わりにその空洞に流し込むための新しい燃料を探した。あの絶望の沼から脱出するために旭が選び取った原動力は、αと社会への憎しみだった。どうして今更手放すことなどできようか。  膝に顔を埋めて待ったが、アラタの気配はいなくならない。 「αが嫌いで、弁護士が嫌いだから……旭は俺が嫌い、なのか?」 「そうだよ! 何か文句あるか!」  大きな声を出したはずなのに、旭の声は抱え込んだ膝の間でくぐもった。 「俺は旭を虐げたαでもないし、殺人鬼やマスコミの味方をした弁護士でもない。どうしてαや弁護士だからといって、嫌いというレッテルを貼られないといけないのか分からない」 「Ωだから――ただそれだけの理由で、どんなに才能があっても俺の父さんたちは殺された。Ωだっていうだけで散々レッテル貼りされて生きてきたんだ。αにそれをやり返して何が悪い」 「自分がされて嫌だったことは、他人にもしないというのが――」  その瞬間、旭の中でプツリと何かが切れた。気が付いたら面を上げて立ち上がり、目の前にいるアラタの胸倉を掴んでいた。 「綺麗事言うなよ! お前に分かるか? Ωだって分かった途端、男も女も友達は皆潮が引くみたいに離れていった。昨日まで同じ男だったはずなのに、急に道が分かれて、選ばれた奴が弁護士だの医者だの政治家だのになっていくのに、俺は迷惑な発情するゴミだ」  中学校という群れでの生活とカーストが頭を過ぎり、旭は怒りで奥歯をギリギリと噛み締めた。 「上に行った奴には下の気持ちなんて絶対に分からないんだ。αに生まれたってだけで、あいつらは何の疑問もなく全てを手に入れる。俺はΩっていうたった一つの事実で、プライドも家族も人生も滅茶苦茶にされたっていうのに……αを憎むな、レッテル貼りするなって……? 馬鹿じゃねーの?」  αが差別するのは良くて、αが差別されるのは良くない、などというのは全く筋が通らない。旭が怒りに震えていると、アラタは居心地悪そうに視線を外した。 「少し、待ってほしい」  勢いを殺がれた旭が掴んでいた手を離すと、アラタはいそいそとダイニングのテーブルへ向かった。何をするのかと思いきや、彼は先程自分が持ってきた本をぱらぱらとめくり始める。  彼の意味不明な行動に、旭の怒りは行き場をなくしてしまった。そのままソファに座って少し待っていると、アラタが恐る恐る近付いてきた。 「旭……その……昼食は……」  いくらか頭の冷えた旭は、彼の言葉を遮るように溜め息をついた。 「食べてない。なあ、もう何も言わなくていい。確かにお前はαだからって俺に何かしたわけじゃないし、弁護士としてあの事件に関わったわけでもない。八つ当たりされるだけなんだから……だからもう放っておいてくれって言ってんだよ」  それだけ言い残してから、旭はソファの上でごろりと横になった。腕で顔を隠して、もう何を話しかけられても反応しないように心を決める。この男にいくら喚き散らしたところで、自分が惨めになるだけなのは分かり切っているからだ。  結局アラタはそれ以上何か言うこともなく、旭は目を閉じた暗闇の中で浅い眠りに落ちていった。 *** 「Ω同士で子供産んだら、またΩが生まれるって予想できなかったのかよ」  きっかけすら思い出せないほど些細なことで親と喧嘩になった時、夕食の席で旭は思わずそう言ってしまったことがある。 「皆学校で習う前から、親にαとかβの話教えてもらってたってさ。俺、父さんたちが何なのかすら知らなかったんだけど」 「それは――」  晶がそこで言葉も箸も止めたため、隣にいた奏多が先を続けた。 「旭には、Ωとかそういうこと、気にしないで大きくなってほしかったから」 「俺は少しでも早く心構えしていたかった。同じΩなら分かるだろ? 急に今日からお前はΩですって言われて、男じゃなくて女みたいな役割押し付けられて……おかしいって思っただろ?」  晶と奏多は二人でしゅんと項垂れてしまい、まるで子供である旭の方が説教をしているようになった。 「何で言い返さないわけ? Ωでもおかしいって思ったことないから? まあ、そうだよな。どっちから俺が生まれたのかは知らないけど、どっちかはΩの役割を受け入れたんだ。男のクセに」 「旭」  膝の上に両手を置いた奏多が、意を決したように旭を止めた。 「そうやって、男なのに……とか、Ωだから……って考え方の人間になってほしくなかったから、僕たちはずっと黙ってたんだ。旭は子供を産める女の人が嫌い? だから女みたいな役割だって馬鹿にしてる?」 「馬鹿になんてしてねーし、最初っから女に生まれた人が子供を産むのはいいじゃん。でも、男だったはずの人が男じゃなくなるのは別問題の大問題だろ」 「でも、性別の役割って、そんなに大事なことかな?」 「奏多……旭くらいの年頃なら、それはやっぱり大事なんじゃないかな? 四六時中エッチなことばかり考える時期なんだしさ」  突然晶が横からそんなことを言ったため、旭はパッと顔を赤くした。 「別に、そんなんじゃねーし!」  旭は大慌てで茶碗から白米をかき込んだ。 「晶……旭、余計怒っちゃったよ」 「ご飯を食べ始めたってことは、喧嘩はもう終わりってことだよ、きっと」 「反抗期ってやつかな」 「旭は生まれた時からずっと反抗期だから、きっと治らないだろうね」  向かいでコソコソと両親がそんな話をしていたが、旭には全部聞こえていた。  二人とも男なのに線が細く華奢な身体で、言葉遣いも柔らかい。そんないかにもΩといったところは、旭をたまに無性に苛立たせた。  しかしそれと同じくらい、仲睦まじい二人の姿が好きだった。憧れていたと言ってもいい。Ω同士という子供ができない型破りな組み合わせでもいいから一緒になった――その絆が羨ましかった。彼らが幸せそうだと、Ωでも幸せになれる未来があるような気がしていた。自分にもいつかこんな相手ができるかもしれないという希望的観測に近かったかもしれない。  喧嘩をした翌日も、旭は彼らが絵を描いているアトリエに行った。並んで座る彼らを少し後ろから眺めて自分も絵を描くのが、旭の日課であり安らぎだったからだ。肩を並べて絵筆を走らせる彼らは、まるで生まれた時から二人で一つのようだった。木漏れ日の差し込むアトリエの中は、空気中の埃を乱反射させてキラキラと輝き、まるで天使のいる楽園のように思えた。  まさか死ぬ時まで二人並んで座っていなくてもいいのに。  彼らの死を目の当たりにして混乱していた中、旭の心の一部はそんなことを考えていた。  現在彼らは二人仲良く墓の下で眠っていることだろう。もっとも、この研究所に入れられて以来、旭は彼らの墓参りすらできていなかった。 ***  どこか焦げ臭い匂いが鼻を擽り、その匂いの出所が夢ではないと分かった瞬間、旭はガバリと身を起こした。ソファで寝落ちしていたらしいが、身体の上にはベッドで使っているブランケットが被せられていた。  しかし今はそんなことはどうでもいい。慌てて立ち上がってキッチンへ行くと、何やら怪しい煙がもくもくと立ち上っていた。 「ちょ、な、何だこれ……!」 「あさひ……」  煙の中でアラタがズッシリと暗く落ち込んだ空気を発している。この部屋の監視員が、彼の頭上のライトだけ暗く調節しているのではないかと思うほどだ。  天井に備え付けられた煙感知器がビービーと音を鳴らしていたが、幸いにも煙だけで火は回っていないらしい。ダイニングの椅子をさっさと持ってきた旭は、天井の検知器のボタンを押して音を止めた。アラタは背が高いくせに立ち尽くすばかりで使い物にならない。旭が椅子を戻した頃には、もう煙はほとんどなくなっていた。 「チャーハンを作ろうとしたらなぜか……こうなった」  アラタはそう言いながら中華鍋の中身を見せてくる。そこには真っ黒な炭の塊がこびりついていた。 「え、いや、なんでこうなんの? っつーか何でチャーハンとか作ろうとしてんの?」  アラタが鍋をシンクに置くと、水に触れた鍋はジュッといい音を立てた。 「旭が昨日食べていた」 「だから?」 「旭はチャーハンが好きなんだと思った」 「いや、別に好きじゃねーけど」 「えっ……」  アラタは本当に真剣な顔で固まってしまった。 「うん、まあいいや。それで? 俺がチャーハンを好きだと思ったからチャーハン作って、どうするつもりだった? 俺の目の前で食べてやろうっていやがらせか」 「二人で食べようと思って」  何となく予想はしていたが、彼は健気にも旭のために料理を作りたかったらしい。旭は腕を組んでダイニングテーブルに凭れかかった。 「俺は頼んでない」 「イライラするのは空腹が原因かもしれない。喧嘩になった時も親しくなりたい時も、まず食事をしてみるといい……らしい」  そこでアラタはちらりとダイニングテーブルを見た。そこには今日彼が持ち込んで喧嘩中もパラ見していた本が置かれている。 『コミュニケーション入門 ――なぜあなたの会話は続かないのか』  本のタイトルを見て思わず目が点になった。 「何だこれ」 「今日カウンセリングの先生からもらった」 「ああ、崎原先生だろ? あの人、まだ若いけどいい先生だよな。βだし」  そう言った途端、アラタの身体が迫ってきてダイニングテーブルの上に押し倒されてしまった。 「旭は……あの先生が好きなのか?」 「え? まあ、好きだよ。βだからαみたいに横暴なこともしないしさ」  掴まれた肩や腕にぎりぎりと力が籠められる。 「βに生まれたというだけで旭からの好意が得られるのはおかしいと思う」  アラタは無表情のくせに、目だけで「ずるい」と駄々を捏ねているように思えた。 「子供かよ……。お前ってさ、本当に有能な弁護士なのか?」  旭から疑いの視線を向けられても、アラタは僅かに首を傾げるだけだ。 「有能……旭に褒められた気がする」 「褒めてねーよ! そういう噂話を聞いただけで……って、おいこら!」  気が付けば押し倒された旭の身体はすっぽりとアラタの腕の中に包まれていた。 「俺、発情期のフェロモンも何も出してないんだけど? サカってんの?」  旭は彼の脇腹をぎゅっとつねるが、全く効いていないようだった。 「旭が少し元気になった気がする」  彼は旭の匂いを嗅ぐように首筋に顔を埋めてきた。  まだ彼と出会ってからたったの二十四時間。なぜ彼がここまで自分に気を遣ってくれるのか、旭にはよく分からない。それ以前に彼は全体的にとにかく不思議な男だった。 「旭……あさひ……」  譫言のように名前を呼びながら、彼は旭を抱く腕に力を込めた。  忠犬というよりも、まるで大きな狼に懐かれてしまったような気さえする。  もしかしたらこいつも、運命の番ってやつを感じてる……とか?  そんなことを考えてしまい旭は思わず顔を赤らめた。幸いにもアラタには気付かれていないようだったが、部屋の隅の監視カメラは照れる旭をしっかりと捉えていた。

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